月の光

 半年ほど前から、いいなと思っている女性がいる。
 出会いは二つ年上の女性ヒーローの結婚式。披露宴で新郎新婦入場のピアノ曲を弾いていたひとで、新婦――つまりはファットの先輩ヒーローの、中学時代の友人という話だった。



 披露宴会場の白いグランドピアノの前に座る彼女は、銀色のラメがちりばめられた黒のドレスに月明かりのような銀色のボレロをまとっていて、秋の月光そのもののようにまぶしく、そして神秘的だった。
 その場で話しかけることなどもちろんできず、ファットはそのまま二次会へと流れた。当然、彼女も。

 二次会ではいくつかの余興やゲームが行われ、やがてありがちなビンゴ大会へと突入した。次々にビンゴが出、普通に景品がなくなったところで、司会をつとめている幹事が声をはりあげた。

「ではここで、四番目と九番目にビンゴした方、前においでください」

 特別賞でもあるんかいな、と思いながらジョッキのビールをあおる。と、先ほどピアノを弾いた彼女と、振り袖姿の女性が前に出てくるのが見えた。

「では、四番と九番の方は、新郎新婦のこれからの『くるしみ』を排除するという験担ぎで、こちらのドリンクを一気飲みしていただきます」

 その声と共に出てきたのは、特大ジョッキになみなみと注がれたコーラだ。

 今時それはどうなんや、とファットは思った。

 新郎新婦に目をやると、ふたりともが困惑した顔をしている。ということは、これは幹事連中のサプライズゲームだ。だが該当者が自分のような大食漢であれば面白いかもしれないが、今回のふたりはどうみても一気飲みとは無縁そうな女性たちだ。飲み物が酒でないだけまだましだが、こうした大昔の体育会でよく見られた悪ふざけめいた余興は、最近ではあまり歓迎されない。

 呼ばれて前に出たふたりも、困ったように眉を下げている。
 さもありなん。飲めないといえば場の空気が壊れてしまうし、かといって無理に飲んで、飲みものを晴れ着にこぼしてしまったり、気分を悪くしてしまったら一大事だ。

――かわいそやな。

 ここは俺が道化を演じて助けるべきやな、と、ファットが席を立とうとした、まさにその時。

「恩佐奏音、一気いきます!」

 叫んだのは披露宴でピアノを弾いたあのひとだ。そして彼女は二つのジョッキを両手に掲げ、それぞれを一息に飲み干した。いやその飲みっぷりの見事なこと。

「ごちそうさまでしたッ!」

 彼女が空になったふたつのジョッキをテーブルに戻すと、拍手喝采が巻き起こる。そして彼女――恩佐奏音――は、振り袖姿の女性の手を引いて司会連中に会釈をし、颯爽と自分たちのテーブルに戻っていったのだった。

――いや、きっぷのええ女やな。

「それでは余興も一段落しましたので、皆様しばしご歓談ください」

 司会の言葉を受け、それぞれがグラスを片手に移動を始める。ほな俺も、と、ファットは今さっき豪気にコーラを飲み干したひとの姿を探したが、なぜか会場に見当たらない。
 もしや外かとフロアを出てみると、レディス用のレストルームから現れた彼女と遭遇した。気分がよくないのか、ひどく青い顔をしている。

「……おねえさん、大丈夫? さっきは難儀やったなあ。もしかして気分悪なってしもた?」

 あー、と、奏音が軽く首を振り、一番近くにあったソファに、腰を下ろした。

「あの量は、ちょっとね……」

 そらそうやろな、と、自分よりはるかに細く小さい身体を見おろして、「隣ええ?」と呟くと、やや苦しげな笑みとともに「もちろん」といういらえが返された。

「なんでふたり分飲んだん?」
「あの子炭酸飲めないの。でもすごい気を使う子で。ほっといたら無理して飲みかねなかったから、代わりに引き受けたの。場の空気を壊しちゃったら、新郎新婦に申し訳ないからね……」

 そう言って微笑したそのひとを見た瞬間、ファットの胸になにかが刺さったような気がした。それは甘酸っぱく、微かな痛みと熱を伴った、小さな鏃。
 ジョッキ二杯を一気に飲み干したのは、目立ちたいからでも「そういう個性持ち」だからでもなく、ただもう一人の友人と新郎新婦と幹事、周りすべてに気を使ったから。そして気分が悪くなったら、それを誰にも気取られることなく席を立つ。
 たおやかな外見にそぐわない、なかなかの侠気。

