時刻は正子をすこし回ったところ。遅くなるから先に寝ていて、と連絡をしていたから、きっと彼女は寝ているだろう。愛しいひとを起こさぬよう細心の注意を払って玄関の鍵を開けて、扉のむこうに身を滑らせる。
そっと後ろ手で鍵を閉めた瞬間、パン、と小さな破裂音がした。
「おめでとう!」
眠っているとばかり思っていたくるみが、玄関先で小さなクラッカーを鳴らしたのだ。
「え?」
「え、って……マイトさん、今日お誕生日でしょ。おめでとう!」
「そうか。言われてみればたしかにそうだ」
まだ九日のつもりでいたが、零時を過ぎた時点で日付が変わっているから、今はすでに十日。つまりはまた一つ、年齢を重ねたと言うわけで。
こうして祝ってくれるのは心から嬉しいのだけれど、元々離れているくるみとの年齢がさらに開くと思うと、少々複雑な気分でもある。むろん、そんなことは決して口にはしないけれど。
「ありがとう。もしかして、それを言うために起きていてくれたのかい?」
「うん」
「私は幸せ者だ」
くるみに向かって大きくかがみ込み、可愛い頬にキスを一つ。
そうして私たちはふたり並んで廊下を進み、リビングへ。
「明日はどうしようか」
私のために冷たいハーブティーを淹れてくれる小さな背中に、声をかけた。くるみがゆっくりと振り返り、ふたつのグラスを手にして、こちらに向かって歩いてくる。
「マイトさん、ここ最近ずっと忙しかったから、家でのんびりしたいんじゃない? 夜は懐石予約したから、それまではゆっくりしてたら?」
「なに、これくらいならなんでもないよ」
確かに、ここ数日は休日を返上して全国各地を飛び回っていたから、実際目が回るような忙しさだった。そこでやっと取れた有給休暇が明日――というか今日――六月十日だ。そしてこの日のために、くるみも休みをとってくれている。それを無駄にするつもりはなかった。
「今、近くの美術館でロココ衣装展やってるだろ? あれ、当日券が取れたら行こうか?」
「えっ、嬉しい」
ローテーブルにグラスを置いたくるみが、私の対面ではなく、隣に腰掛けた。これは彼女が甘えたい気分でいるしるしだと、私は経験で知っている。
「その後は、国立庭園に寄って薔薇の二番花や紫陽花を見ようか」
「……それ、わたしが好きなところばかりじゃない?」
「なに。君が楽しければ、私もしあわせなのさ」
「あなたの誕生日なのに」
もう、とやや不満げにくるみが口を尖らせた。同時にふくらんだやわらかな頬を軽くつついて、私は続ける。
「庭園の後は、私の趣味に合わせて映画につきあってもらうつもりだよ。いいかい?」
「……暴力的な作品でなければ」
「もちろん。君も楽しめるヒューマンドラマさ。なかなかの名作だよ。私が若い頃流行った作品のリバイバル上映なんだけど」
「わたし観たことあるかなあ?」
「どうだろう」
続けて映画のタイトルを告げると、彼女は少し首をかしげて、「観たことない」と微笑んだ。
「楽しみだな。朝が来るのが待ち遠しい」
「まったくだ」
微笑みあいながら、テーブルの上で互いの指をからめた。
時刻は正子をだいぶ回ったところ。九日は小雨がぱらついたけれど、十日の天気はどうだろう。そんなたわいないことを語りながら笑い合える、しあわせな、誕生日の夜。
2026.6.10オールマイト誕