1話 スカイブルーとの邂逅

 ヒーローを生業としていた母が、仕事上の事故で亡くなった。今から十年前のことだ。
 母ひとり子ひとりの親子だった。ほかに身寄りがなかったわたしは、児童相談所への一時保護を経て、隣県の児童養護施設に入所した。

 ヒーローだった母は、背中に蝶の羽を持っていた。そこから毒を含んだ鱗粉をまき散らし、戦う。それがヒーロー・バイオレットの戦闘スタイルだったという。個性名は、毒粉。
 けれどわたしの個性は、母とは似て異なる、言わば下位互換だった。粉末という情けない名前のそれは、身体から毒にも薬にもならない粉をほんの少しだけ放出できるという、なんの役にも立たない個性。

 そのうえ、わたしは運動もあまり得意ではない。とりえといえば、人より勉強ができるくらいのもの。母と同じ職に就くなど夢のまた夢。
 けれど勉学で身を立てられるかと言われると、それも難しいことだった。今のところは県立トップ校で上位の成績を収めてはいるが、親のいないわたしは、大学への進学は望めない。

 学費だけなら給付型の奨学金でまかなえないこともないだろうが、高校卒業と共に施設を出なくてはならないわたしは、なによりもまず、生活のことを考えなくてはならなかった。
 結局のところ、どんなに進学を希望しようと、このままどこかに就職するしか道はない。
 けれど、ある人が現れたことで、目の前に道がひらけた。

 それは今から一年ほど前のこと。
 わたしが高校三年生になったばかりの、うららかな春の日のことだった。

「失礼します」

 応接室のドアを開けると、布張りのソファに座っていた男のひとがこちらを向いた。その顔を見て、思わずひるんだ。その異相ともいえる外見に驚いたからだ。

 かなりの長身に、肉付きの悪い骨ばった身体。痩せすぎているせいだろうか。眼窩はくぼみ、頬の肉はナイフでそぎ落としたかのようにこけている。まるで死神のようだなと、失礼なことをこっそり思った。
 死神のようなそのひとは、わたしを見て、一瞬驚いたような顔をして、次に少し眩しそうに、目を細めた。
 そのときわたしは気がついた。このひとの瞳の色はとても綺麗だと。暗く陰った眼窩の奥で輝く、晴れ渡った空のような、澄んだ青。

「まいったな。実桜ちゃん、君はすみれにそっくりだ」

 それが、そのひとの第一声だった。

 粉月すみれ、それは母の名だ。
 死神めいた男性は、立ち上がってわたしに会釈した。立つとその大きさが際立ち、ますます死神のように見える。
 そのひとはまるで大人同士が商談をする時のように懐から名刺を出して、さっとわたしに手渡した。左上に「オールマイト事務所」と印字してある名刺の中央には、八木俊典と記されていた。名前の横には、小さく「取締役」と書いてある。

 ということは、このひとはオールマイトの事務所の幹部ということだ。たしかに、入室前に、失礼のないように、と、施設長からくどいくらいに念を押された。施設に多くの寄付金を出してくださっている方だからと。オールマイト事務所の幹部であれば、経済的にも余裕があるだろう。とてもそうは見えないが、わたしが知らないだけで、このひとは名のあるヒーローなのかもしれない。
 しかし、そんな人物がわたしになんの用があるのだろう。おそらくは母のつながりだろうが、わざわざ施設にまで会いに来た、その理由がわからなかった。

「唐突な話だが、驚かないで聞いてほしい」

 わたしに座るよう促し、また自らも再びソファに腰をおろして、背の高い人はゆっくりと告げた。お腹に響く、心地よい低音だった。

「高校卒業と共に、君はこの施設を出なくてはいけないよね。実はね、私は君のママの恋人だったんだ。すみれの娘は私の娘のようなものだ。私でよかったら、これからの君の人生のサポートをさせてくれないか」

 あまりのことに呆然としたままのわたしに、低い声は続ける。

「卒業後の生活はすべて私が保障する。君はかなり成績が良いようだね。大学に進学したいなら学費を出すし、学校から近いところに住居も用意しよう」
「でも、見知らぬ方にそこまでしてもらうわけにはいきません」
「さっきも言ったけど、すみれの娘はわたしの娘のようなものなんだ」

