「さて、やりますか」
綺麗に整頓されたキッチンに立ち、会社のエプロンを着けた。出張シェフ的な経験をと思っていたものの、実際に作るのは家庭料理だ。
この二週間で八木の食べる量もわかってきたので、その日の夕飯と、別に九種のおかずを作り、保存容器に入れる。わたしの専門はフレンチだが、八木の年齢や胃袋がないことを鑑みて、洋食だけでなく和食や中華を組み合わせた菜を用意するようにしている。主食はごはんだったり、パンであったり。
八木の帰宅時間はまちまちで、わたしがいる時に帰ってくることもあれば、二十時半を過ぎても帰宅しないこともある。
会えたときは、彼が食卓につくタイミングを見計らって食事を出す。温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに。
そうすると、実にキュートでチャーミングで、かつ褒め上手な八木は、大げさなくらいの反応を見せた。
皿が温めてあるだけで「わあ、お皿も温めてある。嬉しいなあ」と言い、一口食べては「家でこんな料理が食べられるなんて贅沢だなあ」と喜ぶ。また会えなかった時は会えなかった時で、次の訪問時に食事の感想がテーブルの上に置かれていたりもする。そんなふうにされると、こちらも俄然やる気が出てくる。
先日など、牛塊肉の調理を頼まれたので、圧力鍋を持ち込んで、ブフ・ブルギニョンを作ってしまった。これもまた好評で、嬉しい限りだ。
*
今日はサーモンときのこのパイ包みにしたけれど、なんと言ってくれるだろうか。そんなことを思いながら盛り付けのための皿を選んでいると、玄関の扉がかちゃりと開いた。
「おかえりなさいませ」
あまりかしこまらないようにと言われているが、帰宅時のこの声かけだけはあえて丁寧にするよう心がけている。なぜなら「おかえりなさい」だと身内っぽさが出てしまうから。
「ただいま。いい匂いだね」
と、笑った、その顔色がひどく悪くて驚いた。いやそれだけではない。左頬には大きな絆創膏が貼られている。
こちらが身構えてしまったことに気づいたのだろう。大丈夫だよ、と言いたげに八木が微笑んだ。春の太陽のように、あたたかに。
怪我人に気を使わせてしまったことをひそかに悔やみつつ、微笑みを返した。詮索をしてはいけないと自分に言い聞かせながら。
ヒーロー名を明かせない八木は、なにがあったか問われるのは好まぬはずだ。
しかしそんなこちらの思惑に反し、八木はネクタイを緩めながらゆっくりと口唇をひらいた。
「すでに六時のニュースで流れたから言っちゃうけど、雄英の施設がヴィランの攻撃を受けてね。それで、これ」
「……そうだったんですか」
六時にはすでに業務を開始していたから、そのニュースは知らない。あとでしっかり確認しよう、と、心の中で小さく呟く。
「それでね、せっかく作ってくれたのに悪いんだけど、今日は食欲があまりないんだ。用意してくれたものは明日食べるから、今夜はそうめんにしてもらえないかな」
「おそうめん、ですか?」
「うん。季節外れと思われるかもしれないけど、食欲のない時つるっと食べられるように、常時用意しているんだよ。ゆで時間も短くてすむし」
なるほど、言われて見れば確かにそうかもしれない。
だがそうめんだけでは、やはり栄養面が心配になる。お野菜やタンパク質も欲しいところだ。お野菜はパイ包みに添えるつもりだったにんじんとセロリのマリネがあるからいいとして、タンパク質はどうしよう。
