薄月夜

 冬のように凍えるほどではなく、空気が適度に冷たい晩秋の朝。からりとした空気が心地よく、思わずうーんと身体を伸ばす。
 と、隣で寝ていた女性が、ごろりと寝返りを打った。
 そうか、今日はひとりじゃなかったんだ。あぶなく起こしてしまうところだった。
 しかし、と内心でひとりごちる。

 なぜ昨日、私はこの人を受け入れてしまったんだろうか。見ず知らずの人を泊めてしまうなんて、どうかしている。どうかしているのはわかっているのに、何度考えてみてもこのひとを追い出すという選択ができない。一夜あけた今となっても。
 それはどうしてなんだろう。

「ん……」

 気配を感じたのか、ゆめさんが眉を寄せた。

「ま**さん……」

 薄桃色のくちびるから漏れたのはーーおそらく男のーー名前だった。

 そうだ、知っている。最初からわかっていたことだ。
 きっと今のは、ゆめさんのご主人の名前。

 ゆめさんは結婚している。いや、直接たずねたわけじゃないけれど、していると思う。何故って? 彼女は左手の薬指に指輪をしているから。
 ゆめさんは図々しいしずぶといけれど、不思議な吸引力のあるひとだ。だからきっと、ご主人もカッコいいひとに違いない。
 そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。

 自分の中にいきなり生じた負の感情に、私は驚き、無意識に身構えた。身構えたところで戦う相手なんかここには一人もいないのだけれど、何故かそうしなくてはいられなかった。

 数秒経って己のとった行動のばかばかしさに気がついて、なにやってんだと心の中で悪態をつく。

 まったく、ほんとに、私はどうしちまったんだ。
 昨日会ったばかりの、よく知らない女の人が結婚しているかどうかなんて、本当にどうでもいいことじゃないか。

 無意識に大きくため息をついて、そして次にぎょっとした。
 ゆめさんがむくりと起き上がったからだ。

「俊典くん、おはよう」
「お……おはようございます。起きてたんですか?」
「ううん、今起きたとこ」

 朝ごはんにしようか、と爽やかにゆめさんは笑い、私は軽く眉を上げた。

 めちゃくちゃ寝起きがいいな、この人。しかも朝起きてすぐ飯食うのかよ。まあ、私もそのタイプなので助かるけれども。

「わたしがごはんつくるから、俊典くんはお布団畳んでコーヒー淹れて」

 ゆめさんがもそもそと布団から出る。それを見て、私はぎょっとした。
 彼女は長袖のTシャツ一枚しか着ていなかったからだ。
 昨夜風呂上がりに、私のTシャツとハーフパンツを渡したはずだ。パジャマ代わりにとしてくださいと告げながら。
 それなのにハーフパンツはどうしたんだよ。あれならウエストにヒモがついてるから、それを結べば着られるはずだろ。
 っていうか、寝る前はちゃんと着ていたじゃないか。

「ゆめさん!」
「なに?」
「ハーフパンツどこやっちゃったんですか? あれはいてください!」

 ゆめさんは一瞬きょとんとし、次に自分の足を見下ろして「いやだ、脱げちゃってる」と呟いた。
 脱げちゃってるじゃないんだよ、と呆れていると、ゆめさんはあっけらかんと笑いながら布団に戻って、ハーフパンツを探しはじめた。
 たしかに私とゆめさんとでは、かなりの体格差がある。だからゆめさんが着た私のシャツは、丈の短いワンピースみたいに見えなくもない。
 けれどやっぱり、シャツのすそからにょっきりのぞく白い足は、青少年には目の毒だ。「どこかな〜」だなんて言いながら、無防備にかがむのもやめてくれ。お尻が見えちゃったらどうするんだよ。
 ――まあ、私のシャツはやっぱり彼女には大きくて、残念ながらお尻は見えなかったんだけれども、それにしたって無防備に過ぎる。
 目のやり場に困った私は大きくため息をついてから、彼女にくるりと背を向けた。

***

 昨夜の木枯らしが嘘のような、風のない穏やかな秋の昼下がり。やわらかな日差しに照らされた公園は、ぽかぽかと暖かい。
 だがそんな過ごしやすい日だというのに、公園内には人気がなかった。
 もちろんそれには理由がある。数日前この公園で、若い女性が白昼堂々拉致されそうになったからだ。幸い未遂ですんだものの、近隣住民はその大胆さに震え上がった。
 昨日ここでゆめさんを見かけたとき、見過ごせないと思ったのはそのせいでもある。

 この国の治安はこんなにも悪い。この地域だけでなく、だいたいどこもこんな感じだ。事件は多く、人々の表情は暗かった。未来に希望が持てないからだ。
 だからこそ私は平和の象徴になりたい。そこにいるだけで人を安心させられるような、絶対的な存在に。
 皆が笑って暮らせる世の中をつくりたいんだ。