 自称、母の元彼の八木さんは、力強くそう言った。
 わたしだって、大学に行けるものならいきたい。でも、こんな夢みたいな話が現実にあるものだろうか。
 救いを求めるように、窓の外を眺めた。むろん、そこに答えなどあるはずもなく。

 見やった先には、大きな八重桜の木。濃いピンクの花が、とても綺麗。
 小学生の頃、いつもあの桜を眺めながら妄想していた。死んだはずの父が実は生きていて、わたしを迎えに来てくれると。

 桜の花びらが舞い散る中で、わたしは父と再会する。今までひとりにしていてごめん、父は優しい声でわたしを抱きしめてくれる。そんな夢を、いつも見ていた。
 このひとは父ではない。けれど目の前の男性はどこか安心できる雰囲気がある。
 晴れ渡った空と同じ色をした瞳と、太陽のように輝く金色の髪。どこかで見たことがあるような、不思議な既視感。
 いいのだろうか、このひとの好意に甘えて。

「あの……本当にお世話になってもいいんでしょうか?」
「もちろんさ。君が安心して学生生活を送れるよう、できる限りのことはさせてもらうつもりだよ」
「あの……一つ聞いていいですか?」
「なんだい?」
「わたしの援助をするのに、ご家族は反対されなかったのでしょうか?」
「ああ、それは心配いらない。私は独り者だから」
「ということは、八木さんはお一人で暮らしていらっしゃる……」
「うん。そうだけど?」
「失礼ですが、どれくらいの広さのお部屋にお住まいですか?」

 すこし怪訝そうな表情で、八木さんが答える。

「二百平米はあると思うけど……なぜだい?」
「すごいですね。あの、提案なんですが、わたしもそこに住まわせてもらうことはできないでしょうか?」

 わたしの言葉を聞くやいなや、八木さんは噴水のごとく血を吐き出した。驚きながら、大丈夫ですか、と声をかけると、大丈夫、とのいらえが返ってきた。
 八木さんは手慣れた調子で血を拭い取って、続ける。

「いや、それはさすがにまずいだろ」
「アパート代や光熱費のことを考えたら、一緒に暮らさせてもらった方が安くあがります」
「君の生活にかかるお金くらいなら、なんともないよ。そういうことは気にしなくていい」

 一人で二百平米もの家に住めるようなひとだ。八木さんはかなりの高所得者、もしくは資産家であるのだろう。でも、それとこれとは別だった。
 後からお金を返すことを思えば、安くあげるにこしたことはない。生活はおろか、大学の学費までも出してくれると、このひとは言う。けれど、親でもない人にそこまで甘えるわけにはいかない。
 それにオールマイトの事務所で働くひとならば、一緒に暮らしたとしても、わたしに危害を加えるような真似はしないだろう。……しないんじゃないかな。これは、甘い考えだろうか。

「他人のあなたに、そこまでしてもらうわけにはいかないんです」
「何度も言わせないでくれないか。すみれの娘は私の娘のようなものだ」
「八木さんがわたしを娘のように扱いたいというなら、それこそ一緒に住まないとおかしいですよね」

 にっこり笑ってそう告げると、ううと相手がひるんだのがわかった。


 やがて、八木さんが諦めたように肩をすくめた。

「……オーケー、わかった……」
「では高校を卒業したらお世話になります。大学も、国立に受かるよう頑張ります」
「うん、待っているよ」
うららかな春の日ざしが差し込む応接室で、八木さんが静かに微笑んだ。その笑顔を、わたしはどこかで見たことがあるような気がした。

***

 そしてそれから約一年の月日が経過し、わたしは規定通り児童養護施設を退所した。そのままの足で、八木さんの家を訪ねた。手元には大きなボストンバッグが一つ、それがわたしの荷物のすべて。
 八木さんの住まいは、高級ブティックやお洒落なお店がずらりと並ぶ都会にあった。地上四十三階建ての、ツインタワーマンションの一室だ。
 室内の家具は、どれも高級そうだった。野苺と花が描かれた、綺麗で可愛いコーヒーカップの中には、バニラの香りがするコーヒーが注がれている。

「八木さん、これからお世話になります」
「うーん。これから一緒に住むんだし、名字は堅苦しいからやめようか」
「……じゃあ、おじさま?」
「おじさまはちょっとくすぐったいな」

 それでは下の名前でと思い、「俊典さん」と呼んでみる。すると八木さんは、ほんの一瞬だけ、とても複雑そうな表情をした。
 なんだろう、そんなに困った顔をしなくてもいいのに。
 少し考え込んで、彼はいきなりこう言った。