「ほんで自分が気分悪なってたら世話ないやん。せやけど姉さん、むっちゃかっこええな」
「ありがと」

 と、青い顔で応えたあと、奏音はいたずらっぽく笑った。

「まぁ、関西の雄と名高いファットガムさんほどではないですけどね」
「お。知っとってくれた?」
「知ってるも何も、関西であなたのこと知らない人はいないでしょ。それにわたし、職場も住まいも江州羽だし」
「ええ。ほんま? どのへんや?」
「職場はあなたの事務所からすぐ」

 と、彼女は言葉を濁した。
 が、事務所の近くに楽器会社所有のビルがあることを、ファットガムは知っている。たしかあそこは、三階から五階が音楽教室になっているはずだ。ピアノ伴奏の際、奏音がピアノ講師をしているという紹介があったので、おそらくはそこで働いているのだろう。

「ほな、今までどっかで会ってたかもしれへんな」
「っていうかね、わたしはあなたのことちょくちょくお見かけしてましたよ」
「そうなん?」
「ファットさん、大きいし元気いっぱいだし目立つし」

 くすくすと笑いながら彼女がこちらを見上げた。その笑顔はやはり夜の闇を照らす月明かりのように、清らかだ。

「まぁ、たしかに俺は図体も声もばかデカいけども」
「でもそんなファットさんのおかげで、江州羽の治安は守られてるんだよね。ほんといつもお世話になってます」

 ぺこりと頭をさげられて、思わず口元がゆるんだ。月の化身のような――あの一気飲みを見る限りでは剛毅なところもあるようだが――女にこう言われれば、正直、悪い気はしない。

「ほな近所のよしみや。よかったら今度飯でも食わへん? 奢ったるわ」
「年下のくせに生意気ねぇ」

 声にからかうような響きがあった。けれど手応えは悪くなさそうだ。

「年下て。キミ、新婦のお友達っちゅうことは、たぶん俺の二個上やろ?」
「そうね」
「十代ならいざしらず、アラサーの一歳二歳なんてもう誤差やん」
「二十代と三十代の間には、深くて暗い溝があるでしょ」
「あー、それもそうやなあ」
「ちょっと、そこは否定するとこよ」

 ばしりと背中を叩かれた。
 うん、やはり手応え良好。
 話しているうちに回復したのか、彼女の顔にはすでに色が戻っている。話しているうちに気が紛れたのか、それとも腹がこなれたのか、いずれにせよ幸いである。ここはもう一押ししたいところだ。

「な、ご近所のよしみで、俺と飯トモになろ?」
「まあ、ごはん食べるくらいなら……」
「よっしゃ決まり。これからよろしゅう」

 ばっと手を差し伸べる。と、そこに細く白い手が差し出され、すらりとした細い指が、ファットの大きな手に触れた。



 そこで連絡先を交換し、今に至る。
 それから半年。現在の奏音と自分の関係は、その時と大差なく、ただの飯トモだ。
 だが出会った日にこのぶ厚い胸の奥に刺さった何かは、未だ小さな熱を持ち続けている。そろそろ彼女との関係を深めていきたいと思っていることは確かだ。

 おそらく向こうも、こちらのことを好意的に想ってくれているような気がする。

 そうなんやけど、と、ファットは金色の眉を下げた。

 あの夜……つまりは奏音を家に泊めて以来、なんとなく彼女の態度がおかしい。飯に誘っても、のらりくらりと交わされるばかりで、どうやら避けられているようす。
 なにか嫌われるようなことをしたかとも考えてみるが、思い当たる節はない。

 自宅に泊めたことが原因だろうかと考えてもみたが、無理に連れ込んだ覚えはない。噴水広場で「うち来ぉへん?」と問うた時、彼女はめちゃくちゃノリ良くうなずいたのだ。決して嫌がるそぶりはなかった。

 なんかこう……釈然とせえへんな、と心の中でつぶやいて、ファットは歩を進める。この先は彼女の勤める音楽教室が入ったビルだ。
 うまいこと会えへんかなと考えていると、想いが天に通じたのか、はたまたただの偶然か、ちょうど奏音がビルから出てくるところにでくわした。

「げ……」
「いや、ちょお待って。ゲ、ってなんやねん」

 内心軽く傷つきながら、だが表面では平静を装い、苦笑しながらそう告げる。と、奏音がすまなさそうに両の口角を下げた。
 あれ、とファットは思った。
 これは嫌がられていると言うよりも、気まずいという雰囲気だ。そう直感したファットは、続けて問うた。

