木枯らしのなかで

 公園内が銀杏の葉色に染まる、晩秋の夕暮れ。この時間帯にランニングをはじめとするトレーニングに勤しむことは、私の大事なルーティンのひとつだ。
 日中あたたかだった空気はすでに冷えこみ、吹く風は強かった。それでも太陽はうるわしくも紅く輝き、空はどこまでも高い。しかし今は紅いこの空も、あっという間に深い紺色に飲み込まれてゆくことだろう。晩秋の陽が落ちるのはひどく早いものだから。

 だがその時、私は前方のベンチに座る一人の女性に気がついた。
 ふんわりとした服装と雰囲気の、美しくもかわいらしいひとだ。年の頃は二十四、五といったところだろうか。

 もちろんそれだけであれば、私もたいして気にとめなかったことだろう。この木枯らしのなかあんなに薄着で寒くはないだろうかと、案ずる程度で。

 しかし、彼女のようすは明らかに普通とは違っていた。なんといえばいいのだろうか、そう、絶望だ。彼女はひどく絶望しているように見えた。すくなくとも、私の目にはそのように映った。
 涙を流していたわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ木枯らし吹きすさぶ公園のベンチで、静かに座しているだけ。それだけなのに、いやだからこそ、彼女の絶望が際立って見えたのだった。

 だから、足を止めた。このまま通り過ぎてはいけないような気がした。

 しかし相手は大人の女性だ。高校生の自分に、いったいなにができるだろう。
 いや、高校生とはいえ、私はヒーロー……この世の柱となることを志す者。明らかに困っている――ように見える――女性を放置するようなことがあってはならない。
 けれど――。

 堂々巡りする思考をもてあまし、結局のところどうしたらいいかわからず、私はさりげなくストレッチを始めた。
 だってしょうがないだろう。ランニング中にいきなり立ち止まった人間がするにふさわしい動作といったら、それくらいだ。

 ふう、とわざとらしく息をついて、私はふたたび当の女性のほうを見やった。
 ところが。

「あ」

 と、女性は私をみとめて驚いたような声をあげ、同時に弾かれたように立ち上がった。
 それは驚くべき切り替えの速さだった。瞳から鬱屈とした影が立ち消え、みるみるうちに鮮やかな輝きがうまれていくのを、私は見た。

「ねえ、あなた!」

 駆け寄ってきた女性が、なんの迷いもなく私のジャージの裾を掴む。頼りなく力も感じられないその小さな手は、ひどく冷たかった。

「もしかして、八木俊典くん?」
「え? はい……そうですけど……」
「……よかった……」
「はい?」

 そして私はますます狼狽した。よかった、ともう一度呟いた女性が私にしがみついて泣き出したからだ。
 声をあげて、子どものように。

***

「俊典くーん」
「はい」
「コーヒーおかわりちょうだい」

 はいはい、と返事をしながら立ち上がった。先ほど彼女に用意したサンドイッチとコーヒーは、すでに空になっている。

 なんて女性だろう。先ほどはあんなにも弱々しかったのに、今はびっくりするほど図々しい。初対面の男の家でここまでくつろげる女性って、なかなかいないんじゃないだろうか。

 半ば呆れ、半ば感心しつつ、彼女と自分のコーヒーをいれた。ちなみに一杯目をブラックで出したら、ミルクとお砂糖を入れてちょうだいと怒られた。そんなところも、たくましいというか図々しいというか。
 一人暮らしの男子高校生の部屋に、コーヒーメーカーなどという上等なものはない。だから彼女に供したコーヒーは、レギュラーではなくインスタントだ。それについては、さすがに文句はないようだったが。

「はい、どうぞ」

 コーヒーを手渡すと、ゆめさん――それがこの女性の名前らしい。だがこの名が本名であるかどうかも怪しいものだ。なぜなら彼女が名乗ったとき、ほんの少しの間があったから――は、にこりと笑った。

 それにしても、と、ミルク入りのコーヒーをゆっくりと口元に運ぶ年上の美人を眺めながら、心の中でため息をついた。
 見ず知らずの女性を家に上げ、コーヒーとサンドイッチをふるまってやるなんて、私は本当にどうかしている。自分でもそうは思うのだが、こうなってしまったものは仕方ない。

