二日月〜繊月のひと〜

「申し訳ありませんが、本名だけでなく、ヒーロー名をお伝えすることもできないんです」

 柔らかな低音でそう告げたその人は、静かに笑った。だからわたしも、微笑みながら答えた。

「はい。あらかじめそう伺っております」

 友人である社の代表からは、お客様は来月から雄英高校所属になる五十代のヒーローで、本名とヒーロー名、その両方を明かせない人だと聞いている。

 都市伝説のひとつに、ヒーローの中にはその存在さえも一般には知られていない、いわば「シークレット」な存在がいるという話がある。彼らはヒーロー公安委員会内に秘密裏に所属し、自身がヒーローであることを家族にすら明かさない場合があるという噂があった。自衛隊で言う別班部隊、警察組織による公安部のようなものだ。きっとこのひとがそうなのだ。

 その「シークレット」がなぜ家事代行サービスなんぞを頼むのかは不思議ではあるが、切れ者で有名な雄英校長、根津の手配によるものなので、それなりの理由があるのだろう。
 それにしても、わたしのフルネームと経歴のみが書かれた職歴書を眺めている人は、まったくヒーローらしくない。
 おそらく「シークレット」とはそういうものなのだろうが。

 なにせ彼は骸骨と見まごうほどに痩せている。見上げるくらい背が高いので――二メートルは軽くあるだろう――骨格はしっかりしているが、肉付きがあまりにも悪かった。頬のラインは、ナイフで削ったのではとたずねたくなるくらいシャープで、手足なんて棒のよう。

 けれど痩せぎすではあるが、お顔立ちは悪くない。落ちくぼんだ眼窩の奥に光る瞳は、晴れ渡った空を思わせるブルーだ。秀でた額に通った鼻筋、大きめの口の奥には、真っ白な歯。
 こんなに痩せていなければ、かなり整った容貌の持ち主なのではないだろうか。

「なるほど。香久夜さんは先月まで、東京でフレンチのお店を経営されていたんですね」
「はい。十年ホテルのレストランで修業した後、三茶にてカジュアルフレンチのお店を開きました。と言っても単独経営ではなく、共同経営でしたが」
「いやご立派ですよ」

 と目の前の痩せた人は言い、そこで口を閉ざした。

 職歴書には「閉店」ではなく「辞任」と書いてある。理由を問われたら気まずいなと思っていたので、聞かれなかったことに、わたしは少しほっとしていた。

 理由を簡単に言えば、共同経営者との離別である。彼はわたしにとって、仕事上だけでなくプライベートのパートナーでもあった。いろいろあって別れることになったので、出資金を返してもらうことで相手にお店を譲り、地元に戻ってきたのだ。

 その時に得たお金と自身の貯金をあわせるとそれなりの額にはなったが、精神的なダメージが大きく、開業どころかフルタイムで働けるような気力は失われてしまっていた。

──今年度いっぱい休業しよう。しっかり心を休めて、動き出すのはそれからでいい。

 それがわたしの出した結論だった。

 しかし、しばらくの間悠々自適に過ごそうと思っていたわたしの元に、高校時代の友人から連絡が入った。

***

「週三日一回二時間半の契約で、うちで働いてもらえないかな。お願い!」

 プロヒーローを主な顧客とした家事代行サービスを経営している彼女が言うには、現在、料理専門のスタッフを求めている客がいるらしい。

「あなたのところ、調理師免許のあるスタッフいなかったっけ?」
「いるにはいるんだけど、ちょっと面倒な条件をいくつか掲示されてるのよ。まず、調理師もしくは栄養士の免許があること。身元がきちんとしていて、身内に危険思想の持ち主がいないこと。また危険思想の持ち主との接触がないこと。守秘義務を守れること。そして最後に、二親等以内の親族に、ヒーロー、もしくはヒーロー公安委員会か警察関係者がいること。……みづきのお父さん警察OBだし、弟さんもヒーロー公安委員会に所属してたよね」
「……まあ……そうね」
「なんでも、特別な人らしいのよ。だから身元のきちんとしたスタッフが求められているの。でも今うちには条件に合うひとがいなくて……」
「で、わたしのところに連絡してきた、ってわけ」
「そうなの。もう頼れるのは、みづきしかいないのよ」

 雄英の校長である根津からの依頼であるが故に、どうしてもこの仕事を受けたいのだと、彼女は言った。たしかに雄英の校長先生はヒーローにかなりの顔が利く。この仕事を受ければ、今後の事業がやりやすくなる。
 少々面倒ではあるが、女一人で事業を興し、頑張っている友人の手助けになりたい気持ちはたしかにあった。

「うーん……」

 しばらく休むつもりだったが、週三回、しかも一回二時間半なら、できないことはなさそうだ。他人――特に男性――の家の中に入るのは抵抗があるが、相手がヒーローなら、そう危険はないだろう。時給も一般の家事サービスに比べると格段にいい。出張シェフ的な体験ができるのも、後々のことを思えば、いい経験になるだろう。