「……おそうめんをお豆腐と和えたりしてもいいですか? さっぱりしているのにクリーミーで美味しいですよ」
「そうめんと豆腐を?」
「はい。けっこう相性いいんですよ」
すると八木は一瞬考えるような表情をしてから、ふっと微かに微笑んだ。前髪が頬に作った陰が妙にセクシーで、少し、どきりとした。
「うん。かまわないよ。君の腕前は信用しているから」
「ありがとうございます。ではすぐ支度いたしますね」
うんと答えて上着を脱ぎ洗面所に向かう彼の後ろ姿を見て、ふたたびはっとした。素肌にそのまま羽織っているのか、真新しいワイシャツの下から、肩から背にかけて巻かれた包帯が透けていて、それがひどく痛々しい。
どれほどの怪我なのだろう、と思いながら、胸を押さえた。なぜこんなにも彼のことが気がかりなのか、自分でもよくわからないまま。
*
「エクセレント!」
口の中のものをすべて飲み込んで、八木が叫んだ。
そうめんを食べてエクセレントと言うひとを初めて見た。――といっても、店でそうめんを出したことがないので、もしかしたら言うひともいるのかもしれない。たとえば、彼と同じヒーローならば、オールマイトあたりがいかにも言いそうではある。
しかし、さすがにそんなことを口にするわけにはいかない。だから声に乗せるのはあたりさわりない別の言葉だ。
「お口にあったならよかったです」
「これすごく美味しいね。濃厚なのに、めちゃめちゃさっぱりしてる。味付けはなに? オリーブオイルは入ってるよね」
「はい。ブレンダーでなめらかにしたお豆腐に、少量のオリーブオイルとお塩を加えて、茹でたおそうめんと和えました」
「ええ? それだけでこんなに美味しくなるの?」
「八木さんが美味しいお豆腐を選んでくださっているので。素材のちからも大きいと思います」
「いや、それにしたってさぁ。やっぱりプロの作ったものは違うなあ」
こっちはどうかな、と言いながら、八木がマリネを口元へと運ぶ。それを横目で見ながら、彼のための冷たい紅茶を淹れた。この時間なので薄めで、でも香りはしっかり出るように、最新の注意を払いながら。
「こっちのマリネもすごくうまいよ」
「ありがとうございます。お出ししてから気がついたんですが、それけっこうレモン利かせてたんで、しみませんでした? そのご様子ですと、お口の中も切ってますよね」
すると八木は、きょとんとした顔を作った。
「あの……なにか?」
「いや……。そうやって誰かに心配してもらうのって、めちゃくちゃ新鮮だなと思って」
八木の言葉にショックを受けた。人知れずヒーローを続けているひとの置かれる環境というのは、そういうものなのだろうか。
それはあまりにも孤独だと思った。いや、この場合は孤高と言うべきかもしれない。いずれにせよ、過酷な世界で一人戦う八木の姿を想像したら、なんともいえない気持ちになった。
すると八木は軽く眉をひそめて続ける。表情とは裏腹の、極めて明るい調子で。
「ありがとう。口の中は大丈夫だ。とても美味しくいただいているよ」
「それなら安心いたしましたが、もしお怪我しているところにしみたらおっしゃってくださいね。こちらも次からは気をつけますので」
「うん……ありがとう」
しんみりと笑まれて、胸の奥があたたかくなった。このひとの笑顔はほんとうに、とても優しい。
このとき不意に「好きだな」という言葉が浮かび、ひそかに狼狽した。
好きって、なにが?