 それなのに、どうして私は、このひとをここに連れてきてしまったんだろう。
 トレーニングに素人の女性を連れてくるなんて初めてだ。



 絶対に邪魔はしないから、とゆめさんは言った。
 それに対し、私は腕組みしたまま眉を寄せた。自分が流されてしまうことが、すでにわかっていたからだ。

「どうしても見たいの」

 私はちいさくため息をついた。

「そんなに言うんならいてもいいですけど、絶対に私から離れないようにしてくださいね」
「真夜中じゃあるまいし、俊典くんって心配性ね」
「何言ってるんです。昨今は昼間も油断出来ないんですよ。先日もあの公園で拉致未遂事件があったばかりなんです。あなた昨日、ひとりであそこにいましたけど、何もなかったのが不思議なくらいなんですよ」
「……そんなに?」

 おびえた声でゆめさんが呟き、私は静かにうなずいた。
 ふと、この人はいったいどこから来たんだろう、という疑問が湧いた。だってそうだろう、この国の大人で、ここまで昨今の情勢に疎い人はあまりいない。
 ゆめさんは形の良い眉をよせ、ちいさく息をついた。

「……そうか……わたしのいたところでも不穏になりはじめてるのを感じてたけど、ここのほうがずっと治安が悪いのね。そうよね……まだ……」

 まだ、のあとに続いた言葉をゆめさんは飲み込んだ。彼女はいったい何を言おうとしたのだろうか。



「俊典くん! ちょっと質問いいですか?」

 今朝のやりとりを思い出していたところに、ゆめさんの声が響いた。なんですか、と応えて振り返る。
 邪魔しないって言ってたのにな。やっぱりこうなったか。

「それは何? 空手の型みたいなもの?」
「型とはちょっと違うかなぁ。シャドーです。敵がいることを想定して戦う練習ですね。お師匠がいるときは組手をしてもらえるんですが、今日は別の地域で仕事があるらしくて」
「お師匠さんって、どんなひと?」
「優しくてきれいな人です」
「ふうん」

 ゆめさんはとたんに不服そうな顔をした。ぷうっとふくれて、まるで小さなフグみたいだ。

「なんでそんな顔するんです?」
「面白くないじゃない。なんとなく」

 なんで、とたずねようとしてやめた。きっとゆめさんは教えてはくれないだろう。
 なんだかやきもちを妬いてもらっているような、ちょっとくすぐったい雰囲気もある。せっかくだからそう受け取ろうと思った。
 へたにたずねてまったく違う答えが返ってきたら、期待した分だけ、私は落ち込んでしまうだろうから。
 本当に馬鹿げていると思う。ゆめさんは――おそらく――結婚しているのに。
 それなのに、出会ったばかりの風変わりな年上のひとに、こんなよくわからない気持ちを抱いてしまうなんて。
 私がどんな心持ちでいるか、まったく気づいていないだろうゆめさんは無邪気に続ける。

「お師匠さん以外のヒーローにお世話になることはないの?」
「ありますよ。お師匠のお友達に、とても強くてすごく早くてそしてとんでもなく怖い人がいるんです。その人にはいつもフルボッコにされてしまう」
「怖いんだ」
「怖いですね。トラウマものです」
「そんなに?」
「ええ、そんなにです」
「そう……」

 どこか遠い目をして、ゆめさんが笑った。
 笑っているはずなのに、ゆめさんからは失ってしまったものを懐かしむような、どこか切なげな雰囲気が滲み出ていて、私も少し、悲しくなった。

***

 夕飯は前日からの宣言通り、サンマと大根の煮物だった。副菜は茶碗蒸しときんぴらごぼう、汁物は味噌仕立てのけんちん汁――国清汁と言うらしい――だ。
 サンマは焼くに限るだろ、と内心で呟きながら箸をつけ、煮物を口の中に放り混んだ。
 軽く咀嚼しただけで、骨までほろりと崩れるその青魚は、柔らかいだけでなくしっかり味が染みている。もちろん、飴色の大根も同様だ。味付けも濃すぎず薄すぎず、ちょうどいい塩梅。

「……うまい」
「でしょ。だから絶対好きなはず、って言ったじゃない」
「はい。すみませんでした」

 私は素直に頭を下げた。ゆめさんが満足そうに微笑む。

「わかってくれればいいのよ。ただきんぴらと煮物、どっちもお醤油味になっちゃって、それはわたしの失敗かな。ごめんね」
「そんな……そんなこと気がつきもしませんでした。どっちもすごく美味しいし」
「ありがと」