「わかった。引き受ける。他ならぬあなたの頼みだし」
「ありがとう! みづき!」
「ただし、並行して他のひとも探してね。さすがにずっとは無理だから」

 そう答えると、彼女は弾んだ声で、「わかった」と応えたのだった。

***

「それで、香久夜さん」
「……はいっ!」

 想いを巡らせていたわたしを現実に引き戻したのは、柔らかく落ち着いた低音だった。心ここにあらずであったことに気づいていたのだろう、彼はサファイアにも似た青い目を軽く細めて、からかうようにくすりと笑った。

「す……すみません」

 いえいえ、と背の高いその人が、軽く肩をすくめる。

「本名はおろかヒーロー名も教えられないのに家事代行を頼むなんてと、不思議に思われていたのではありませんか?」

 今考えていたのは別のことだが、たしかにそれも疑問の一つではあったので、曖昧にうなずく。

「こっちに来るまでは、自分のことはすべて自分でやっていたんですよ」
「はい」
「ですが、これからはヒーローだけでなく、慣れない教師としての仕事もしなくてはいけない……。時間の使い方が難しいなと思っていたところ、根津校長から『せめて食事面だけでもプロに支えてもらったほうがいい』とアドバイスをもらいましてね、ヒーローは身体が資本ですし、そうでなくても食事は大切ですから」

 語りながら、彼はうんうんと小さくうなずく。このひとは五十代と聞いていたが、しぐさがいちいちかわいいので、実年齢より若く見える。先ほどこんなに痩せていなければと思ったが、このひとはこのままでも充分チャーミングだ。

「なにせ、私は胃袋がないもので」

 ほっこりしかけた矢先に告げられた言葉に、思わず硬直した。

「ですから、一回の食事量は少ないですが、一日の食事回数が多いんです。その手間もありましてね」
「……なにか食材で注意することはありますか? 食べられないものがありましたら教えてください」
「いや、けっこう何でも食べられるんですよ。そこは気にしなくて大丈夫です。ある程度のバランスが考えられた美味しい食事があれば、私は満足です」
「では、一日分は何食ご用意すればいいですか?」

 そうですね、と目の前の痩せた人が少し考え込むような顔をしてから、静かに続ける。

「一日の食事は五、六回にわけて食べていますが、夕飯一食分のほかに、おかずを何種類か作り置きしてもらえれば、こちらで好きな量を食べます。のちほど容器を出しますので、そこに入れてください。まずはやってみて、多かったり足りなかったりしたら、都度お伝えしていくというのはいかがでしょうか?」
「ご提案ありがとうございます。承知いたしました。そのように対応いたします」
「週に三日、十八時から二十時半の勤務で、二日分の食事を作ってください。で、最後にキッチンまわりを掃除して出るという形でお願いしたいと思います」
「はい。時間内であれば食事のサーブもいたします」
「それはありがたい。ただ私はその時間に帰れないことも多いと思うので、留守の時は鍵をエントランス内にある個人用ボックスに入れておきます。ボックスの暗証番号は毎回変えますので、会社のアドレスにその都度メールでお伝えします」
「承知いたしました」
「あと、ひとつ提案があるんですが」
「はい」
「これからはもう少しラフというか、フレンドリーな言葉遣いにしてもらえますか? 私もそうしますので」
「……それはちょっと……」

 正直な話、どうすべきか迷った。お客様の要望ではあるが、やはりこれはビジネスだ。お客様がラフな言葉を使うのはかまわないが、その逆は考えもの。あまり馴れ馴れしくするのは、好ましくないだろう。
 すると彼は、「いやあ、実はさ」と急にフレンドリーな感じでそう告げて、へにゃりと笑んだ。こういう顔をすると、ますますチャーミングだ。

「お堅い言葉遣いをされると、こっちも気を使っちゃうんだよ。君の立場で友達口調になるのは難しいかもしれないけど、同じ敬語でも、もう少しだけラフな感じにしてもらえると助かるかな」
「丁寧語を多く使う敬語、という感じでしょうか?」
「うん。それで頼むよ」
「承知いたしました」
「だから、そこ」
「あ」

 くすくすと笑いながら言われて、わたしも思わず笑ってしまった。

「すみません。わかりました」
「うん。よろしくね」

 と、この時気がついた。この人の話し方や声は、この国で最も人気のあるヒーロー――オールマイト――のそれと、酷似している。

「どうかした?」
「いえ……あ、ひとつおたずねしたいことが」
「なんだい?」
「お客様のことはなんとお呼びすればいいでしょうか?」
「ああ、そこ考えてなかったなあ」

