カシスレッドのひとかけら
〜It’s a piece of cake〜

 都内の一等地に、フランスの小さなお城を移築した瀟洒なレストランがある。エントランスには見事なクリスタルのシャンデリアが輝き、らせん階段の脇にはウォルナット材のペダルハープと、大輪の白薔薇のアレンジが飾られて。
 俊典さんが『東京最後の夜に』と選んだのは、そのシャトーレストランの個室のひとつ。マリー・アントワネットが愛した離宮の名をつけられた、素敵な空間。
 思わず感嘆のため息をついてしまったわたしに、俊典さんが優しく微笑んだ。

 エントランスに比べると小ぶりだが、ここにもクリスタルのシャンデリアがひとつ。テーブルセットは、白とシャンパンカラーを基調にしたもの。そこに煌めく、銀の燭台。
 着なれないエレガントなドレスとレッドソールのハイヒールにふらつくわたしをさり気なく支えながら、俊典さんが低くささやく。

「どうしたの?」
「なんだか、お姫様にでもなった気分です」

 ふ、と、彼が目を細めた。
 君は私のお姫様だからね、そう言いながら、俊典さんはわたしの左手の薬指に口づける。
 その指で凛とした輝きを放つリングは、蓮の花咲く池の前でわたしたちがかわした、密やかな約束のあかし。

「それはよかった。私もね、いつか君と、ここに来てみたいと思っていたんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。初めて君と外食したのも、フレンチだったよね。覚えているかい?」

 はい、と小さく答えた。
 あの時はテーブルマナーもわからなくて、はじめての本格フレンチにひどく緊張したものだった。たった二年しかたっていないのに、ずいぶん遠い昔のことのような気がする。

「あの時は、まさか君とこんなふうになるなんて思ってもみなかったな」
「……わたしもです」

 さみしいな、とひそかに思った。
 こうして過ぎ去った日々を思い返すには、わたしたちがふたりで刻んだ日々は、まだ浅すぎる。
 明日から、俊典さんは雄英の寮へ。わたしは今までどおりこの街で。離れ離れで生きていく。

 といっても、もちろんそれは、試験が終わるまでの数か月のこと。
 司法予備試験の最終試験は十月。それに受かれば、来年の五月にはいよいよ司法試験だ。その結果がどうあろうと、以降はわたしも雄英の近くに越すことになっている。
 来年度になれば履修する授業の数がぐっと減る。司法試験を希望するわたしは就職活動もしないから、遠距離の通学はそう苦にならない。
 そしてもしも、もしも、難関であるこの試験に合格できたら、わたしは晴れて八木の姓になり、また生活を共にする。
 それが、わたしたちふたりが交わした約束。

 だからこれは、ほんの数か月の、短い間のお別れだ。
 それなのに、どうして今ごろになって、こんなに悲しい気持ちになってしまうのだろう。覚悟はしていたはずなのに。

 ついと見上げた先には、きらめく豪奢なシャンデリア。
 きらきらと輝くパーツがクリスタルでできた涙のように思えて、そっと、眉を寄せた。

***

 今夜の俊典さんは、いつもより優しくて、そして情熱的だった。
 普段ひんやりとしているあの大きな手のひらが、あばらの浮いた薄い胸が、筋張った腕が、わたしを抱くときにだけ燃えるように熱くなるのはなぜだろう。
 行為があってもなくても、彼の体温に包まれながら過ごすひとときが、とても好きだった。事後の燃えるような熱い身体も。そうでない日の、ひんやりとした骨の感触も。
 けれど明日から、この時間がなくなる。この大きなベッドで、わたしはひとり寂しく眠るのだ。
 そう思った瞬間、大きな不安に襲われて、反射的に、きゅ、と彼の指を握りしめた。
 俊典さんは、少しだけ目を見開いて、次に「どうしたんだい?」と優しく笑った。

 返事ができない。
 やっぱり、離れるのはいや。

 わたしは俊典さんを信じている。
 けれど、サー・ナイトアイが予知したと思われる、彼の絶望的な未来。それが気にかかる。もしも本当に俊典さんの命が残りわずかであるのなら、自分の夢など放りだしてでも、そばにいたい。一分一秒たりとも、離れていたくなどない。

「実桜?」

 そうだ。今からでも遅くない。
 明日、朝一番で入籍をすませてしまおう。そうすればわたしも雄英の職員寮に住むことができる。そこから大学に通えばいい。下り電車だ。通学にかかる時間を勉強に当てれば――。

 その時、ぽんぽん、と、俊典さんがわたしの背を叩いた。

「俊典さん……」
「大丈夫。私は未来を変えてみせるよ」

 落ち着いた低い声に、続けようとした言葉を飲みこんだ。
 見透かされていたのだ。

 それはいったい、どこまでだろう。
 わたしがいま、俊典さんと離れたくないと思ったことだろうか。
 それとも、わたしが俊典さんに内緒で、一度ナイトアイと会ったこと?いやもしかしたら、ナイトアイの予知の内容をわたしが察してしまったことすらも、俊典さんは気づいているのかもしれない。
 あり得ない話ではない。だって彼は、オールマイトなのだもの。全能の名は伊達じゃない。