 そうこたえたゆめさんが、不意に切なげな顔をした。彼女が視線を向けているのは、つけっぱなしにしていたテレビだった。
 流れているのは古い曲だ。男が婚約者の女性にああしろこうしろと指図するような歌詞で、正直、高校生の私にはこの曲のよさがよくわからない。

「この曲、好きなんですか?」
「うーん、女からしたらふざけんじゃないわよって感じの歌詞よね」

 微笑みながら彼女は続ける。

「ただ最後がちょっとずるいのよ。命令口調で散々言っといて、最後の最後で生涯愛する女はおまえひとりとか言うの、アレはずるいわ」

 私は軽く眉を寄せた。ゆめさんがいま誰のことを想っているか、なんとなくわかってしまったから。

「……ご主人もそういうタイプなんですか?」
「え?」

 と、ゆめさんは目を丸くした。なんでわかったの、って顔だった。

「指輪してるじゃないですか」

 私は右手で自分の左手の薬指を指す。するとゆめさんは小さく「ああ」と呟いて、そして軽く目を細めた。

「命令口調で指図する人じゃないわね。ただ我が道を行っちゃってるところはあるかな」
「自己中ってことですか?」
「うーん。自己中とはちょっと違って……信念の人、って感じかな。信念のために無理を重ねてわたしを悲しませるけれど、唐突に『私が生涯かけて愛するのは君だけだよ』みたいなことをさらっと言って、喜ばせてもくれちゃうようなひとなの。ずるいでしょ」

 ゆめさんは少し困ったような、それでもどこか幸せそうな顔で微笑んだ。
 初めて見る表情だった。それは、恋する女のひとの顔。
 ゆめさんにこんな顔をさせるご主人って、いったいどんな人なんだろう。

「俊典くん?」

 ゆめさんがのぞき込んできた。
 だから顔近いって、と内心で呟き、同時に思ったことを口にした。

「ご主人、けっこう年上なんですか?」
「なんでそう思うの?」
「ゆめさんみたいなタイプの人と結婚できるくらいだから、けっこう大人なんだろうな、と思って。ゆめさん、自由すぎるじゃないですか」

 ずぶといし、という言葉を飲み込みながら私は言った。するとゆめさんはさも心外だというふうに、口を大きくへの字に曲げた。

「そんなことないわよ。わたしほど尽くす女もいないんだから。ただそうね、年はけっこう離れてるかな」
「三十過ぎくらい?」
「五歳なんて、大人になっちゃったらたいした年齢差じゃないわよ」
「え……じゃあ三十代半ばくらいですか?」
「もっと」
「そんなに離れてるんですか?」

 少し驚いてそう告げると、ゆめさんは小さく息をついた。

「ねえ、俊典くん、アイス食べたくない? 買いに行こ?」
「……私は別に食べたくないですけど」

 それにご主人の話が途中なんですけど、と言いかけてやめた。ゆめさんが話をそらそうとしていることに、気づいてしまったからだ。

「わたしが食べたいの」
「ほんっとに自由ですよね、あなた」
「じゃあ一人で行く。なにがなんでも食べたいもん」
「それはだめです。昼間も危ないって言ったでしょう?」
「そうだった……」

 ゆめさんは大きく肩を落とした。
 あれ、話をそらしたいんじゃなくて、本当にアイスが食べたくなっただけなのか?
 あからさまにがっかりしているようすをみていると、こちらが悪いことをしているような気がしてしまう。そして私は、そういう雰囲気にすこぶる弱い。

「じゃあ、一緒に行きますよ」

 ぱあっと花が咲いたように、ゆめさんが笑った。
 本当になんてひとなんだろう。私よりずっと年上なのに、無防備でわがままで気まぐれで、なんだか子猫みたいだ。
 とすると、彼女から見た私は、絶対牙をむいたりしない、従順でおとなしい大型犬ってとこなんだろうか。

***

「さむーい」
「……言うと思いましたよ。ほんとに子どもみたいな人だなぁ」

 私のスカジャンを羽織ったゆめさんに、そう告げた。この時期は日中は暖かくとも、夜になると一気に気温がさがる。

「でもほら、見て」

 とゆめさんが空を指さした。その先には、薄い雲がかかってほのかに光る月がある。

「晩秋の月、って感じでちょっと素敵じゃない?」

 そうですね、とひくく答えた。
 このあたりは人通りがすくなく、街灯があまりない。ほんのり光る月の下、二人だけで歩く道路は、たしかにとてもロマンチックだ。
 こんな月の夜をなんて言うんだっけ。朧夜……いや、それは春だっけか。
 ああ、そうだ。薄月夜。ほのかな月明かりの夜を、そんなふうに言うんだ。

