「フーガの部分が平坦な演奏になっちゃってるから、もう少し立体的に。一声にとらわれず、どの瞬間も和声的に弾くことを意識して」
「はい」
生徒にそうアドバイスをしつつ、奏音は思う。
ファットと自分の関係は、遁走曲、フーガのようだと。
片手が先行した旋律を、もう片方の手で追いかける。奏音とファットガムも同じだ。片方が逃げれば片方が追う。それを延々と繰り返しているような気がする。
バーベキューの時は、いい雰囲気だと思った。
もしかして、なんて期待もしたけれど、途中で事件が起きて、またしても思い知らされた。ファットガムはヒーローなのだ。近いようで遠い、手の届かないひとだと。
それでも少しでも近づきたいと、いつまでもこんな中途半端な関係ではいたくないと、思ってしまっている自分がいる。
「先生?」
「ああ、ごめんなさい。良くなってきたから、声部のひろがりに気をつけながら、もう一回弾いてみましょう」
「はい」
プレリュードの美しい旋律を聴きながら、奏音は心の中でため息をついた。
***
「いや……マジ重い」
帰りの道すがら、ぽつりと独りごちた。
スーパーでお米のセールをやっていたので思わず買ってしまったのだが、想像していた以上に、五キロの米は重かった。普段は手を傷めないよう、重たい食材はネットで買うようにしているのに、お値段に目がくらんだのがバカだった。
重いだけでなく、今日は六月の終わりらしく湿気が多く気温も高い。雨が降っていないことだけが幸いだけれど、家までの数百メートルが、今までになく長く感じられた。
はー、と大きく息を吐き、米の重さでちぎれそうになっているエコバッグの紐を握り直そうとした瞬間、急に手の中の荷物が軽くなった。
「なんでピアノ弾きがこないなもん運んどんねや。指傷めたらどないすんねん?」
はるか上から振ってきたのは、愉快そうな響きを有した少ししゃがれた低い声。俺が持ったるわ、と続けた彼は、まんまるなお顔に人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ファット」
ふわふわの金髪が、陽光を弾いてきらめく。いつものヒーロースーツではなく、半袖のTシャツにハーフパンツというラフな出で立ちは、彼が今日オフであるということを意味している。
「ありがとう。お米が安かったから、つい……買っちゃった」
「配達してもらえばええやんか。今日びスーパーも配達サービスくらいやっとるやろ」
「ああ、その発想はなかった」
「なんでやねん。奏音ちゃん、しっかりしとるようで、案外抜けたとこあるんやな」
そう言ってファットは笑う。奏音が持っていたときはあんなに大きく見えた米の袋が、ファットが持つと小さく見えて、奏音もまた、小さく笑った。
ひとりで運んでいるときは果てしなく感じた数百メートルの道のりは、ファットと一緒だとあっという間だ。
このまま別れてしまうのも惜しい気がして、奏音は思い切って口を開いた。遁走曲じみたこの関係に、新たな風を入れられたら、という思いもこめて。
「もし用事がないようだったらあがってく? よかったらお茶でも飲んでって」
「うえっ?」
彼らしからぬ、戸惑うような声と表情だった。引かれちゃったかな、と不安に思いながら、それでもファットの言を待つ。と、彼は少し照れくさそうに、小さく声を漏らした。
「時間ならあるけど……ほんまにええん?」
「いいよ。どうぞー」
努めて明るくそう答え、扉を開ける。大丈夫、室内は綺麗なはずだ。
「うぉ、グランドピアノがある」
自宅に招き入れたとたん、ファットが漏らした言葉がそれだった。
奏音の部屋は、八畳ほどの洋室に五畳の防音室、バスルームとトイレ、小さなキッチンのついた、一人暮らしの演奏家むけのマンションだ。洋室にはローテーブルとソファベッド、そしてクローゼットを置いている。防音室の引き戸を閉めると圧迫感があるので、練習中以外は開けているのだ。