 あのあと、ゆめさんは私にしがみついて子どものように泣きじゃくり、寒い、お腹がすいた、家に連れてけ、と泣きわめいた。
 冷静に思い返すと、もうこれだけでびっくりなのだが、それはともかく私に触れていた彼女の手は、確かにひどく冷たかった。顔色も悪い。それに彼女が着ている服もやけに薄くて、とても十一月の終わりの服装とは思えなかった。

 お師匠から聞かされている、強大な敵オール・フォー・ワンの手の者かもしれない、とも考えた。だがそれにしてはやり方がずさんで、あからさますぎる。かの者がワン・フォー・オールの後継者である私を狙うなら、もう少し手の込んだやり方をするだろう。突然私にしがみつき「家に連れて行け」と泣きわめくような女性を、あの周到で狡猾だという敵が仕込みに使うはずはない。
 美人局の一種だろうかとも考えたが、そういうヤカラが狙うのは、もう少しお金を持っていそうな層だろう。どこぞの御曹司ならともかく、ごく普通の高校生を狙う間抜けな美人局など、まずいない。

 とまあ、私なりにいろいろ考えて、放置することはできないと判断したのだ。
 根津先生やお師匠に知られたら怒られそうだが――でもあのひとたちは面白がるかもしれない――温かい部屋で、温かい服を着せて、温かい飲み物を飲みながらゆっくり話を聞くことが、最善のように思われた。
 そして、今がそのタイミングであるだろう。
 なにしろ彼女は、私に飲み物のおかわりを要求するほどリラックスしきっている。

「ゆめさん」
「なあに?」

 顔をあげ、こちらを見つめる瞳がまぶしい。何故だろう。年上のひとのはずなのに、気まぐれな子猫を相手にしているような気分になってしまうのは。

「先ほどのお話の続きなんですけど。おうちに帰れないって本当なんですか?」

『家に帰れなくなっちゃってね。途方に暮れていたところだったの』
 公園からアパートまでの道すがら、ゆめさんは悲しげにそう言った。
 東京ほどではないが、このあたりは交通の便がいい。山の中でもあるまいし、大の大人が家に帰れないというのはおかしなことだ。よほど遠くから――たとえば無理矢理に――連れてこられたのなら別だろうが。
 しかし『おうちは遠いんですか?』という私の質問に、ゆめさんは『……近いと言えば近いし……遠いと言えば遠いのよねぇ……』と、ひどく曖昧な返答をした。

「うん、本当。帰り方がわかんないのよ。時間が経って、個性の影響が切れれば帰れるとは思うんだけど……」
「……ということは、個性事故ですか?」
「たぶんそうだと思う。なにしろあっという間だったから……ちょっと訳ありの個性持ちの子と一緒に階段から落ちたら、こんなことになっちゃってね」

 こんなことがどんなことかは詳しくはわからないが、たとえば記憶の一部を失ったということだろうか。

「それなら警察に行きましょう。お身内が捜索願いを出している可能性もあります」

 うーん、とゆめさんは軽く眉を寄せた。

「警察でどうにかできることとも思えないのよ……」
「だったら――」

 個性の影響が消えるまで警察で保護してもらいましょう、と続けようとしたその上に、軽やかな声がかぶさった。

「だから悪いけど、少しの間、あなたの家で生活させてもらってもいいかしら?」
「はい?」

 なんだこのひと。本当に大人か?
 二十代半ばだと本人は言っていたけれど、あまりに危機感がなさすぎる。見ず知らずの男の家に泊まるだなんて、いくらなんでも無謀すぎないか。
 それとも私はそんなに幼く見えるのだろうか。たとえばその……男性としての機能がまだ未熟だとか。そういうふうに。
 もしそうであるとしたら、きちんと伝えねばならないだろう。
 私がその気になれば、いつでもあなたに脅威を与えることができるのだと。

「それは無理でしょう。私は男で、あなたは女性だ。言っている意味はわかりますよね?」
「そうよ、わたしはかよわい女。そんな弱い女を、あなたはこの寒空の下追い出すの?」
「いや、ですから警察に相談したらどうかと提案しているんです、私は」

 ゆめさんは私の声を無視して続ける。

「わたし家に帰れないのよ。それがわかっていて追い出そうとするなんて、ヒーロー志望の青年のやること? そのジャージ、雄英のでしょう? 困っているひとみんなを救けるのがヒーローなはずなのに、今、わたしを見捨てたりしたら雄英高校ヒーロー科の名が泣くわよ! わたしいまめちゃめちゃ困ってるんだから! ……ほんとうに……こんなに不安でしかたないのに……そんなわたしを見捨てるなんて、ひどいわ!」

