カーテンの隙間からこぼれる春のはじめの陽光は、すでに夜が明けていることを示している。だが、そこは、まったくもって見覚えのない部屋だった。
次いで、微睡みの中で感じていた違和感の正体に気がついて、血の気が引いた。慌てて飛び起き、自身の身体を確認する。
どうして、と、内心で叫んだ。
奏音は衣服を身につけていなかったのだ。そう、下着すら。
「ええ……」
今度はきちんと声を出して――そしてそれはかなり弱々しいものだった――、もう一度室内を見回す。
大きな家具はベッドと壁掛けモニターだけという、シンプルな室内だ。
色合いは明るく、カーテンと掛け布団カバーは黄色だ。黄色の分量が多いのにそれをうるさく感じないのは、他のファブリックにアイボリーとライトグレーを合わせているからだろう。
明るいけれど、やわらかい。
これまで一度も訪れたことのない部屋だが、この部屋の雰囲気にぴったりな人物に、ひとり心当たりがあった。
自分を落ち着かせるためにふうと大きく息をつき、再び室内を見やった。
今自分がいるベッドに比べたら、クイーンサイズのそれなど子供用に見えてしまうだろう。巨大すぎる寝台と黄色を多用した布類。そして極めつけは、ヘッドボードの上にのっている、目覚まし時計の存在だった。
まんまるで黄色いボディの中央にアナログ時計が配置されているそれは、この街を代表するヒーローの公式グッズだ。
絶望的な気分になりながら、目覚ましのスイッチをちょんと押す。と、予想通り、鳴り響いたのは「おはようさん」という聞き覚えある声。
「……これは……やっぱりそういう……コト?」
どこかの小さくてかわいいキャラみたいなセリフと共に、もう一度大きなため息を吐き出した。
***
昨日、元カレの結婚をSNSで知った。
相手に粘着していたわけではない。もちろんフォローもしていない。ただかつて同じ大学の、同じピアノ科に所属していた関係で、共通の知り合いが多かった。なので本人の結婚しましたというポストが、他の友人による引用で回ってきたのだ。
別れた時、ブロックするのも変に意識しているような気がして、フォローを外すだけにしておいたのが災いした。ミュートくらいはしておくべきだったのだ。
元カレに未練があるかと問われると、ないと応えることができる。けれど、「元カレに先を越された」という一点に、心がざわついた。悔しいというほどでも、しゃくに障るというほどでもない。ただなんとなくモヤつき、平常心ではいられないという、そんな微妙な感じだった。
憂さ晴らしではないけれど、お酒を飲みたい気分になったので、半年ほど前に友人の結婚式で知り合った二歳年下のヒーローに連絡をした。彼とはたまに食事をする仲だ。恋をしているというほどではないが、ほんのりと良いと思っている――そしてきっと向こうもそう想ってくれている――微妙な関係の相手だった。
彼といつも行く店は定休日だったので、界隈に新しくできた洋風居酒屋の名を告げると、彼は「ラジャー」と小さく答え、通話を切った。
ところが、待ち合わせた時間になっても、彼が来ない。
これは存外よくあることで、ヒーローという彼の職業を思えばしかたないことだ。彼らは世のため人のため、身を粉にして働いている。急な事件対応や呼び出しも少なくはない。だからまたかと思いつつ先に飲み始めて、しばらくの時間が経過した頃のことだった。
「どうぞ」
それは二層、いや三層に分かれたカクテルだった。一番下が黒、その上がクリーム色で、一番上が琥珀色。綺麗なお酒だが、あいにくそれを頼んだ覚えがない。
不審に思って顔を上げる。と、カウンターの向こうで微笑む店員と目があった。
「これ、頼んでないけど?」
「あちらのお客様からです」
古いドラマなんかでたまに見る、「あちらのお客様からです」というやりとりが現実にあるのか、とひっくり返りそうになりながら、バイトの子が示した奥の席を見やる。と、そこににやけた笑みを浮かべた、若い二人組の姿があった。