「マイトでいい。うん、マイトでいいよ」
「えっ?」

 唐突に出てきたニックネームに、やや驚いた。マイトという、八木さんの名前に関係なさそうな呼び名は、いったいどこから出てきたのだろうか。
 思いが顔に出たのだろう。八木さん、いや、マイトさんはわたしに向かって破顔しながら続ける。

「マイトっていうのはね、昔からのあだ名みたいなものかな。たいていの人は、私のことをそう呼ぶよ」
「わかりました。ではマイトさん、これからどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ。君のことは、実桜ちゃん、って呼んでもいいかな?」
「はい」

 その後ふたりで、バニラ風味の美味しいコーヒーをいただきながら、この家で暮らしていくうえでのルールを決めた。決まりごとは、家事や家の使い方についてだ。
 不思議なことに、この家には開けてはいけない部屋があるという。
 都会のマンションによくある、サービスルームがそれにあたる。広さは四畳半くらい。その狭い部屋の中に、マイトさんはなにを隠しているのだろう。エッチな本かなにかかなと思ったが、さすがに口には出さなかった。
 掃除については、各自のスペースは各自、そのほかの場所は交代でということに決まった。

「洗濯はわたしがやりますね」
「私の下着もあるんだぜ。いやだろ?」
「正直な話、わたしの下着に触れられるのは抵抗がありますが、逆なら大丈夫です。一度ですむものをわけるのは不経済ですし、学費と生活費を出してもらっているのですから、それくらいのことはしないと」
「じゃあふたりの時の食事は私でいいかな? 仕事で遅くなる日もあると思うんだけど、いる時は作るよ」
「食事もわたしが作ろうと思っていたんですが……」
「うーん。私の食事はちょっと面倒なんだよね。少量を数回に分けて食べなきゃいけないから」
「病気かなにかですか?」

 そういえば、このひとは異様なくらい痩せている。
 マイトさんは、少し言いにくそうに頭をかいた。

「私ね、胃袋がないんだよ。食べられないものは特にないんだけど」
「そうなんですか」
「それに、学生の君にそこまでさせるのもどうかと思うからさ」
「わたしだって、働いているマイトさんにお世話になりっぱなしなのはどうかと思います……じゃあ、平日はわたしが担当して、土日はマイトさんが作るとかはどうですか? それならマイトさんが忙しくて帰りが遅くなる日が続いても、大丈夫ですよね」
「私の仕事は土日休みとは限らないんだけど、たしかに曜日を決めたほうが合理的だね。君の負担が多くて悪いけど、甘えさせてもらおうかな。そうしてくれる?」
「はい」

 施設では、寮監の先生と中学生以上の子供たちで自分たちの食事を作っていた。うまくはないかもしれないが、それなりにはできるつもりだ。

「でも今日は外で食べようか。まず入学式用のコートやスーツを買いに行って、それから食事にしよう」

 マイトさんの優しい提案に、小さくうなずいた。

***

 レストランに向かう途中、いい店があるんだとマイトさんは言った。
 ところが、ところが連れられるがままに入ったそのお店は、価格の設定がおかしい。少なくともわたしにはおかしく思えた。なにせコートが二十万円もする。
 桁を間違えているのではないかと何度も値札を確認したが、やっぱり間違っていない。
 この店には紳士ものも置いてある。もしかしたらマイトさんが今なにげなく羽織っているコートも、ここのものかもしれない。
 けれど学生のわたしにこの金額は分不相応な気がする。素直にそれを伝えると、マイトさんは苦笑しながら謝ってくれた。

「若い女性向けの服がよくわからなくてごめん。今度、助っ人を呼ぶから。スーツも、その時に一緒に選んでもらうといいよ」

 店をあとにしながら、マイトさんが言った。
 と、その時、なにかがわたしの肩に落ちてきた。淡いピンク色のこれは、桜の花びら。柔らかな春風の下で踊る小さな花びらは、これからのわたしの生活を暗示してくれているように、楽しげに見えた。


 マイトさんがつれていってくれたのは、美術館が併設されているビルの二階にある、フランス料理店。いかにも高級そうな店構えのお店だった。
 わたしは、ウエイターから渡されたメニューを眺めた瞬間に、固まってしまった。メニューに値段が書かれていない。