そしてその広くもない部屋にファットガムが入ったら、それだけで室内はいっぱいになった。
「狭くてごめんね」
「いやこちらこそ、デカくて悪いなァ」
ファットはとすん、と座りながら、申し訳なさそうに頭をかいた。たしかに彼は大きいから、彼の前にあるローテーブルが、おままごとセットのそれみたいに見える。
「冷たいものでも出すね。あ、お茶じゃなくてビールにする? お菓子より、お腹に溜まるもののほうがいいかな? そうだ。ゴイチゴの豚まんいっぱい買ってあるから、おつまみにしようか」
と、やや早口に提案した。
ファットあまり好き嫌いがないはずだが、甘いお菓子はそう好んでは食べなかったはずだ。
「……この状況で酒? ええ……どないしよ」
「お休みなんだし、いいんじゃない? 豚まんは半分レンチンして、もう半分焼こうか」
珍しく歯切れの悪いファットにそう告げると、彼はごくりと喉を鳴らした。
「あー、豚まんはふかしてもええけど、焼いてもウマいねんなー。その誘惑には勝たれへんわ」
タハー、と笑ったファットにビールとキュウリの浅漬けを供して、豚まんを用意しにキッチンへ。と言っても、さして広い家ではないので、会話をしながら支度ができる。
「俺も手伝ぉたろか?」
「お客さんは座ってて。それにホラ、うちのキッチン狭いから、たぶんファットと並ぶのは無理」
「……たしかにそうやな」
そう苦笑したファットに笑みを返して、奏音は豚まんをレンジとホットサンドメーカーにセットする。
「話変わるけど、奏音ちゃん、バイク買ぉたん?」
「まだなんだよね。車体が軽いタイプか、足つきのいいタイプかで迷ってて」
「あー、どっちも一長一短あんなあ……」
「ファットは大型も持ってるんだよね」
「おう。トライクは普通免許でも乗れるんやけど、俺は大型二輪も持っとんで。ただ今の俺の体格やと三輪のほうが安定するからトライクにしとる。十代の頃は単車転がしとったで」
「何乗ってたの?」
「ヤマサキの、昔の映画によう出てくる古〜いデカイやつ。いとこの兄さんが安う譲ってくれてな」
「えっ。かっこよ。……あのさ……わたしが買いに行くとき、もし時間あったら一緒に行ってくれる?」
「ええで」
などというたわいない会話をするうちに、豚まんができあがった。奏音は第一陣の豚まんを皿に盛り、二陣目をまたレンジとホットサンドメーカーにセットして、テーブルにつく。
「ほな乾杯」
大ジョッキと普通サイズのグラスを合わせて乾杯し、湯気を立てている豚まんを食べた。
「はー、こう暑いとビールが旨いわ」
言いながら、ファットがジョッキを傾ける。ファットは見た目通り酒量が多いが、酔い潰れている姿を見たことがない。比べて、奏音はそう強くない。
手元のビールは少なくなっているが、前の失敗もあるし、お酒は一杯だけでやめておこうかな、とひそかに思った。それに気がついたのか、ファットが軽く眉をあげる。
「奏音ちゃんどないした? 酔ぉてもた?」
「ううん、違う。ファットの家に比べると、うちって狭いなと思って」
「あー。ある程度広くせんと俺で部屋いっぱいになってまうしな」
「たしかに」
「エレベーターなんて乗った日にゃ、周りの視線が痛い痛い。へたしたらかたっぽの足入れた瞬間にブザーなるし。……ちゅうでもそうそうエレベーターなんてもんには乗らへんけども」
苦笑交じりのファットの言葉にうなずきながら、身体が大きいのも大変なんだなとひそかに思い、彼を見あげる。と、その口元に、豚まんのかけらがついていることに気がついた。
「ファット」
「ん?」
「口元、豚まんついてるよ」
「え?」
ごし、とファットが右の口元をこする。が、残念ながらかけらがついているのは左側のほうだ。
「もー、そっちじゃないよ」
しょうがないなあ、と、おしぼりを片手に彼の口元に手を伸ばす。と、ファットが弾かれたように、首を後ろに引いた。
「ちょお待ちぃ!」
「なに?」