いや。サムいって……と、内心でツッコミつつ、視線が合ったことには気づかなかったふりをして目をそらした。
けれど困ったことに、彼らは席を立って、こちらに移動してきた。
もちろん、そういうつもりはかけらもない。奏音の背を嫌な汗がしたたり落ちる。
しかし彼らはこちらの焦りなどおかまいなしで、奏音を挟むように左右の席に座り込んだ。近くで見るとかなり若い。もしかしたら大学生かもしれなかった。
「ごめんなさい。こちらのお酒はいただけません」
刺激して攻撃されても怖いので、やんわり断りを入れる。が、彼らはしつこく食い下がってきた。
「いやいや。おねえさん、そんなつれないこと言わんと」
「お姉さん飲んでるのカルーアミルクやろ? これもカルーアとクリームのカクテルや。甘くて飲みやすいから試してみ?」
「……いえ、もうすぐ連れも来ると思いますので」
「いややなぁ。さっきからずっと見てたけど、連れが来る気配なんて皆無やん」
「少し遅れているだけで本当に来ますし、とにかくこれはいただけません」
そんなやりとりを続けていると、すぱーん、という盛大な音と共に、店の扉が開いた。
「おう、悪い悪い」
とたん、店の中がざわついた。さもありなん。入ってきたのは、この界隈、いや関西で絶大な人気を誇るヒーローだ。かなり急いで来たのだろう。彼は私服ではなく、ヒーローコスチュームのままだった。
「もー、遅いよ」
「すまんすまん。帰り際に出動要請かかってしもて、事件はすぐ解決したんやけど、事後処理にちょお手間取ってな。……で、そちらさんは?」
と、遅れてきたヒーロー――ファットガム――が笑った。しかし、その目は笑っていない。
かつて武闘派でならしたというヒーローの鋭い眼光を受け、若者二人が縮み上がった。
「え、いや……」
「なんでもないです……」
「ほな自分の席戻り。その人俺の連れやから」
「「ハイ!」」
二人は弾かれたように席を立ち、なぜか自席には戻らず、慌てふためきながら会計をすませて、転がるように店を出て行った。
「……なんなん、アレ」
「ナンパのつもりじゃない? このお酒、奢ってくれたし」
「酒?」
「うん。カルーアとクリームのお酒だって。飲みやすいらしいよ」
そう言ったとたん、ファットがマスクの上からでもわかるほど強く眉を寄せた。
「ちょお失礼」
グラスを手にして、くん、と匂いをかぐ。と、彼はますます険しい顔になった。
「……あいつらタチ悪いな。これB52やん」
「B52?」
「おん。カルーアとグランマニエにベイリーズを加えたカクテルや。甘くて飲みやすいけど、全部リキュールで出来てるから、アルコール度数はめっちゃ高いで」
ファットは彼らを追おうとしたのか腰を浮かせかけ、また気を取り直したように座り直した。
お酒に薬物を入れたとか、無理矢理強い酒を飲ませたというなら話は別だが、今の段階では、酒を奢ってくれただけだ。
注意しようにも、強いかどうか知らなかったとごまかされてしまえば終わりである。
「あとで店の方にも注意しとくし、パトロールも強化するわ……」
そしてファットは、ほんま遅れてすまんかった、と続け、黄色いフードに包まれた頭を下げた。
「ちゅうことで、これは俺が飲むわ」
「でも、ファット甘いお酒あんまり好きじゃなかったでしょ?」
「好んでは飲まへんけど飲めないこともないで。こない強い酒奏音ちゃんに飲ませるわけにもいかへん。君、そんなに酒強ないし。ビールで乾杯したあと、俺が飲むわ」
「うん。じゃあお言葉に甘えちゃう」
いいなと思っている相手にこんなことを言われたら、嬉しくなってしまう。それを隠せずにやにや笑いを浮かべていると、ファットもまた、やわらかく笑んだ。
「で、今日はどないした?」
「それがさあ……」
ファットの前に大ジョッキが置かれたので、手元のカルーアミルクを掲げて乾杯をして、諸々の事情を話す。――と、彼は大きなおくちをあんぐりとあけて、なんや、と呆れたように呟いた。
「奏音ちゃんさあ、その元カレにまだ未練あるん?」