 と、その時、ゆめさんがずるりと足を滑らせた。
 転ばないよう左手で身体を支え、そのまま強引に小さな手を握り混む。ゆめさんが息を飲んだのがわかった。

 その瞬間、不意に闇が濃くなった。月が厚い雲の下に隠れたからだ。
 街灯のない道、月のない夜は存外暗い。東京からこちらに越してきたとき、ひどく驚いたものだ。都内には街灯のない道がほとんどないから。
 けれど今は、それが少しありがたい。この暗がりであれば、自分がどんな顔をしているのか、見られずにすむ。

「俊典くん?」

 私は返事をしなかった。
 するとゆめさんは小さく息をついて、手首をひねりながら私の手の中で指を動かしはじめた。振り払われるのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
 もそもそと動く小さな手は、巧みに動き続ける。そして彼女は私の指に自らの指を指をからめるように、つなぎ直した。
 大きく心臓が跳ね上がる。これは俗に言う、恋人つなぎ。

 なんてこった、と内心で呟いた。
 もう、自分の気持ちをごまかせそうにない。ちょろいと言われようが、幼いと言われようがかまわない。
 私はゆめさんが好きだ。もうどうしようもないくらい。

 私たちはたがいになにも言わず、歩を進めていった。けれど唐突に、周囲がほんのりと明るくなった。厚い雲が動いて、再び月が姿を見せたのだ。
 うっすらとした雲をまとった金色の月が、柔らかな光で私とゆめさんを照らしだす。と、するりとからめられた指がはずされた。
 思考を続けながら、私もさりげなく手を離す。

 どんなに好きだと思ったところで、受けた個性が解除されたら、ゆめさんはもといた場所に戻ってしまう。それは来た時と同じように、彼女の意思ではどうにもならない。しかもゆめさんは既婚者だ。だから戻った後も会いたいと言うことは、きっと許されないだろう。
 ならば今だけ、個性の影響が続く間だけでもいいから、うちに残ってもらえないだろうか。

「ゆめさん」
「なに?」
「はじめは二日だけって言ってたけれど、ずっとうちにいてもらえませんか?」

 思いきってそう告げた。ありがとうと言ってくれることを期待して。

「そういうわけにはいかないでしょ」

 私の想像に反して、ゆめさんは静かに告げた。

「……いつ戻れるかわからないのに、ずっとあなたに世話になるわけにはいかない」

 それは、消え入りそうなとても悲しい声だった。
 どうして私は、今まで気づかなかったんだろう。
 いきなり知らないところに飛ばされたのだ。しかも飛ばした相手の個性について、詳しく知らない状態で。
 精一杯明るく振る舞っているけれど、ほんとうは不安でたまらなかったはずだ。高校生の私に救けを求めてくるくらいに。
 自分ではしっかりしているつもりでいたけれど、やはり私はまだ至らない子どもだ。
 けれど――。

「お金だってかかるのよ。わたしね、小銭しか持っていないの。それこそ、アイスを数個買える程度の額よ。働くとしたって、すぐってわけにはいかないし」
「……でも、ゆめさんも昨日『警察でどうにかできるとは思えない』って言ってたじゃないですか。だったら、うちの学校の先生に相談してみるのはどうでしょう。素晴らしく優秀な頭脳を持った先生がいるんです」

 けれど私は、警察よりも適切なアドバイスができ、なおかつこの問題に対処できるかもしれない頭脳と人脈を持っている人物……いや動物を知っている。

「……根津……先生?」
「ご存じでしたか」

 個性ハイスペック。人間以上の知能を持った根津先生は、唯一無二の存在だ。

「相談してみましょう。……根津先生ならなにかしらいい方法を考えてくれるかもしれない。それを踏まえて言います。帰れるめどがつくまで、私の側にいてください」

 根津先生のことだ、事情を話せばきちんと面倒をみてくださるに違いない。
 先生に相談する以上、私とゆめさんが一緒に住むのは難しくなるかもしれないが、近くで生活できるよう配慮してもらうことはきっと可能だ。

「……根津先生か……」

 ゆめさんは少し考え混むような顔をして、そして続けた。

「……それなら、根津先生に会わせてもらえないかな。直接話をしたいの」
「それはもちろん。では明日、学校で話をしてみます」
「ありがとう」

 ゆめさんが印象的な瞳でまっすぐに私を見つめ、私は彼女に笑みを返し、天を仰いだ。視線の先に輝くのは、うっすらと靄がかかったロマンチックな秋の月。

「行きましょうか」
「ん」

 そして私たちは小さく微笑み合ってから、再び歩き出した。
 晩秋の薄月の下を。

2021.11.27
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月とうさぎ