それはもちろん、このひとの笑顔だ。決して八木そのものではない。笑い方が好きなだけ。
自分の中に生じたなにかを振り切るように息をつき、たくさんの氷を入れたグラスの中に、ゆっくりと熱い紅茶を注いだ。急激な温度差に、氷がパキパキと音を立てた。割れてしまった氷は溶けて、熱い紅茶を冷ましてゆく。
わたしの中に生じた妙な感情も、このお茶のように冷めてくれればいいと、心から思った。
「ああ、そういえば」
と、そうめんを食べ終えた八木が、口元を拭きながら言った。
そのタイミングで、彼の元に淹れたてのアイスティーを運んだ。八木はそれを受け取り、ありがとうと微笑んで、また続ける。
「メモにも書いたけど、こないだの牛肉の赤ワイン煮込み、すごく美味しかったよ。舌を噛みそうな名前のやつ」
「ブフ・ブルギニョンですか?」
「そうそう。君の作ってくれるごはんはどれも美味しいけれど、あれはちょっと感動ものだった」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「また今度、作ってくれるかい?」
「もちろんです」
しかし、と八木が軽く息をつく。
「あれだけの煮込みを二時間半で作るなんて、すごいよねえ」
「本当は時間をかけてじっくり煮込んだほうが美味しいんですが、ちょっとズルして、圧力鍋を使いました。」
「え? うち圧力鍋ないよね」
「申し訳ありません。二時間半で塊肉を煮込むのは厳しいかと思ったので、家から鍋を持ち込みました」
八木が眉根を寄せた。しまった、不快だっただろうか。
「香久夜さん、それはダメだよ」
「申し訳ありません」
「ああゴメン、違うんだ。これは私が悪かった。塊肉を煮込むのにかかる時間を考慮して頼むべきだったんだ。道具を持ち込ませるような注文をしてすまない」
「いえ……承ったとき、それをお伝えしなかったわたしのミスです」
「いや私が悪いんだって」
「いいえ、わたしです」
すると八木は、うーんと言いながら口を大きくへの字にまげた。
「……これさぁ、たぶんキリないね。この件に関しては私は譲る気ないし、君もそうだろ」
「……そう、かもしれません」
「じゃあさ、これはもうどっちも悪い。それでいいね」
「ですが……」
お客様に煮込み時間まで考慮させるのはいかがなものか。この件に関しては実際こちらのミスである。
だが、八木はどうあってもそうとは認めない様子だった。とすれば、いつまでもこの件でやりあうのも、サービス業としては良くない気がする。
どうしよう、と口をもごもごさせていると、八木がばちりとウインクをした。
「次からは、君が業務を遂行するのに必要な調理器具があれば遠慮せず言ってもらいたい。で、私は君の作ったブフ・ブルギニョンをまた食べたいんだ。早速だけど、圧力鍋を買おうと思う」
八木が携帯端末を取り出して、通販サイトのページを開き、それをわたしにも見えるよう、テーブルの上に置いた。
なんだかごまかされてしまったような気がするが、あえて流されてみるのもいいかもしれない。
これとかどうかな、と八木が両手鍋を指す。
「そうですね、悪くはないと思います。ただ八木さんはお一人ですから、こちらの片手鍋でもよろしいのではないかと」
八木が提案した鍋よりもお手頃な価格の鍋を指す。すると彼は、やや不服そうな顔をした。
「うーん。それ、デザインがあんまりかわいくないんだよな」
待って、鍋にかわいさを求める中年男性なんて初めて。
こちらの驚きをよそに、八木はそのままページをスクロールし続ける。そして彼は、やがてある鍋のところで指を止めた。
「じゃあさ、これはどう? かっこよくないか?」
彼が選んだのは、少しお値段は張るけれど、機能性に優れたドイツ製の鍋だった。ステンレスのシンプルなデザインだが、それが逆に、スタイリッシュでかっこいい。
そういえば室内に置かれているものも、どこかかわいかったり、おしゃれだったりと、デザイン性に優れたものが多い気がする。
この人あんがい見た目から入るんだな、と思いながら視線を上げると、彼が青い瞳を子どものようにキラキラさせているのが見えた。
いや、五十代の男性がこんなにかわいいことってある?