「いや無防備すぎるやろ。戸外ならいざ知らず、ここ部屋の中やで。俺が悪い気起こしたらどないすんの」
「ほかのひとならしないよ」
「え?」
「でもファットは合意なくそういうことしないでしょ。信頼してるもん」
そういう……とファットがぽつりと呟いた。そうして彼はちいさく笑んで、左側の口元を拭ってから、ちいさく続けた。
「まァ、キミは俺にとっても大事な……大事な、飯トモやからなぁ」
ぽつりと漏れたその声は、やはりどこかさみしげで。
「でしょ。それにわたしたち一度しちゃってるじゃん」
「はァ?」
ファットのまんまるのおめめが、ますます大きく開かれた。
「奏音ちゃん、なに言うとるん?」
「え? だからわたしたちしちゃってるよね? 前、ファットんち泊まったとき」
なんかかみ合ってないな、と思いながらファットガムを見上げる。不思議そうにこちらをのぞき込む彼の瞳は、公明正大を絵にしたような、くもりひとつない琥珀色。
「ちょお待って、話が見えへんのやけど」
「って、なに……ファットもあの日のことよく覚えてないの?」
「俺はほとんど酔うてへんかったからしっかり覚えとるわ。っちゅうか、もしかしてキミこそ、あの日のこと覚えてへんの?」
「……覚えてないというか……途中からの記憶が……まったくないデス……」
あー、という声を上げながら、ファットガムが大きな手で自分の額をびたんと叩いた。
「途中からって、どっから記憶ないん?」
「B52飲んだあたり」
「めっちゃ序盤やん!」
と、ファットが声を上げた。その声の大きさに、グランドピアノの重さと音に耐えうるように作られているマンションの一室が、ぐらんと揺れたような気がした。
「ほんまかいな。奏音ちゃん、店の中ではむっちゃ普通にしゃべっとったで。ちょおはしゃぎすぎてるきらいはあったけれども」
「そうだった? 覚えてないけど」
「ほな、噴水広場でのことも覚えてへん?」
「……へ?」
「え?」
「せやから、あの日、噴水広場のさくらイルミネーション、一緒に見たやん」
「うそ」
「いや、そないな嘘ついてどないすんねん」
「それは……そうね」
「ほんでキミ、ご機嫌で噴水のふち歩きはじめて、さすがに危ないやろて言うたそばからひっくり返って、全身びしょ濡れになって、家どこや言うてもヘラヘラ笑て『どこでしょー』なんて応えるばっかでぜんぜん話通じひんし」
えええ……と、頭を抱えたい気持ちになった。この先を聞くのが怖い気がする。
「なんぼ春先やいうてもそのままじゃ風邪引くし、しゃーないからうち来るか言うたら、めっちゃいい笑顔で『うん』って応えて」
「……で……そのあとは? あの……ほんと申し訳ないけど、包み隠さず全部教えてください……。とにかく、わたしたち、その……性的な行為はなにもしてないの?」
おん、と応えて、彼は続ける。
「するわけないやろ。もちろん、家に誘った時、あわよくばっちゅう気持ちがゼロや言うたら嘘になるわ。せやけど、酔って前後不覚になっとる相手といたしてもうたら、そらレイプやん。ファットさんはそういうことはせえへんよ」
「……たしかにファットはそういうひとだね」
「よくあること」と言っていたのは、酔いつぶれた仲間の面倒を見ることだったのだ。大阪のアニキとヒーロー仲間からも慕われているファットにとって、たしかにそれは「よくあること」であったろう。それなのに、刹那的に生きてるのかもしれないだなんて、勝手に決めつけて悪かった。
そして同時に、こういうことをさらりと言ってのけることができるファットガムはやはりかっこいいのだと、心から思った。
「で、家に着いてからのことを話すで。酔ぉて風呂入るのはほんまは危ないんやけど、そのままやと風邪引くし、衛生的にもどうかと思たから、とりあえず風呂に入らせたんや。せやけどなかなか出て来ぉへん。思い切って声かけたけど、返事もない。しゃあない思て扉開けたら、案の定風呂で寝とってな。目えつむって俺のバスタオルにくるんで身体拭いて、着替え代わりに俺のTシャツだけ着せて髪乾かして、毛布で包み直して俺のベッドに寝かしたんや」