「ないよ。ぜんぜん」
「ほな、結婚しようがしまいが、もうええやんか」
そうなんだけどさ、と告げて、「カルーア少なめ、ミルク多めで」と指定して酒のおかわりを頼んだ。
「仲間はみんなわたしたちがつきあってたの知ってるし、先越されちゃったなーって思うと、なんかこう、モヤつくのよねえ」
「負けた感じがする、とか?」
「まあ、そんなとこ。我ながらくだらないとは思うんだけどさ」
「で、俺が愚痴聞き役として駆り出されたっちゅうことか」
「そうです。悪いね」
「ええけども」
と、ファットはからりと笑い、ぐいとビールを飲み干した。相変わらずいい飲みっぷりだ。ちなみに彼は食べっぷりもいい。
運ばれてきた唐揚げをあっという間にたいらげて、ファットガムは続ける。
「奏音ちゃんと別れたあと、よう別の女と結婚なんてでけたなあと、ファットさんは思いますけどね」
「へっ?」
思いもかけない言葉に、間抜けな声が出た。
「俺やったら、そう簡単に次へはいけへんわ。奏音ちゃんほどいい女はそうそうおらんやろ」
「ええー。まじでぇ?」
完全に舞い上がり、ファットの背中をばしりと叩いた。彼は衝撃を吸収する個性の持ち主なので、奏音ごときが叩いたところでびくともしない。おそらく痛みすら感じていないのではないだろうか。
「ほんまやて」
と、ファットが常とは違う様子で静かに告げた。
動揺して彼を見上げると、琥珀色の瞳に自分が映っているのが見えた。その真剣さにどきりとして、思わず目をそらす、と、ファットは常のように、呵々と笑った。今の静けさが嘘のように。
「初めて見たときは月の女神かと思ったで……よう知ってみたら、女神でもなんでもないおもろい姉さんやったけど」
「なにそれ」
一瞬でも軽口を真に受けてしまった自分を恥ずかしく思いながら、グラスに手を伸ばし、中身を一気に飲み干した。
「奏音ちゃん。それ君の酒ちゃう! B52や!」
ファットの叫びが、遠く聞こえた。
***
はっきり覚えているのはそこまでだ。
おぼろげな記憶の中で、店を出たあと川沿いを少し歩いて「桜はまだだねえ」なんて話をして、駅前に新しくできた噴水広場に立ち寄ったような気もするが、そのあたりはファットと歩きたいと思っていた場所なので、実際にあったことなのか、夢だったのかはわからない。
それよりも、と、頭を抱えながら思う。
今のこの状況だ。この馬鹿でかいベッドと、その傍らに落ちている馬鹿でかいTシャツはどう考えてもファットのものだ。そこで全裸で目覚めたということは、おそらくそういうことだろう。
ファットガムの性格からして、強引に部屋に連れ込まれた、ということはないだろう。元々ファットのことは憎からず思っていたし、もし口説かれたらつきあっちゃうなと考えてもいた。なんなら自分から口説いてみようかと思ったことすらある。
だから酔った勢いでいたしてしまったに違いない。そのあたり、まったく記憶がないけれど。
「うわあ……」
いろいろ考えていたら、思わず声をあげてしまった。
と、それを聞きつけたのか、寝室の扉が小さくノックされた。
「……はい……」
恐る恐る返事をすると、扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえてきた。
「奏音ちゃん、起きた?」
少ししゃがれた低い声は、間違いなくファットのものだ。どきどきしながら、はいといういらえを返した。
「扉開けてもええ? 着替えもってきた」
「えっ、あっ、はい、どうぞ」
間抜けな声を上げてブランケットで身体を包む。と、遠慮がちに扉が開かれ、大きな手がにゅっと出てきて、床に着替え――昨晩奏音が着ていた服だ――をそっと置いた。
「ここに置いとくから、着替えたら出てきて」
「……うん」
応えた声は、自分で意図したよりもずっとずっと弱かった。
*
着替えて寝室を後にする。と、廊下の先で、ファットが待っていた。こっち、と手招きされて、リビングへ。