「もしかして奏音ちゃん、こないだのこと気にしとるん?」
「ごめん……」

 奏音はますますすまなさそうに眉を下げる。

「そんなん気にせんといてや。ようあることやん」
「……よくあること……なの?」

 せやで、とあえて明るく応えて、からりと笑う。

「せやからほんま、気にせんといて。俺も気にしてへんから」

 さらりと告げると、彼女はますます情けなさそうな顔をした。

「それはそうと、せっかく会ったんやし、良かったら飯でも食いにいかへん?」
「あー、もうごはん食べちゃったんだよね」
「ほな、酒でどうや? 軽く一杯。俺、今日は呼び出しない日やし、奢るから好きなだけ飲んでええで」
「いやそれはちょっと……こないだ酔って迷惑かけたばっかりだし……」
「ほな茶ァは?」

 我ながらしつこいと内心で苦笑しつつ、食い下がってみた。ここで彼女を逃してしまったら、もう二度と会ってもらえない、そんな気がしたからだ。

「うん……じゃあ、お茶なら」

 よっしゃ、と心の中だけでガッツポーズをキメる。むろん表面上は涼しい顔で。
 すると奏音が遠慮がちに問いかけてきた。

「ファット、ごはんは?」
「まだやけど、カフェでも食いもんくらいあるやろ」
「じゃあヨネダ珈琲にしようか。あそこフードの量多いし」

 たしかにあそこのメニューなら、大食漢で知られる俺の胃袋を満たしてくれそうや、と思いつつ、笑顔で「ええな」と言葉を返した。

***

 ファットはたっぷりサイズのブレンドと、チーズハンバーグミートスパプレートと、揚げ物が山と積まれた満腹セット、巨大なロースカツをパン一斤で挟み込んだデカツパン、に決め、視線を奏音へと移す。彼女はメニューを開いたまま、ソフトクリームが乗ったデニッシュのサイズをどうするかで悩んでいるようすだった。

「よかったらファットも食べる? シェアできるならミニじゃなくてレギュラーサイズにするけど」
「おう。悪いな。遠慮なくいただくで」
「じゃあ、和紅茶とデニッシュにする」

 オーダーを通し、しばし歓談。うん、悪くない雰囲気や、と思っていると、背後から声を掛けられた。

「珍しな、ファットとこないな店であうん」
「そらこっちのセリフや。おっちゃんもカフェなんて来るんやな」
「おっちゃんかてうまいコーヒー飲みたなることもあるんやで」

 そう言って笑ったのは、江州羽商店街内にある居酒屋の店主だ。奏音とも何度か行ったことがあるので、二人でいるところを見られても、今さら関係性をからかわれることはない。
 そういや、と店主が続ける。

「こないだの連中、また来たで」
「またかいな。なんかあったらすぐ呼んでや」

 と、ファットは眉を上げる。だが居酒屋の店主は鷹揚に笑った。

「安心しぃ。来たは来たけど、妙な真似はせえへんで、おとなしゅう飲んで帰ってったわ。こないだのファットの説教がよっぽど効いたんやろ」
「あー、ほんならええけども」
「説教?」

 と、奏音が会話に割って入ってきた。
 ああ、と店主が明るくこたえる。

「独りで来とる女性のお客さんに、口当たりのええ強い酒飲ませようとしたけしからん奴らがおったんや。事前にファットからそういう連中が来たら知らせえ言われてたからな、通報して対処してもろたんやわ」
「……もしかして、それって」
「ん。キミ酔わそうとしたんと同じ連中。お酒出す周囲の店舗に注意喚起しといたんや。ああいうんは放置したらあかん。また被害者が出るからな」

 女性を酔わせて何をしようとしたのかと思うと、今でもはらわたが煮えくり返る。

 今時の若い者が「あちらのお客様からです」みたいなサムい真似をするのは珍しい。しかもこのあたりの飲食業は、おおむねファットに協力的だ。なので妙な動きをする輩がいれば、すぐに連絡が来る。

 早速の通報を受け、現場を押さえた。目的はあからさまだったが、ともかくも酒をおごろうとしただけで余罪もないため、厳重に注意をした。かなり本気で詰めたこともあり、彼らは心底震え上がっていたので、おそらく同じ真似はもうしないだろう。
 だがここで終わりにせず、江州羽のみでなく他の繁華街にも注意を流し、今後も予防に努めるつもりだ。