 一息に言って、ゆめさんはふたたびしくしく……いや、おんおんと泣き始めた。
 ゆめさんはかわいらしい見た目のわりに、どうもふてぶてしいところがある。それはこの短い時間でよくわかった。
 それなのに、なぜか私はこのひとに泣かれると弱い。どうもこう、庇護役をかき立てるというか、放っておけないというか、こちらに守ってやりたいと思わせるような不思議な吸引力みたいなものがゆめさんにはある。

 だからランニングの足を止めたし、家にも連れてきてしまった。その時にこうなることが予測できなかったかと問われると、否と応える他はない。そう、なんとなくこうなるんじゃないかという気はしていた。わかっていて、突き放すことが出来なかった。今の状況は、私自身が招いたことだ。

「だって……手放しで、いてもいいとは言えませんよ」
「え? じゃあ条件しだいではいてもいいってこと? いいのね? ありがとう!」

 本当に押しが強いなこのひと。
 たじたじになりながらも、私は続ける。

「数日ならいてもいいですけど、ずっととなると困ります」

 そう、気の毒だが、ずっとここにおいてあげることはできない。
 個性の影響はいつ消えるかわからない。早ければ数秒後かもしれないが、最悪の場合、このまま消えない可能性もある。さすがに本人の前でそれを口にすることは憚られたが、そんな明日をも見えない生活を、延々と続けるわけにはいかなかった。

 するとゆめさんはかるく眉をさげ、そうね、とつぶやいた。そのようすはひどくかなしそうで、少し、心が痛んだ。

「二日……二日間だけここに置いてちょうだい。それまでに戻れないようなら、自分から警察に行くから」
「二日ですか……それならなんとか……」
「ありがとう! これからよろしくね」

 さきほどまでの悲しそうなようすが嘘のように、ゆめさんはにっこり笑った。そしてすっくと立ち上がった彼女は、空になったマグカップと皿を手にキッチンへと向かう。
 キッチンと言っても、コンロが一つと流し台があるだけのしょぼいスペースだ。脇には冷蔵庫があって、その隣のラックには炊飯器と電子レンジが置いてある。
 そしてゆめさんは私に向き直り、にこやかに告げた。

「お礼に、今日はお姉さんがごはんを作ってあげましょう」

 いやけっこうです、あなた料理できそうにないし。
 そう断るつもりだったが、ゆめさんはちゃっかり冷蔵庫をあけて中身を物色しはじめた。
 なんなんだよ、本当に。ひとの家の冷蔵庫を勝手にあけちゃいけないって、教わらなかったのか。大人のくせに。

「わー、お肉がいっぱい入ってる。やっぱり若いのね。ん、お野菜もたくさん入ってるじゃない。えらいえらい。お魚は……、あっ、サンマがある。秋はやっぱりサンマよね! 俊典くん、若いのにちゃんと栄養バランスとか旬のものとか考えててえらーい!」

 なんだか母親みたいだなぁと思ったけれど、さすがに口には出さなかった。きっとこのひとは、そんなことを言ったら烈火のごとく怒るだろう。

「大根とサンマを煮ようかな。でも圧力鍋がないから、今からだとちょっと間に合わないか……それは明日にするとして……」
「私は煮魚より焼き魚のほうが好きなんですが……」
「いいから! サンマ大根、あなた絶対好きなはずだから!」

 なんでそんなこと断言できるんだよ、と思いつつ、言い争うのも面倒なので、わかりましたと私は答えた。
 本当に最初っからずっとこんな感じだ。どうして私はこんなにこのひとに弱いんだろうか。

「明日はサンマ煮るとして、今日はどうしようかな……」
「今日は肉にしてください。肉が食べたい!」

 ゆめさんにメニューを決められる前に、こちらからそう切り出した。そうしないとまた彼女に押し切られてしまうと思ったからだ。

「お肉が好きだったのね。わかった。じゃあ鶏肉使って唐揚げにでもする? 好きでしょ?」
「好きです」
「あと食事の傾向としては、さっぱりあっさりしたものを品数多くちょっとずつ食べる、みたいなのより、品数は少なくてもいいから一品のボリュームたっぷり……が好き?」
「そうですね。ちなみにジャンクフードも好きですよ。筋肉を作るためには高タンパク低カロリー食がいいのはわかっているんですけど、それだけだと物足りなくなっちゃって……」
「そうよね、若いもんね」