三十畳はかるくあろうというその部屋に置いてある家具は、ベッド同様どれも大きい。促されたのでソファに座る。と、同時にお水の入ったグラスを渡されたので、ありがたくいただいて、テーブルに戻した。
それらの動作を見守りながら、ファットがやわらかく笑う。
どきん、と心臓が跳ね上がった。
前々からいいなと思っていたけれど、一夜を共にしたと思うと、どうしても意識してしまう。ファットってこんなにいい男だったっけ、と思いかけ、いやチョロすぎるでしょわたし、と、奏音は内心で呟いた。
そんな想いを知ってか知らずか、ファットが正面の座布団にすとんと腰を下ろした。彼は身体が大きいから、床とソファという差があるにもかかわらず、目線の高さはかわらない。
「あー。奏音ちゃん、昨日のことやけど」
頭をぽりぽりとかいて、ファットが視線を泳がせる。
少し悲しい気持ちになって、同じように視線をそらした。
こういう状況、ドラマなんかで見たことがある。勢いで一夜を過ごした後、きまずくなってしまうやつだ。
ファットはおそらく、ノリで一線を越えてしまったことを後悔しているのだろう。申し訳なさそうな様子からも、それはわかる。
ここで謝られたら、倍つらい。
先ほども思ったが、彼の性格上、むりやりされたということはないだろう。こちらが少しでも嫌がるそぶりを見せたら、やめてくれたはずだ。ファットガムがそういう男であることを、充分すぎるほど知っている。だから。
「うん」
と、あえて明るい声を出して、顔をあげた。
「昨夜は飲み過ぎちゃったみたいで、ごめんね」
「いや……謝るのはこっちや。ほんますま……」
「悪いのはわたしだから!」
謝罪の言葉を聞きたくなくて、ファットの声を遮った。ぽかんとしている彼の目を見つめて、きっぱりと告げる。
「だから、ファットさえ許してくれるなら、もうこのお話はおしまい。また今まで通り、変わらずごはん食べに行ってくれたら嬉しい」
「あ、うん。……奏音ちゃんがそう言うなら……」
「ありがと」
と、つとめて明るくそう告げて、立ちあがる。
「じゃあ。今日はこれで。泊めてくれてありがとう。お世話になりました」
「え、もう帰ってまうん?」
そりゃあんな困った顔されたらね、と内心で呟いて、しかし実際には「お昼からレッスンがあるから」と応えた。これは嘘ではない。
奏音の個性は音叉。おかげで絶対的な音感はあるので、音大を出て、今は楽器会社が運営する音楽教室でピアノ講師をしている。今日のレッスンは一時からだ。
仕事の前に、気持ちの整理をつけたい。
「そうか。ほな、また」
と、ファットはまんまるのおかおに、満面の笑みを浮かべて告げた。
*
ファットに別れを告げ、外に出た途端、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。
慌てて、空を見上げた。哀しいくらい、いいお天気。
青い空と白い雲と、そしてファットとよく似た金色のおひさま。
ほんとうに、おひさまってファットみたいだ。大きくて、明るくて、温かくて、いつも見えるところにいてくれて。
――でも、本当は、とても遠い。
いま気がついた。自分で思っているよりずっと、ファットのことが好きだったってこと。
それなのにわたしはばかだ、と内心で叫ぶ。
記憶をなくすくらい酔い潰れて、安易に関係を持ってしまうなんて。せっかくいい感じだったのだから、もっと大切に育めばよかった。
いや、いい感じといっても、彼は奏音に恋愛感情を持ってはいない。
呼べば来てくれるけれど、太陽と地球の間に一億キロ以上の距離があるように、ファットと奏音の間には、近いようで果てしなく長い距離がある。
近くて遠い、太陽のようなひと。
「まぶしいなあ」
はるか遠くで輝く偉大なる星を見上げてそうひとりごち、そっと目をとじる。目の奥に太陽の像が黒く残って、奏音はますますかなしくなった。
2025.3.10
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