黄金色のマスカレード

 駅は、そこそこの人でにぎわっていた。
 東京よりも、風がやや涼しい。茜色の空を背景にした山の稜線のところどころが、黄や紅に染まっている。
 もうすっかり秋なんだなと思った瞬間、ガンメタリックのSUVが、音もなくわたしの目の前にすべり込んだ。

「やあ。久しぶり」

 運転席で爽やかに微笑んだのは、わたしの年上の婚約者。
 いつもお洒落な俊典さんは、今日のファッションも抜かりない。黒のパンツに黒のシャツ、襟元にはシャンパンゴールドのボウタイ。そして人目を避けるためにかけたであろう、濃い色のサングラス。それらすべてが、俊典さんの雰囲気と彫りの深い顔立ちに、とても似合っている。
 思わず、見とれてしまった。
 あんなに何度も肌をあわせたひとなのに、なんだかどきどきしてしまう。それは三週間ぶりに会うという、ただそれだけの理由ではないはずだ。
 お疲れ様、という俊典さんの柔らかな声に、ありがとうございます、と答えながら、助手席に乗り込んだ。
 この胸が激しく打っていることを、彼に悟られはしなかっただろうか。

「すまなかったね。試験が終わった当日、呼び出してしまって」

 俊典さんの言葉通り、十月最後の土日――すなわち昨日と今日――は、司法試験予備試験の最終日。
 泣いても笑っても、これで最後。ここで落ちてしまったら、また来年、短答式試験からやり直しになる。
 予備試験が難関と言われる理由のひとつだ。
 だがさいわいにして、手ごたえはあった。
 けれどわたしの俊典さんは「試験、どうだった?」だなんて、無粋なことは聞かない。万事に置いてスマートな彼らしい、さりげない気配り。

「いえ。わたしも俊典さんに会いたかったので、嬉しかったです」
「ありがとう」

 俊典さんは穏やかに笑う。聞きなれたはずの、落ち着いた低音。でも今日は、電話を通したそれより、記憶の中の響きより、ずっとずっと甘くきこえる。

「疲れてないかい?」
「大丈夫です。やっと一区切りついたかなって、ホッとしているところです」
「……なんかさ」
「はい?」
「ちょっと見ないうちに、君はまた大人びて綺麗になったな。ちょっとどきっとしてしまったよ」

 俊典さんは、いつもこうだ。どきどきさせられているのは、こちらのほうなのに。大人の男のひとならではのサービストークに、わたしは簡単に有頂天にさせられてしまう。

「それに、そのワインレッドのドレス、とてもよく似合っている」

 似合うと言われたAラインのドレスは、俊典さんが選んだものだ。素材は上質なシルクで、総レースの袖部分とウエストの黒のサテンのリボンが、ちょっとしたアクセントになっている。
 そのドレスに、わたしは蜘蛛の巣柄の網タイツをあわせた。なぜなら、今日のデートのメインは、ハロウィンディナーだから。
 もちろん、この格好で試験に臨んだわけではない。
 わたしの試験は午前だったので――口述試験は民事、刑事と二日間あり、どちらも午前と午後の部に振り分けられる――家に帰る時間があったという、それだけのこと。
 一応、電車の中で浮かないように、上から薄手のトレンチを羽織って、ロングブーツを履いてきた。

「じゃあ、目的地まで、短いドライブを楽しもうか」
「はい」

 目的地は、ここから車で30分ほど走った先にある、大きな都市の外資系ホテル。俊典さん話によると、ハロウィン一週間前から、メインダイニングだけでなく、ホテル内での仮装が許可されるとのことだった。

 ホテルへと向かう道は、すいていた。
 秋の陽は、あっという間に落ちる。夕暮れに沈んでゆく国道沿いの街と、前をゆく車の群れのテールランプとのコントラストになぜか一抹のもの悲しさを感じて、わたしは俊典さんの横顔に視線を戻す。
 やっぱりかっこいい、と思いかけ、ふと、俊典さんがかけていたサングラスのレンズが、無色透明になっていることに気がついた。先ほどまでは、たしかに濃色だったはずだ。きっと調光タイプのレンズなのだろう。
 どうでもいいような細かいことに気がついてしまうわたしの悪い癖は、やっぱり今でも直っていない。

***

「さて」

 ホテルの玄関に車を横づけした俊典さんが、ダッシュボードから二枚のマスクを取り出した。一枚は黄金色、もう一枚はワインレッド。どちらも目元だけを覆うタイプの、美しい装飾が成されたベネチアンマスクだ。