そう思ったら、つい、くすりと笑ってしまった。
「あれ? なんかおかしい?」
「いいえ」
まさか、あなたがかわいかったから、とはいえない。だから「それは大変良い鍋です。おすすめします」と真面目な顔をして答えて、にこりと笑った。
八木はそれ以上頓着せず、その場で鍋を注文し「また作ってね」と小首をかしげて、次に、ごぼりと血を吐いた。
「えっ?」
あまりのことに慌てていると、八木が口元を拭いながら「大丈夫だよ」と微笑んだ。血を吐くなんて大変なことなのに、どうしてそんな顔をして、このひとは笑えるのだろうか。
「ごめん。びっくりしただろう? 私は胃袋だけじゃなく、肺も片方なくてね。ちょっとした刺激で、こうして吐血することがあるんだ」
「……そう……なんですか……」
うん、と彼が告げながら見せた、その笑顔が眩しかった。
胃袋と肺を失って、それでもなお、名を明かせぬヒーローとして活躍する。このひとにそこまでさせるものは、いったいぜんたいなんだろう。
胸の奥にあるやわらかい部分が、また、きゅうと痛んだ。
「それならなおさら、今日はお大事になさってくださいね」
心を込めてそう告げると、八木は軽く眉を寄せてから目を大きく見開いて、次に口元を抑え、ふいと横を向いてしまった。出過ぎたことを言っただろうか。
だがそれはわたしの杞憂に過ぎないようだった。八木はすぐにこちらを向いて、ひまわりが花ひらくように笑いながら、ありがとう、と静かに言った。
「あの……香久夜さん」
空になった食器を運ぼうと手を伸ばしたその時、八木がぽつりと呟いた。
「はい、なんでしょう?」
「ひとつお願いがあるんだけど……君のこと、名前で呼んでもいいかな?」
思いもかけない提案に、さすがにぎょっとしていると、彼が小さく笑んで続ける。
「実は、仕事関係でよく顔を合わせる人と、君の名字が同じなんだよね」
「はい」
「彼自身はいい人だし好ましく思っているんだけど……。君を呼ぶたび、いろいろ思い出しちゃってさ」
つまりは「彼」は好ましいけれど、「彼が持ってくる仕事」が苦手ということだろうか。ともかく理由は腑に落ちた。
心の隅で「まさかうちの弟じゃなかろうな」と思ったが、「いやいやそんなはずない」とまた内心で首を振る。
ヒーロー公安委員会勤務とはいえ、弟は事務方。八木と直接関わるようなことはないはずだった。
「わかりました。そういうことでしたら、これからはどうぞ『みづき』とお呼びください」
「うん。悪いね。みづきさん、これからもよろしく」
低く落ち着いた声で名を呼ばれて、持っていた皿を取り落としそうになった。
なぜだろう。名前を呼ばれたくらいのことで、こんなにも動揺してしまうなんて。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
内心の動揺を気取られまいと、あえてあっさりそう答え、食器を手に流しに向かう。これは本当に良くない傾向だな、と心の中で呟きながら。
*
「それでは、これで失礼いたします」
「うん。今日もありがとう。夜遅いから、みづきさんも気をつけてね」
「ありがとうございます。それでは、お休みなさいませ」
一礼して外廊下に出ると、背後で静かに扉が閉まった。小さく息を吐いてから、エレベーターに乗り、一階へ。
『みづきさん』
エレベーターを降りると同時に、太くて低いのにどこか甘い八木の声が不意に蘇った。
そのとたん、わたしの胸の奥で、パキン、という音を立て、なにかが割れた。それは熱湯を注がれた氷のように、割れて溶け出た、とある感情。
それはダメでしょ、と心の中で吐き捨てる。
なにせ相手はお客様だ。
いや、なによりも、もうあんな想いはしたくない。
だからこそ、今、自分の中に芽生え始めた感情がなんなのか、確定したくはないと思った。
「……これは気の迷い」
ちいさく独りごちてから、エントランスから中庭に視線を転じた。石灯籠の明かりを弾いてうっすらと光る薄桃色は、ハナミズキ。
花言葉は、わたしの想いを受け取って。
「……だから違うって」
軽く首を振りながら再び独りごち、歩き出す。薄桃色の花を目の端でとらえながら。
2024.8.14
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