「ファットはこういうちっさいことにも目ェ光らせてくれるから、ほんま助かるわ」

 そう言って店主は笑った。しかし実際のところ笑い事ではないし、小さなことでは決してないと、ファットは思う。

 性犯罪は傷害に比べると、軽く見られがちだ。けれど被害を受けた人たち――男女問わず――は、生涯消えない傷を負う。したほうは魔が差しただの相手が誘惑しただのと言い訳をするけれど、理由はどうあれ、合意なき性行為はすべて強姦だと、ファットは思っている。
 ましてや酔わせて抵抗する力を失わせ、自分たちの自由にするなど、決して許されることではない。

 こうした犯罪を防ぐことは、大きな仕事の一つである。敵と戦う、事故や災害から人々を救出する。もちろんそれらも、ヒーローの大切な仕事だ。
 だが最も大切なことは、事件を未然にふせぐこと。
 被害を出さないことが何より大切なのだと、ファットは常に己に言い聞かせている。

 軽く二言三言会話をし、店主とは別れた。
 と、同じタイミングで、さきほど頼んだ満腹セットが運ばれてくる。山盛りの揚げ物がてんこ盛りにされたプレートは、いつみても圧巻だ。

「これこれ。カフェとは思えへん量やから、見てるだけでワクワクするわ」
「ファットの食べっぷりも見事なもんだよ」
「おおきに」

 と笑ったその時、店内に綺麗な曲が流れていることに気がついた。
 どこかで聞いたことがあるようなメロディだ。光の粒が水面に当たって弾けるような、キラキラしたこの曲のタイトルは、何だっただろうか。

「奏音ちゃん、この曲知っとる? なんやどっかで聞いた覚えあるんやけど、思い出せへん」
「ベースとドラムとピアノでジャズアレンジされてるけど、原曲はドビュッシーの月の光だね」
「へえ。奏音ちゃん弾ける?」
「まあ、一応」

 今度聞かせてや、と言いたかったがさすがにやめた。なぜなら、残りのメニューがテーブルに運ばれてきたからだ。

***

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。気づけば食べるものもなくなり、お開きの時間がやってきた。

 店を出て、なんとなく川沿いを歩いた。
 カップルと観光客くらいしか歩いていない遊歩道だ。江州羽の街明かりと月光が川面に反射して、キラキラと光っている。
 まるでさっきの曲みたいやな。ムードもばっちりや、とファットは内心で満面の笑みを浮かべた。

「今日は久しぶりに話せて良かったわ。奏音ちゃんと飯食うと倍うまい気ィすんで。また一緒に食おな」

 月明かりの下で、つとめて明るくそう告げる。と、ほんの少しだけ間があいて、「そうね。また」という声が返ってきた。
 ほっとして内心で胸をなでおろしたファットだが、そうなると、どうしてここ最近避けられているような感じだったのかが、妙に気になり始めた。
 そのあたりのことをきちんと見極めずに口説いたりしたら、ひどい事故になりそうな気がする。

 もしかして、とファットはごくりと息を飲んだ。

 奏音を家に泊めた朝、ファットガムは「これを機につきあわないか」と言おうとしたのだ。もしかしたら、彼女はそれを察したのかも知れない。きっとそうだ。
 そしてその後ファットと距離を置いたということは、今はまったくその気がないということの現れ。

 あの夜は元気そうにしていたし、建前上、元カレに未練はないと言ってはいたが、本当はそうではなく、まだ想いを残しているのかもしれない。よくよく見ると、今日も少し元気がないような気がする。

――ほな、もう少し友達ムーブをかましながら、ぼちぼちいこか。

 そう内心で呟いて、小さく息をついた。
 とはいえ自分は関西を代表するヒーローだ。だから当然、攻めの姿勢も忘れない。

「奏音ちゃん、せっかくやから今日は家まで送らせてくれへん? こないだみたいなことがあった時、家知らへんと対応でけへんし」

 これは実際本当だった。あの夜、彼女の家を知っていたなら、ファットは家まで送り届けていただろう。

 むむ、と奏音が少し考え込むような顔をした。が、困っているような感じはない。ここはやはり、もう一押し。

「家に上がり込んだり、おしかけたりは絶対せえへんから」
「ああうん。もちろん。そこはファットのこと信じてるよ。……そうだね。じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」

 よっしゃ、と胸中でガッツポーズを決め天を仰いだ。

 夜空に輝くのは、銀色のお月様。たおやかな彼女とよく似た、たおやかな星。

「ファット?」
「いや、めっちゃきれいなお月さんやなと思て」
「今日は十六夜だもんね」

 月が綺麗ですね、という言葉に潜んだ気持ちは伝わらなかったようだが、今はまだ、それでいい。
 柔らかな春の月光を浴びながらファットは心の中でそう告げて、そして笑った。月明かりのようなひとの横顔を見つめながら。

2025.4.4
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