「これ、つけるんですか?」
「うん。君がワインレッドで、私が金。せっかくのハロウィンディナーだからね。これなら『私』だと気づかれにくくなるだろうし。いいアイディアだろ?」

 たしかに、『神野』以降、二人で出歩くのが難しくなった。
 関係を隠す必要はないのだが、一般人……しかも学生であるわたしの立場を、俊典さんは慮っているようだった。オールマイトのパートナーというだけで、世間からは注目を浴びる。司法試験が終わるまでは、騒がれたくない。俊典さんはそう考えてくれている。

「どう?」
「カッコいいです」

 いらえて、はたと気づいた。
 俊典さんが後部座席に置いていた上着が、いわゆる背広ではなく、前裾が短く後ろ裾が長い、テールコートだということに。

 ドアマンがうやうやしく扉を開けてくれ、俊典さんが車から降りる。
 その瞬間、周囲の人たちの視線が彼に注がれたのがわかった。
 ハロウィンが近いせいか、仮装している人の姿も多い。宿泊客の中には外国人も多く見られる。けれどその中にあっても一段と背の高い俊典さんは、人目を引いた。
 そのまま彼は、周囲の視線には全く頓着せず、シャツの上から燕尾服をさらりと羽織った。襟と裏地の色は赤。裾裏には蜘蛛の巣の柄が入っている。
 そして車中で気づかなかったことが、もう一つ。黒一色に見えていたシャツとパンツに、柄があったということ。
 人工のあかりの下で浮かび上がったのは、彼の身体にそった、骨の模様。

「これ、面白いだろ? 太陽光の下と人工的な灯りの下では色が変わって見える、特殊な染料を使ったものなんだ」
「もしかして、オーダーしたんですか? 染めから?」
「うん」

 さらりと言われて、驚いた。
 和服の世界では、白生地を染めて着物を仕立てることはそう珍しいことではないというが、洋服の、しかも人生で何度着るかわからないハロウィンの仮装のために、そこまでする趣味人は珍しい。

「どころで実桜? 君、なにしてるんだい?」

 ドアマンに車のキーをあずけ、俊典さんが微笑した。

「ゴメンなさい……」

 俊典さんと助手席の扉を開けてくれたドアマンの両方に謝罪して、続けた。

「靴を履きかえるまで、待ってください」
「靴?」
「はい」

 バッグからピンヒールを出しながら、応えた。
 俊典さんが見立ててくれたのは、ワインレッドのドレスだけではなかった。もう一つが、このレッドソールのハイヒール。
 つま先は黒、踵に向かってワインレッドになるようグラデーションがかかった、エレガントなピンヒールだ。光沢のあるパテントレザーが、一切の無駄をそぎ落としたようなシンプルな形が、とても美しい。
 以前、同じブランドのハイヒールを買ってもらったことがある。
 あの時は、履くだけで女性の足を美しく見せる、そんな靴があるのだなと、深く感心したものだ。

「ああ。持ってきてたんだ。お気に召さなかったのかと思って、ヒヤヒヤしてたよ」
「ごめんなさい。とても素敵な靴なんですけど、これで階段をあがろうとすると、生まれたての小鹿みたいになってしまうので……」

 ロングブーツを脱ぎながら、そういらえた。12cmの高さがあるピンヒールで電車に乗るのは、わたしにはまだ難しい。もう少し修業が必要だろう。

「生まれたての小鹿か。それはそれで、かわいいな」

 ははは、と、俊典さんが目を細め、どれ、とわたしの足元にかがみこんだ。

「そのおみ足に、靴を履かせる栄誉を与えてもらえませんか。プリンセス」
「え?」

 否やと答える隙を、元ナンバーワンヒーローが与えてくれるはずもない。
 気づけばわたしのピンヒールは、俊典さんの手のひらの上。
 そして彼は、流麗な仕草でわたしに靴を履かせてくれた。さりげなく、そしてスマートに。
 一気に頬が熱くなった。
 ドアマンの青年も驚いている。そうだろう。海外ならいざしらず、日本の中年男性でこんな真似をさらっとできるひとは、そうそういない。
 わたしはますます、俊典さんに夢中になってしまう。

