わたしが企画立案し実行していた仕事を、最後の最後で横取りされた。本来あってはならないことだが、ある程度大きな組織に所属していると、こういうことはたまにある。
見ている人は見ていてくれているだろうし、すでに結果が出てしまった以上、割り切るしかないということもわかっている。それでもやはり、もやもやとした黒い気持ちは残っていた。
嘆息しながら空を見上げた。繁華街に沈む夕陽は常よりも赤く、都会の狭い空を朱に染めながら沈んでゆく。
見事な夕焼けを横目で見ながら進むわたしが目指すのは、大好きな人の形を模した、小さなビルだった。
彼――ファットガム――は、たしか昨夜からの夜番勤務で、遅くとも昼には仕事を終えているはずだった。とはいえ、きっと疲れているだろうから、あまり長居はすまい。声が聞け、顔を見られるだけでいい。彼の笑顔が見られればそれで。
そう思いながらファットガム事務所に面した道路にさしかかると、ちょうどタイミング良く、大柄なヒーローが自らを模したビルから姿を現した。
お、と、彼は大きなおめめを見開いて、こちらに向かって手を挙げた。思わず駆け寄ると、ファットはやわらかに破顔した。
「嬉しいわぁ。わざわざ会いに来てくれたん?」
「うん。近くまできたから」
「そか」
と応えたファットは、ヒーロースーツを着ていた。
勤務は今朝方までと聞いていたけれど、事件が入って抜けられなかったのだろう。ヒーローは滅私奉公。ひとたび事件が起これば、上がりの時間だろうとなんだろうと、現場に急行せねばならない。
おそらくは疲れているのだろうに、それをおくびにも出さず、鷹揚に彼は笑う。
「ちょお事件処理が長引いてな。今あがったとこなんや。せやせや、せっかくやから一緒にめし食お」
嬉しい誘いに、うん、とちいさくうなずいた、その時だった。彼の端末がけたたましい音を上げたのは。
「タイミング悪ぅ」
と、ファットが端末を見やる。
本当に、タイミングが悪いどころではない、ファットの勤務時間はすでに二十時間を超えているだろう。それなのにまんまるでかわいいヒーローは、疲れた顔どころか嫌な顔ひとつ見せずに、わたしに向かって両手を合わせた。
「すまん、出動要請や」
「うん。…………頑張ってね」
それ以外、なんと応えることができただろう。
こちらの気持ちを慮ったのか、ファットがわたしの頭をくしゃりと撫でて、「ほんま、すまんな」とちいさく呟いた。わたしが「いいよ」と応えたその時にはもう、彼は大きな身体を翻して駆け出している。
そうして巨大な身体は、あっという間に暮れなずむ街の中へと消えていった。
こういうとき、自分の恋人は「わたしだけのひと」ではないということを、ひしひしと思い知らされる。正直、それがとてもさみしかった。
顔を見られればいい、声が聞ければいいだなんて、そんなの嘘っぱちだ。本当はそばにいてほしい。優しく慰めてもらいたい。わたしだけを見つめて、わたしだけを救けるわたしだけのヒーローでいてほしい。
けれど、それを望むのは許されないことだ。
ファットガムは関西の雄、悪を挫き弱きを救けるヒーローだ。今も彼の救けを待つ人がいる。
だから、彼を独り占めしたいなんて思ってはいけないのにそう思う気持ちが止められない。そんな自分が情けないくて、空を見上げた。涙が落ちるのをこらえるために。
暮れるのが遅い夏のゆうべに、大いなる日輪が沈んでゆく。音もなく忍び寄る夕闇が、しずかにビルや街を飲み込んでいく。
こんなわたしの黒い気持ちも、夜の闇に溶けてしまえばいいと、ひそかに思った。
***
「あーあ」
ちいさく声をあげ、ベッドの上でごろりと寝返りを打った。時刻は午後九時を少し回ったところ。
ファットからの連絡はまだない。
疲れて寝てしまったのか、事後処理に時間がかかっているのか。いやもしかしたら、怪我でもしたのかもしれない。
そう思った瞬間、背に冷たい汗が滲んだ。
嫌な想像を振り払うように起き上がり、テレビをつけた。特にそれらしい速報は入っていないことにほっとして、飲み物を取りに行こうと立ちあがったその時、玄関のチャイムが鳴った。
「はい」
もしかして、と期待しながらインターホンのモニターをつなげる。と、画面いっぱいに映し出されたのは、予想通り見覚えのある大きな姿。
「待って。今開ける」
「おう」
玄関に掛けより扉を開けると、そこにいたのはモニターの映像と同じ、大きなまんまるヒーローで。
「いらっしゃい、お疲れ様」
「さっきはゴメン。遅い時間やから迷惑かと思たけど、ちょおなまえの顔だけ見たなってしもて、来てもうたわ」
「ううん。来てくれて嬉しい」
どうぞ、と、彼を中へと促した。といっても、ファットは大きいから、うちの狭い玄関を抜けて部屋に入るのは一苦労。
やっとのことで室内に入ったファットは大きく息をついてから、ほい、とわたしにプラカップに入ったチョコレートドリンクを差し出した。
「気持ちが沈んどる時に聞く万能薬や。君、これ好きやったろ?」
「……うん。好きだけど。なんで?」
「さっき、元気ない気ぃしたから。コレ飲んで元気出してや」
「ありがと……すごい……」
「ん? なにが?」
「あんな短い時間で……。たいした会話もなくちょっとすれ違っただけなのに、わたしのメンタルが落ちてたのに気づくなんて……ファットはほんとにすごいね。さすがヒーローって感じ。うっかり頼りたくなっちゃう」
するとファットは自分の分のチョコレートドリンクをズズズと一気にすすり上げてから、にかっと笑った。
「まァ、確かに俺は市民の皆さんの安全を守るヒーローや。今日もそやったけど、有事には君を置いて現場に急行せなあかん。せやけど、俺が一番守りたいのは君の笑顔や。やから何もないオフの時の俺は、なまえだけのヒーローやで。思う存分頼ってや」
と、広くて分厚い胸を、どん、と叩いた、まんまるヒーロー。
その笑顔があまりにも眩しかったので、照れ隠しにチョコレートのエリクサーを、わたしも口にする。
ほろ苦いけれど、冷たくて、甘くて優しい味が、口腔内に広がった。
「ほんと……大好き」
チョコレートドリンクも好きだけれど、大好きなのは、わたしにとっての万能薬は、他のなにものでもない、あなたです。
そう心の中で付け足して、大好きなひとを見上げる。
おひさまのように大きく眩しいヒーローは、「そらよかったわ」と呟いて、わたしの額にキスをした。
2025.7.25
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