「信じて。私も君を信じてるから」
「はい……」
「毎日、連絡する」
「……はい」

 薄い胸板に顔をうずめて、抱きついた。ぽろぽろ出てくる涙をそのままに。
 
「あいかわらず、実桜は泣き虫だな」

 わたしの頭をくしゃくしゃとかきまわした俊典さんのその声も、すこし湿り気を帯びているような、そんな気がした。

***

 暮れなずむ街並みを見おろしながら、ひとり、息をついた。
 結局、今日は一日、勉強が手につかなかった。俊典さんが発ったのは今朝のことだというのに。

 高層階から見下ろす都会の夕暮れは、まるで映画のセットのようだ。
 この街を象徴するトラス構造の電波塔と、天突く摩天楼と。あの高層ビルの灯りのひとつひとつに、人々が息づいている。それを護るために、オールマイトは、俊典さんは、この世界の柱になろうと志した。
 そう思うと、ますます切なさがつのる。

 暗くなってきたので、電気のかわりに、アロマキャンドルをひとつ、そっと灯した。
 ゆらゆらと揺れるおぼつかない炎は、ぶれにぶれまくっているわたしの心と同じ。俊典さんの一挙一動で、消えもすれば燃え上がりもする。
 あのひとの不在が、こんなにもわたしの心に影を落とすなんて。
 いなくなってしまったわけじゃない。ほんの数か月離れて暮らす、ただそれだけのことなのに。

「でも……やっぱりさみしい……」

 ぐす、と鼻をすすったその時、インターフォンが鳴った。

 誰だろう。このマンションには、セールスの類はそうそう入れないはずなのに。
 内心でつぶやきながら、モニターを覗き込む。
 涙が頬を伝っておちた。
 広いエントランスで所在なさげに立っていたのは、十八禁ヒーロー、ミッドナイトそのひとだった。



「仕事でこっちに来たもんだから、つい寄っちゃった。あんた、夕飯どうした? もう作っちゃった?」

 開口一番、睡さんはそう言った。

「まだです。どうしようかと思っていたところで……」
「よかった! たくさん買ってきちゃったから、これ、夕飯にして」

 手渡されたのは、近隣のデリカテッセンで購入したと思しき惣菜の数々。先日俊典さんと出かけたシャトーレストランの支店でもあるブーランジェリーの、パンやキッシュもある。

「このへん、いいわよね。近くに美味しくておしゃれなデリがたくさんあって」
「そうですね。ちょっとお値段はりますけど。……とにかく、かけてください」

 睡さんの好きそうな香り高いお茶を丁寧に淹れながら、涙を必死でこらえた。
 どうしてこのひとは、こんなにも優しいのだろう。
 少し前にも、これと似たようなことがあった。神野の悪夢、と言われる、オールマイトの最後の戦いのあの日に。
 脳裏によみがえるのは、暗闇の中で鳴り響く呼び出し音。

『……もしもし』
『ごめん、寝てた?』
『いえ……起きてました』
『そうね、あんたがアレを見て寝られるわけがないわよね……大丈夫?』
『はい……大丈夫だと思います。明日には帰るとさきほど連絡がありました』
 電話の向こうで、小さなため息の音が聞こえた。
『……バカね』
『はい?』
『あたしがいま心配してるのは、オールマイトのことじゃない。アンタのことよ。実桜』
 そのまま電話口で泣き崩れてしまったわたしを、睡さんはやさしく慰めてくれた。

 そんな睡さんだ。今日もきっと、わたしを励ますためにわざわざ寄ってくれたのだろう。
 わたしには親きょうだいはいない。けれど、わたしの周りには、こんなにも優しいひとがいる。それがどれだけ恵まれていることか。
 ありがたい、と、心から思う。



「ねえ、聞いていい?」

 黄緑と白と朱色が綺麗な海老とアボカドのサラダをつつきながら、睡さんが言った。

「どうしてすぐに籍を入れなかったの? ついてきちゃえばよかったのに。大学だって、通えなくはないわよね」
「……そうしたかったんですけど、先に『試験が終わってから』と言われてしまったので、なんとなく自分からは言い出せなくて……」
「……」
「それに、とし……じゃない……マイトさんのいうことも正論だと思ったので……」
「ああ、あんたたちふたりとも、なんだかんだいって、恋愛面ではちょっとずれてるからね」
「……え……わたしもですか?」
「自覚なかったの?」

 と、笑いながら睡さんが続ける。

「試験が終わるまで待つって言っちゃうオールマイトさんもオールマイトさんなら、わかりましたって返しちゃうあんたもあんた。ある意味似た者どうしなのかもね、あんたたち」