「どうしたんだい? お姫様」

 なんでもないです、と、口の中で小さく告げると、俊典さんが目だけで笑んだ。

「お手をどうぞ」

 差し出された白手袋の掌に、自分のそれを乗せた。わたしの倍はありそうな、大きくて分厚い俊典さんのてのひら。
 世界を救いつづけてきた人の手が、今は慣れないピンヒールでよろけそうになるわたしを支えてくれる。

「今日はいつもより話しやすいね」

 俊典さんが静かに言った。
 それは、12cmの魔法のおかげ。エスコートを必要とする美しくも華奢なピンヒールは、わたしたちの身長差をほんの少し、縮めてくれる。

***

「どう? 一人での生活」

 食後のエスプレッソを飲み干した時、俊典さんがたずねてきた。
 そんなの、さみしいに決まっている。どんなにすれ違っていた時期も、夜中や朝に目が覚めた時、隣に俊典さんがいた。いままでそばにいてくれた愛する人が、隣にいない。それがどれほどさみしいものか。
 さみしいのはわたしだけで、俊典さんは違うのだろうか。そう思ったら、泣きたくなった。

「どうしたの?」
「……さみしいです……とても」

 涙をこぼさないように、ゆっくり答えた。声が震えてしまったけれど、それくらいは許してほしい。
 わたしはこんなに俊典さんが好きなのに、彼は、いつも余裕しゃくしゃくで。

「はやく……前みたいに一緒に暮らしたい…………」

 すると俊典さんは、大きくため息をついた。
 どうしたのだろう。いけないことを言っただろうか、それとも、わたしの気持ちが重かったのだろうか。
 今日の俊典さんはマスクをつけているから、表情がわかりにくい。それが、ますます不安をかきたてる。

「もう出ようか……上に部屋をとってある」
「……はい」

 言われるがまま、レストランを後にした。
 わたしの手を取って歩く俊典さんは、黙ったままだ。見上げた彫りの深い横顔も、常より硬いように見える。
 と、その時、今まで気がつかなかった男性用オーデトワレの香りがふわりと漂った。
 食事の邪魔にならないように、至近距離まで近づかないとわからない程度につけられたフレグランス。熟練した男性こそができる、洗練された身だしなみ。
 本当に、こんな細部に至るまで、俊典さんは余裕たっぷり。

 ところが、ラグジュアリーフロアに向かうエレベーターに乗り込み、扉が閉まった瞬間。身体をぐっと抱き寄せられた。

「と……」

 としのりさん……と続けようとしたところを、渇いた唇に阻まれた。仮面と仮面が、かちり、とぶつかる。
 吐息までも食べられてしまいそうな、激しく官能的なキスだった。三週間ぶりにあたえられた口づけに翻弄されて落ちかけた腰を、力強い手が受け止める。わたしはそのまま、彼の熱に身をゆだねた。

「……っは……」

 唇が離れ、大きく息をついた。
 ごめん、と、頭上から、小さな低い声がした。

「あまりに君が愛しくて、我慢できなかった」

 言葉とともに、また降りてくる、彼の唇。それはさきほどまでの貪るようなものではなく、優しい口づけ。

「私もずっと、さみしかったよ。君に会いたくて、仕方なかった」

 一言告げるごとに、落とされる、触れるだけのキス。

「よかった……怒ったのかと思ってました」
「なぜ? さっきの会話で私が怒る要素は一つもないよね?」
「わたしがあんまり俊典さんに夢中だから……それが重いのかなと……」

 するとまた、俊典さんは口を大きくへの字に曲げた。

「君はさ……私を煽るのがうまいよね」
「あおる?」
「うん。君はわかってやってるわけじゃないんだよね。そういうところも含めて、好きなんだけど」

 どういうことなのだろう。どきどきさせられているのも、翻弄されているのも、掌の上で転がされているのも、いつもわたしのほうなのに。

「あのね、夢中なのは私のほうだよ。私がどれほど君にイカレてるのか、知らないだろ」

 わたしの薬指のリングに唇を落として、俊典さんが続ける。

「ああ、ホラ、またそんな顔をして。いいかい? 私がエンゲージリングを贈った女性は、君だけなんだぜ」
「はい」
「私がどれだけ君に夢中か、今夜はそれをたっぷり教えてあげる」

 甘い低音が耳孔に流し込まれた瞬間、エレベーターの扉がひらいた。
 黄金色のあなたとのマスカレードは、まだまだ続く。

2018.10.11

2018年ハロウィン。
※くろさんがにとたんオールマイトに金色のベネチアンマスクをつけられていたのを見て思いついたお話。

月とうさぎ