 と、しみじみゆめさんが言った。そう若い若いと連呼されると、なんだかちょっと恥ずかしい。第一、ゆめさんだってまだまだ若いじゃないか。

「これから用意するから、俊典くんはトレーニングの続きをしてきたら? わたしが邪魔をした形になっちゃったでしょう?」

 どうすべきか一瞬迷ったが、部屋に盗られて困るようなものは特にない。だから「はい」と小さく答えた。するとゆめさんは満足そうな顔をして、「さあ、行った行った!」と、私を外へと押し出した。
 どこまで押しが強いんだろうか……。本当にずぶといひとだなぁと、妙に感心してしまった。

***

 驚くべきことに、ゆめさんは料理がうまかった。ほんとにほんとにうまかった。

 約束の鶏の唐揚げは二種類。ひとつは生姜をきかせた醤油味のもので、もう一つはコーンフレークの衣をまとった塩味のもの。醤油味はとてもジューシーで、塩味のほうはクリスピーな食感が楽しい。それにキャベツの千切りが山盛り添えてあった。
 個人的にはこれに白米がたっぷりあれば充分なのだが、ゆめさんは他に、にんじんやハムなどが入ったポテトサラダと豆腐のきのこあんかけまで用意してくれた。
 汁物は味噌汁で、具はなすと油揚げと葱。なすは一度素揚げしてあり、口にいれるとほろりととろける。

 どれもけっこう量があったのに、私はぺろりと食べてしまった。
 その様子を呆れ顔で眺めていた――もちろん自身も食事をしながら――ゆめさんが、しみじみとつぶやく。

「やっぱり若いのねぇ……大きくなるわけだわ」
「ゆめさん、その言い方だと、なんだか親戚のおばさんみたいですよ」
「せめて親戚のおねえさんって言ってくれない?」
「すみません。それはそうと、ごはんとても美味しかったです。ごちそうさまでした」

 顔の前で両手を合わせてから、食べ終わった皿を片付けるために席を立つ。と、ぐい、とジャージの裾を引かれた。

「なんです?」
「ちょっと、隣に立ってみてくれない?」
「はあ。これでいいですか?」
「うん。今、二メートル弱ってとこ?」
「ですね。ここまできたら二メートルは欲しいところなんですが」
「大丈夫、まだまだ伸びるわよ」

 うふ、とゆめさんが笑んで、私の頬に向けて手を伸ばしてきた。
 どうしよう……いや、どうもこうもない。この手は振り払うべきだろう。ヒーローの卵が要救助者にふらちな真似をするわけにはいかない。
 けれどこのとき、私の身体は私の意思を裏切った。いや、正直であったと言うべきか。
 私は、その細い指で触れられたいと思ってしまったのだから。

 立ちすくんだまま、先の行為を待ち続ける私ににこりと微笑んで、ゆめさんは手を止めた。
 私の頬に触れる直前で。すこしかなしそうに、私を見つめながら。

「お肌、すべすべなのね」
「は?」

 なんだよそれ。勘違いしちゃったじゃないか。こういうのは本当にやめてほしい。なにしろこっちは、健全な精神と肉体を持った青少年なんだから。

「さ、片付けちゃいましょ」

 ゆめさんは私の想いなどまったく意に介さないふうで、笑いながら背を向けた。

***

「ゆめさん、大変です」

 いざ寝る段階になって、さも初めて気がついたかのように私は言った。
 本当は、最初からわかっていたことだ。ただどう切り出したらいいのか、思いあぐねていただけで。

「なあに?」
「布団が一組しかありません」
「あー。若い子の一人暮らしだもんね。じゃあさ、一緒に寝ればいいんじゃない?」

 さも簡単なことのように、ゆめさんがさらりと告げた。
 いやいやいやいや、待て待て待て待て。それはさすがにまずいでしょ。

「バカ言わないでください」
「もしかして、俊典くんって童貞?」

 童貞か、だって? なんてことを聞いてくるんだ、このひとは。
 そうだ、そうだよ、そうですよ。私はいまだに童貞です。っていうか、十七歳で童貞ってそこまでおかしなことじゃないだろ。
 もうすませている同級生もいるけれど、私はまだだ。
 したいはしたいよ。ああ、本当に。でも、ぶっちゃけ今はそれどころじゃない。私はこの世を支える柱に、すべてを救う者オールマイトにならなきゃいけない。だから私には、女の子と腰をすえてじっくりつきあう時間なんてないんだよ。