 そうなんでしょうか、という疑問の言葉を飲みこんで、ちいさく頷いた。

「……睡さん」
「ん?」
「司法試験の予備試験の合格者の割合を、ご存知ですか?」
「ゴメン、知らない」
「全体の、約3パーセントです」
「……それはけっこうな難関ね……」
「だからそれに合格できたら、あのひとに相応しい女性に、少しだけ近づけるような気がするんです」

 難関である試験に受かったから、それだけの努力をしたから、自分はオールマイトに相応しいのだなどと、驕ったことを言うつもりはもちろんない。
 でも、ここで頑張ってあの狭き門をくぐれたら、ほんの少しだけ偉大な彼に近づける気がする。これは子供の発想だろうか。

「ばかね。近づくもなにも、あんたはすでにあの人に相応しい女になってるわよ。そこはあたしが保証する」
「そうでしょうか」
「そうよ」

 睡さんがわたしの手を取った。
 その優しさに、思わず本音がぽろりと漏れる。

「……でも……そう心に誓って決意したのに、実際離れてみると……まだ半日しか経ってないのに、すでに寂しくて……」
「わかるわかる。あんたのそういう青臭いところ、とっても好きよ。だからね、今夜は綺麗で美味しいものをたくさん食べましょ」
「飲む、じゃなくてですか?」
「そうよ。ヤケ酒なんて、よくないやり方」
「……はい」
「あのね、実桜。お酒はね、悲しいときに飲んではだめなの。それでは美味しく感じられないし、体に悪いわ。なにより怖いのは、それが習慣になってしまうことよ。お酒はね、楽しい時や幸せな時に飲むものよ」
「はい」
「こういう時はね、女同士でおしゃべりしながら、美味しいデリやかわいくて綺麗なスイーツを、舌だけじゃなく、眼でも楽しみながら食べるの。よほど絶望しているときはまた別だけど、さみしい時に綺麗なものやかわいいものを見ていると、少し気持ちが明るくならない?」

 確かにその通りかもしれない。
 もともとわたしはかわいいものが好き。好きなものに囲まれていると、気持ちもあがる。

「買ってきたスイーツもかわいいの。開けましょうか」
「はい」

 睡さんに勧められるがまま、スイーツの入ったボックスを開けた。

「……きれい」
「ふふふ……美味しそうでしょ。アンタどれにする?」
「どれもおいしそうですね」
「遠慮しないで好きな方を選びなさいよ。赤いのはマロンのムースをカシスのジュレでコートしたもの。茶色いほうはヘーゼルナッツと塩キャラメルのノワゼッティーヌよ。濃いローズは苺のピスタチオのクリームを交互に重ねたもので、グリーンは抹茶のビスキュイ」
「じゃあ、わたしは赤のカシスを」
「こういうかわいくて綺麗な甘いものを食べているときって、至福よね。女の子の幸せな時間って感じで」
「ですね。でも、マイトさんはこういう可愛いお菓子も大好きですよ」
「あー。あのひとはほら、女子力高いメンズだから」

 ふふっ、と笑って、今、あの人はなにをしているのかなと思ったら、また涙がこぼれそうになった。
 情けない。こんなんじゃ、励ましに来てくれたであろう睡さんにも申し訳ない。

「いい、実桜」
「はい?」
「オールマイトさんのほうもね、いっぱいいっぱいだから」
「え?」
「あたし見ちゃったのよ。オールマイトさんがポケットに入れて持ち歩いてる、本のタイトル」
「本、ですか?」

 そうよ、と言いながら、睡さんが目の前で二本の指をピンと立てる。

「一つは『すごいバカでも先生になれる』って本」
「……それは……すごいタイトルですね……」
「そしてもう一つが『離れていても大丈夫〜遠距離恋愛でもうまくいく10の秘訣〜』」

 そんなばかな。
 確かに俊典さんはいつも「余裕がないのは私のほうだ」と言う。でも、まったくそんなふうに見えない。だって彼はあんなに大人だから。
 でも本当に、そうなのだろうか。あんなに完璧な男の人でも、不安になったりするのだろうか。

「アンタにとっては、長い数か月かもしれない。でもね、そんなのはあんた今までしてきた思いに比べたら、この一切れのケーキを食べる程度のモンよ」

 こくりとうなずいたわたしに、睡さんがふふふと笑う。

 そう。絶望だったら、何度もした。母の恋人だったひとを好きになってしまった、その瞬間から。
 そのうえ彼は、自己犠牲の塊であるオールマイト。己の身を削って人を救ける彼を見守り続けた日々は、甘く幸せだったけれど、ある意味では絶望の連続でもあった。
 それに比べれば、一時的に離れるさみしさなんて、きっと、なんてことない。

 俊典さんは約束してくれた。未来を変えてみせると。だから君の将来を私にくれと。
 その言葉を信じて、わたしは全力をつくすしかない。
 こんな障害はそう、この赤いケーキを一切れ食べる程度のこと。

 ~It’s a piece of cake.~
 楽勝だ。

2017.10.25
月とうさぎ