 そのうえ、お料理そのものもよくわからなかった。フランス語の下に、日本語で料理名が書いてある。でも、それにもあまり意味がない。たとえば、鶏のパイヤール風。そのパイヤールが、わたしにはわからない。
 そして最も困ったことは、わたしがテーブルマナーをよく知らないということだった。
 目の前に置いてある三角形の白い布は、どうすればいいのだろう。膝にかければいいのか、胸元に挟むのか。
 どうして、テーブルの上に、こんなにたくさんナイフやフォークが置いてあるのか。それらは微妙に大きさや形が違う。きっと、それぞれ意図があるのだろう。けれどわたしは、それらをどういう順番で使えばいいのかわからない。

「どうしたんだい?」
「あの……わたし、テーブルマナーがわからないんです」

 ああ、と、わたしに向かってマイトさんが優しく微笑みかけた。その柔らかい笑顔に少し励まされたような気がして、ほっと、息をついた。

「もしかして、フレンチははじめて?」
「はい」
「緊張しなくていいよ。その都度教えるから。初めてのフレンチならコースにしてみようか。そのほうが覚えやすいと思うよ」
「……ありがとうございます」

 やがて二人分の飲み物が運ばれてきた。
 ミネラルウォーターが入ったグラスとオレンジジュースの入ったグラスをそれぞれ手に、かちんと合わせて乾杯した。

「君が我が家に来てくれたことと、君がもうすぐ大学生になることを祝って」

 わたしが通うことになった大学は、地下鉄で二つ先の駅にある。最も難易度の高い国立には落ちてしまったが、合格した大学は全国的にも有名な私大だった。だがそこは、企業家や政治家のジュニアが多く通うことで有名な学校でもある。偏差値と同じように、学費が高いことでも有名だった。

 国立の発表の後、おそるおそるマイトさんに連絡を入れた。なぜワンランク下を受けなかったのか、高望みしすぎだ。そんな誹りを受けるだろうと思ったのだ。
 けれど受験に失敗し気落ちしていたわたしに、マイトさんは優しく言ってくれた。
 ――国立は残念だったけれど、君の合格した大学は最高の私学だよ。胸を張って通いなさい――と。
 電話の向こうから流れてきた低く優しい声に、どれだけ慰められたことだろう。自分が世話になるのがこのひとで良かったと、わたしはあの時、心から思ったのだった。

「ナイフとフォークは、料理が出てくる順番に並べてあるんだ。だから外側から使えばいいんだよ」

 料理が来たことにも気づかずに、自分の世界にいたわたしを現実に引き戻したのは、そんなマイトさんの声。
 彼はわたしに恥をかかせないよう小声でさりげなく、テーブルマナーを教えてくれる。スープを飲む時のスプーンの使い方、骨付きの魚が出た時の処理の仕方、食べている途中にカトラリーを置く場合のかたちなどを。
 同級生の男の子たちとは全然違う、落ち着きと嗜み。立ち居振る舞いのスマートな大人の男のひとというのは、総じてこういうものなのだろうか。

「マイトさんは、結婚しないんですか?」

 デザートを食べ終え、食後のコーヒーを飲んでいるとき、ずっと気になっていたことをたずねた。
 だって、不自然だ。このひとはぜったいモテる。
 出会った時は死神みたいと思ったけれど、よく見るとマイトさんはそれなりにかっこいい。背も高いし、立ち居振る舞いもスマートで、お金持ちで、そしてなにより優しいひとだ。

「私にはすみれが……君のママがいるからね」
「ママが死んで、もう十年も経つのに?」
「私にとってはまだ十年、だよ」

 静かな、いらえ。
 だがそれだけに、とても重いもののように感じられた。もうこの世にいない人間を、十年も愛し続けられるひとがいる。話には聞いたことがあるが、そんな人を目の当たりにしたのは初めてだった。

 今日のこの日までずっと、女手一つで苦労しながらわたしを育て、事故で亡くなった母のことを薄幸なひとだと思っていた。
 でも、今はそう思わない。だって母は、まだこんなにも愛されている。こんなにも優しくて、素敵なひとに。
 わたしもいつか、こんなふうに深く、誰かに愛してもらえる日がくるのだろうか。
 そう考えたら、なぜだろう。胸の奥がぎゅっとしめつけられるように、苦しくなった。

2015.7.8
月とうさぎ