 と、頭の中でぐるぐると思考を巡らせつつ――実際には一言も言葉にはできず口をぱくぱくさせながら――私はちいさくうなずいた。
 するとゆめさんは、ちょっと目を細めて、うふ、と小さく笑った。

 やめてくれよ。その変に色気を含んだ微笑み。
 なんてったって、こっちはやりたい盛りの思春期男子なんだから。

「じゃあ、今そういうことをしたら、わたし、あなたの初めての女性になれるのね」

 しみじみとした、それでいてどこか嬉しそうな言い方に、無性に腹が立った。

 誘惑じみたことを言われたからではない。正直、本気で誘惑されたほうがよほどよかった。
 相手が遊び慣れた女性であるのなら、こちらもいつまでもいい子ちゃんでいる必要はない。じっくりつきあう時間はないが、刹那的かつ退廃的にすごす短い時間なら捻出できる。たがいに遊びだと割り切って、楽しませてもらえばすむことだ。

 だがゆめさんからはそういう雰囲気は感じられなかった。彼女はおそらく、私が手を出さないことを前提に、話しているのだ。
 おそらくは軽い気持ちで言ってみただけ。こっちがその気になったら、きっとさっきみたいに泣いたりわめいたりするのだろう。目に浮かぶようだ。
 それじゃあこっちは、正論を述べるほかないじゃないか。

「……そういうことは本当に好きな人としかしちゃいけないんです。あなたも、もっと自分を大切にしてください」

 すると、とたんにゆめさんのようすが一変した。
 愛らしい顔から、からかうような表情が消えた。彼女は悲しみに耐えるように眉を寄せ、次に切羽詰まったように唇を引き結んだ。続いて印象的な瞳にじわっと水の膜が張り、それがみるみるうちにこぼれ落ちる。

 えっ、なんで? どうして? 今ので泣くの?

 いきなりのことに途方に暮れてしまった私の隣で、ゆめさんはぽろぽろと涙を落とし続けた。細い肩を震わせて。
 それは先ほど彼女が見せた子どもみたいな泣きかたとはまったく異なる、切なげなもので。
 仕方なく、私は彼女が泣き止むのをただ待った。
 私がもう少し大人だったら、震えるこの肩を抱き寄せて、気の利いた言葉を囁くことができたのだろうか。

 ゆめさんはひとしきり泣いて、やがて突然泣き止んだ。そして、ぐい、と涙を拭い、顔をあげた。きっぱりとまっすぐにこちらを見つめてくる彼女は、やっぱりきれいだ。

「ちょっといろいろ思い出してしまったものだから……びっくりさせてごめんね」

 てへ、とゆめさんは舌を出した。まるで小さな女の子みたいに。

「いずれにせよ、布団が一組しかないなら、布団を分けるしかないでしょ」

 と、まるで自分の部屋の自分の布団のように彼女は言った。
 そしてゆめさんは勝手に押し入れを開けて、布団をばさばさと出し始めた。今の今まで泣いていたのが嘘のようだ。

「あ、ちゃんとマットレスも使ってるんだ。ちょうどいいね。本当に悪いんだけど、敷き布団とマットレスとで分けましょう。上掛けは掛け布団一枚を使うひととと、毛布と夏掛けを使うひとに分けるっていうのはどう?」

 はあ、と私は曖昧な返事をした。
 ほらな、やっぱり一緒に寝るつもりなんかないんじゃないか、と心の中で悪態をつく。それが顔に出たのだろう。ゆめさんが眉を下げながら続けた。

「ごめんね。たぶん睡眠も身体作りの一環として大事にしてるんだと思うけど、二日間だけのことだから、納得してもらえない?」

 そっちじゃないよ、と思いつつ、はい、と小さく私は答えた。



 その夜、私はゆめさんと同じ部屋で眠りについた。
 木枯らしと共に現れたこのひとは、いったい何者なんだろう。
 なぜこのひとは、私の名前を知っていたんだろう。
 そうしたすべての疑問を、頭の隅においやったまま。

2021.11.19
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月とうさぎ