「え?」
一ヶ月ほど前につきあいはじめたばかりの恋人からの問いに、ファットはやや間抜けな声を返した。
言われてみれば、誕生日は来週だ。二十をいくつか超えたあたりから、いや、この仕事を始めたあたりから、忙しさにかまけて自身の生まれた日付を意識することがなくなっていた。
ううむ、と腕組みをし、しばし思案する。ほしいものと言われても、特に思い浮かばない。彼女にしか与えられないものがひとつあるが、それを今の段階で口にすることは、さすがに憚られた。
「なんでもいいよ、と言ってもピアノ講師の薄給で用意できる範囲のものになっちゃうけど」
「ほな!」
ピアノと聞いて、ひとつ願いを思いついた。
「前に君と一緒に行ったカフェで流れてた曲覚えとる?あれ、プレゼント代わりに弾いてくれへん?」
「カフェの曲?」
「そうヨネダで聞ぃたやつ。なん言うたかな……。きらきらした感じの」
「もしかして月の光?」
「そうそう。それや」
それは奏音とつきあう前、一緒にメシを食うだけの、いわゆる飯トモ時代の話。ふらりと立ち寄ったカフェで流れていた曲だった。
我ながらキザなことだ。柄にもないことだとも思う。だがあの時、彼女にこの曲を弾いて欲しいと思ったのは事実だ。
だからせっかくの機会に、お願いしようと考えた。
それに、この提案にはもうひとつ隠れた目的がある。それは先ほども頭をよぎったややよこしまな……だが成人男性としては当然のようにある希望のひとつ。
なんのことはない、つまりは彼女の家に上がり込むための方便である。
奏音の家には、一度だけお邪魔したことがある。だが、あの時はまだ飯トモの段階だった。そして奏音とファットとの間には、未だ肉体関係がない。
恋人同士になって一ヶ月強。お互いいい大人であることだし、そろそろいいのではないだろうか。
もちろん部屋にあがることと行為への同意はイコールではない。だからそれとは別に合意を得ることは大切である。だがそれはそれとして、これが互いの関係をより深めるきっかけになればいい、とファットは思うのだった。
***
ところが――である。
「……なんなん?」
誕生日当日、奏音が待ち合わせに指定したのは、彼女の家ではなく、とあるレンタルスタジオの、グランドピアノが置いてある一室だった。
「ああファット。お誕生日おめでとう」
「おおきに……。もしかして、わざわざスタジオ借りてくれたん?」
「そうだよ。うちの防音室だと、扉閉めたらファット入れないもん。かといってあけっぱで弾いたら近所迷惑だし」
「あー……たしかに」
縦にも横にも大きい自分のサイズを失念していた。グランドピアノだけでいっぱいになっている五畳ほどの防音室に、ファットの入れるスペースはない。
「そらそうやな」
思わず肩を落とすと、奏音がやや怪訝そうに問いかけてきた。
「ねえ……ファット」
「なん?」
「もしかして、うちに来たかった?」
「あー……、まァ……」
「そうならそう言ってくれればよかったのに」
「いやいやいやいや、ちゃいますよ。純粋にキミのピアノが聞きたかったのも事実やねん。ただ……まぁ俺らも大人やし……キミの部屋で素敵なピアノを聴かせてもろたあと、ちょぴっとだけ大人な夜を過ごすことになるんやないかと……そういう期待がなかったかというと……あるけども」
おそらくは意図を察してもらえたととらえ、正直に答える。と、彼女は少し呆れたような顔をした。
「そんな下心があったの?」
あっ察してなかったかと思ったが、もう言ってしまったことだし、奏音も気にしていないようすだったので、しれっとした態度を崩さぬままファットは応える。
「そらぁあんで。キミがええ言うてくれたらいつでもできるくらい、俺は常に準備万端や。いやもちろん、無理強いするつもりはあらへんで」
すると彼女は、ぷ、と大きく吹き出した。
「そういうのぺろっと言っちゃうのも、ファットらしいよね」
「率直なのが俺のええとこや」
そうねえ、と笑みながら彼女が続ける。
「そういうのは、もうちょっとそれっぽいムード作りをしてから、さりげなく誘ってみて」
「ほんま? ええん?」
「……そりゃお互い大人ですし。でもいまの流れからじゃ嫌だからね」
「お……おう。せやな。さすがにこの流れからやとムードないな」
ええんなら今日でしてもええやんけ、と言いたいところをギリギリこらえ、そう告げた。ここでへたなことを言ったらすべて台無しになることくらいは、経験でわかる。
じゃあ、と言いながら奏音がグランドピアノの屋根を開ける。
「このスタジオ、一時間しか借りてないから、早速弾きましょうか。月の光以外にリクエストはある?」
「ちゅうて、俺クラシックあんま知らんねん」
「ポップスとかでもいいよ」
「え、クラシック以外も弾けるん?」
「まあねえ。以前ホテルのラウンジピアニストしてたこともあるし、知ってる曲ならたいていなんとかなるかな」
「そら凄いな。けどせっかくやさけ、クラシック弾いてもらおかな。選曲おまかせにしてもええ?」
「もちろん。ああそうだ。先にこれ渡しとくね、誕生日プレゼント」
と、手渡されたのは綺麗にラッピングされた、小さな箱。
「エエ! ピアノ演奏だけやのうてプレゼントまで! こないええ思いさせてもろてええんやろか?」
「そりゃ用意するよ。だってファットの誕生日わたしもすごい嬉しいもん」
「おおきに」
「あなたが生まれてきてくれたことをお祝いできるのも嬉しいし、わたしとあなたの年齢差も、これでひとつ縮まるわけじゃん」
「いやいや、年上言うても二個やん。十代の頃ならいざしらず、アラサーの俺らからしたら二歳なんて誤差やで」
「二十代と三十体の間には深くて暗い溝がある、って前に言ってたじゃない」
「いや、それ言うたんキミやろ。俺ははじめっからずっと、二歳差なんて誤差みたいなもんやて思とるよ」
「それでも、年齢差が縮まるのって、なんか嬉しいの」
「そうなん?」
うん、と照れくさそうに微笑んだ彼女が、とてもかわいいと思った。
「なに?」
「いやぁ、俺の彼女、ほんまかわいいな思て。俺しあわせや」
「なに言ってんの」
照れながら奏音が椅子に腰掛けて、鍵盤に指をおろす。
「それでは、はじめます」
一拍おいて流れてきたのは、月からこぼれた光の粒が水面に当たって弾けるような、きらきらとしたメロディ。
きれいな曲やな、とファットは思った。
カフェで聴いたジャズアレンジよりも、奏音が弾いてくれているこの曲の方が、ずっときれいに聞こえる。
それは彼女の腕のおかげもあろう。原曲の素晴らしさもあるだろう。
だが奏音の奏でる音がこんなにも美しく、こんなにも優しくやわらかく胸の奥に染み入ってくるのは、きっと、自分が奏音に心の底から惚れ込んでいるからなのだろう。
――もしかしたら、これ、今までで一番しあわせな誕生日かもしれへんな。
月光に包まれるかのようなきらきらしい気持ちになりながら、ファットは内心でそう呟いて、音色をより楽しむために、そっと目を閉じた。
2025.8.8
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