 まいったな、と言いたげに、彼が額に手を当てる。そんなアメリカナイズされたしぐさも、オールマイトと似ている気がした。

「それでは、サー、もしくはマスターというのはどうでしょうか?」
「サーは知人のヒーロー名だし、マスターっていうのも柄じゃないんだよねえ……」

 うーん、と、彼が腕を組んだ、その瞬間だった。

「――党から立候補いたしました。ヤギ、ヤギミノルでございます。地域の皆様、ヤギミノルに、清き一票を。どうぞよろしくお願いいたします」

 飛び込んで来たのは、外を走る選挙カーの声。

「ヤギミノル……ねぇ」

 この呟きの数秒後、眉間に皺を寄せ考え込んでいた彼が、ぱああと大きく微笑んだ。

「オーケー、オーケー」

 言いながら、背の高い雇い主がアメリカナイズされた仕草で、また肩をすくめた。

「そうしたら、私のことはヤギと呼んでくれたまえ」
「ええ?」

 頓狂な声が出た。それは今、外から流れてきた立候補者の名前ではないか。そんな適当な呼び名でいいのだろうか。変わっているにもほどがある。

「あの……お客様はそれでよろしいのでしょうか?」
「ウン、ぜんぜん問題ないよ。私のことは今日からヤギって呼んで」
「……発音的には、動物のヤギさんでしょうか。それとも八つの木の……」
「オーソドックスに、八本の木のほうでいいよ」
「承知しま……わかりました」

 ずいぶんと変わっているが、お客様のご要望だ。お応えするしかないだろう。

「それでは八木様、これからどうぞよろしくお願いいたします」
「『様』じゃなくて、『さん』でいいよ」
「はい。八木さん、よろしくお願いします」
「うん。それじゃ、キッチンの説明をするね」

 立ち上がった八木のあとについて、キッチンへと向かった。といってもこの家のキッチンは、今の今まで話をしていたリビングと一続きになっているから、歩く距離は数歩だ。よくあるタイプの、リビングとの対面型のキッチンだった。
 このマンションに足を踏み入れた時も感じたが、特別な存在と言われるひとが住むには、普通すぎる住まいだ。いや、中庭もある高級よりの建物ではあるのだが、友人からは隠れた大物だと知らされていたから、もっと豪華な、たとえば高級タワマンあたりを想像していたので、少々拍子抜けだった。

 とはいえ、室内はきちんと整頓されている。男性の一人暮らしと思えば、かなりのレベルだ。
 おそらく几帳面な性格なのだろう。キッチン内もとても綺麗だし、調味料もわかりやすくラベリングしてある。食洗機やオーブンなどは最新のものが揃っていて、使いやすそうなキッチンだなと、ひそかに思った。

***

「それでは失礼します」

 と、頭を下げてから、扉の外に出た。

 外廊下からは見えるのは、グラデーションがかかった空。それは日の出と日の入りからほんの数十分の時間帯でのみ見ることができる、魔法のような美しい光景。
 こうしたオレンジから濃紺に空がグラデーションを描く、夜と朝の、もしくは昼と夜の狭間の時間を、マジックアワーと人は呼ぶ。
 これは沈んでも尚、明るさを維持し続ける太陽のしわざ。

 その美しい空の下、遠くに見えるのは黒々とした山の稜線。手前にはオールマイトが清涼飲料水を手にして笑う大看板がある。この国で、かのヒーローの姿を目にしない日はない。

 平和の象徴と謳われる彼は、まさにヒーロー界の太陽だ。きっとオールマイトは、引退してもなお、人々の希望として輝き続けるのだろう。
 もちろんそれは、まだまだ先の話であろうが。

 エレベーターを待ちながら、端末を開いて、社に直帰の連絡を入れた。
 そう高い建物ではないので、エレベーターはすぐに来た。扉が開いたので、中に乗り込む。一階のボタンを押して、端末をバッグにしまい、ふと思う。

 オールマイトが太陽ならば、先ほどのヒーローは、いったいどんな星にたとえられるのだろうか。
 初めに耀う明星か、輪を有する木星か、夜空の道しるべとなる北極星か、それともカノープスかシリウスか。

 エントランスを抜けて外に出る、と、濃紺に染まった西の空に、細く輝くお月様。二日月の、ほっそりとしてどこかはかなげな姿が、先ほどわかれたばかりの男の風貌と重なった。
 ああ、八木はこれだ。二日月。

 優しく、柔らかな雰囲気の人だった。
 名前も活動中の姿も知らないけれど、夜の空を優しく照らす月のような……あのひとはきっと、そんなヒーローであるのだろう。

 この仕事、なんだかうまくやれそうだ。
 オレンジ色が消え、黒が浸食し始めた空の下を歩きながら、しみじみ思った。
 マジックアワー……その狭間の時間は過ぎ、密やかに、夜が来る。

2024.8.9
- 1 -
start / next

戻る
月とうさぎ