「わァ…………」
想像していた以上にひどい。穴があったら入りたいと顔を覆った奏音の上に、陽気な声が降ってくる。
「で、毛布にくるんだったのが暑かったんか、せっかく着せたシャツも、その場で自分で脱いでしもて」
「えええ……」
「ああ、せやけど脱いだんは毛布の中でやし、そのまま毛布にくるまって寝とったから、全然見えてへんよ。電気も消しとったし」
そうファットは言ったが、これは優しい嘘かもしれない。
いやその前に、風呂あがりにバスタオル――ファットのだからタオルケットサイズの――に包まれた時点で、多少は見られているだろう。恥ずかしいが、それはしかたがない。
それより気になるのは、奏音が寝ながら衣服を脱いだことを知っているということだ。つまり、彼もまた同じ部屋にいたということで。
「ファットはどこで寝たの?」
おそるおそるそうたずねる、と、同じ部屋で、といういらえが返ってきた。
「けっこう酔っとるみたいやったし、なんかあったらすぐ対応でけるよう同じ部屋におったよ。ああ、さすがに同じベッドで寝るんはアウトやさけ、俺は床で寝たで。そこは安心してくれてええよ」
うわあ……と頭を抱えたくなった。
酔った勢いで関係を持ってしまったとばかり思い込んでいたが、それどころか、散々世話をさせたあげく彼のベッドを占拠して、家主を床で寝かせるとは。なんということ。
ファットにしてみれば迷惑千万な話で、忸怩たる思いだ。
「……それは……本当に申し訳ありませんでした……」
「そない蚊の鳴くような声出さなくてもええて。あー、さよか。忘れてって言うたの、酔いつぶれたのが恥ずかしいからやのうて、俺となんかあったと思たからか……」
「……まさかそんなご迷惑をおかけしたとは夢にも思わず……」
「せやから、ええて」
困ったようにほろ苦く笑うファットを見ていたら、自分があまりに情けなくて、泣きそうになった。好きな人に迷惑をかけた上に、勝手に手出しされたなんてずうずうしく思ったりして。
「あんな、迷惑なんてかけらも思うてへんわ。そもそもあの酒はキミが自分で頼んだものやないやん。それにな」
と、ファットはそこで言葉を切って、大きく深呼吸をした。
「キミは俺にとって大事なひとや。ただの飯トモなんかやない。少なくとも、俺はそう思とんねや。せやから……正直な話、家に来るか言うて、キミがええ言うてくれたとき、やっと思いが通じた思った」
「え?」
「けど……なんかあったと思て、それ忘れてっちゅうことは、ほんまに俺のこと男としては見れへん、脈なしっちゅうことやろか……」
「そんなことない!」
反射的に声が出た。
「違うよ……。あの時はファットが気まずそうに見えたからそう言っただけで、わたし、ファットとならそうなってもいいな、ってずっと思ってた」
「……ほんま?」
「うん」
「ほな、飯トモやのうて、もっと特別な仲になってもええ?」
ちいさくうなずいた奏音の手の上に、ファットの大きな手が重ねられる。
「月の女神さんみたいなキミとそうなれるなんて、夢のようや」
それはこっちのセリフだ、と奏音は思う。
熱っぽくこちらを見つめるファットの瞳は、金がかった琥珀色。その上で金色の前髪がふわふわと揺れている。
――とこまでも、おひさまみたいな人だなあ。あったかくて、優しくて、大きくて。
彼の言う通り自分が月であるのなら、ファットは太陽。色に例えるなら金と銀。そんなふたりの遁走曲はもう終わり。
ちいさく「ええ?」とたずねられたので、「うん」とやはりちいさく応えた。琥珀色の瞳が近づいてきたので、奏音はそっと目を閉じる。
太陽と月が重なって、ふたりのうえに、幸福な時間が降りてきた。
2025.6.5
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