予定より一日早まった帰国に、ウキウキしながら彼女の部屋のインターホンを押した。
もちろんこれはサプライズ訪問。といってもこんな時間に女性の部屋に上がり込むつもりはない。久しぶりに美栗の顔が見たいだけ。お土産を渡して、すぐに帰るつもりだ。
とはいえ、美栗が室内に誘ってくれたならば、ご希望に添うことはやぶさかではない。
数秒して、「はい」という声が機械越しに流れてきた。コホン、と小さく咳払いして、「私が来た」と静かに告げる。
「ええっ? くぁwせdrftgyふじこlpくあうふじこ」
と、返ってきたのは、想像以上に頓狂な声。
いや慌てすぎだろ、そもそもふじこってなんだ。
そう内心で呟きながら待ってみたものの、室内からバタバタと慌てふためいているであろう音が響くのみで、なかなか扉はあかない。
どうしたんだろう。開けられない理由でもあるのだろうか。もしかして浮気。などという、ろくでもない想像が頭をよぎる。
「あの……お土産を渡しに来ただけなんだけど。すぐ帰るからちょっとあけてくれない?」
なんとか扉越しにそう告げる。が、やはりバタバタする音が聞こえるだけで、返答がない。
この対応はどうなんだ、とも思ったが、隣だからといって連絡もせず訪れた私も悪い。うなだれつつも、もう一度、扉に向かって声をかける。
「……手が離せないなら今日は帰るよ。急に来たりして悪かったね。明日にでも会おう」
「待って!」
という叫びと共に、扉が開いた。
ほんの、十pほど。
鉄の扉の隙間から覗いた美栗の顔は、ほんの少しだけ青ざめていた。
「遅くにゴメン。これ、お土産」
アメリカ土産を隙間から手渡す。と、彼女の手元から覚えのあるかおりがたちのぼった。
彼女がたまにつけている白い花を集めたようなフローラルとはまったく異なる、男性的なウッディノート。
この香調に、覚えがある。
「……この香りさぁ……」
「なんでもないのッ!」
慌てて扉を閉めようとするところを、力で押しとどめた。危ないな、私じゃなければ挟まれているところだよ。
「君はなんでもないかもしれないが、私にはあるんだ」
閉じかけた扉を、やや強引にこじ開ける。常ならばこんな乱暴な真似はしないが、今宵は特別だ。たとえどんなに痩せ細ろうとも、瞬発的に出せるパワーはまだまだ健在。扉を壊さないように加減しながら扉を開ける。と、ぶわっと流れてきたのは、男もののトワレの香り。
「アッ……」とか「ワァ……」とか言ってるようだが、聞こえなかったことにして、玄関の三和土に足を踏み入れた。
私は長年、海外メゾンブランドのアンバサダーを務めている。ここ数年は白檀ベースのメンズ香水の広告塔をしてきた。が、このたび同ブランドから私をイメージした香りが出た。製品名はそのまま『オールマイト』だ。
本国で先行発売され、日本でも本日売り出されたばかりだ。自分で言うのもなんだが、『オールマイト』は大変な人気らしく、製造がおいつかないと聞いている。現在この香りを手にしているのは、一部の関係者と先行予約レースを勝ち抜いた一握りのマニアだけだと聞いている。
「予約してくれていたんだね。嬉しいよ」
私の名前を冠した香りが出る、と話した時は「そうですか」としか言わなかったのに、手に入れてくれていたなんて。
すぐに出てくれなかったのも、この香りをつけていることを知られたくなかったからというわけか。
彼女は顔を赤く染め、気まずそうな顔をしている。そんなところもまた可愛くて、思わず耳元に唇を寄せた。
「ねえ」
「なに?」
「この香り、もっと近くで嗅がせてくれない?」
「……家に帰れば、同じものがあるでしょう?」
淡々とした返しにも、もうだまされない。玄関扉を後ろ手で閉めた。もちろん彼女は何も言わない。
「まあ、そうだけどさ。香水って、ひとによって香りだちがかわったりするだろ」
甘えるようにそう告げて、こちらを見上げる彼女に唇を落とす。と、レザーとスパイスとシダーの香りが強めに香った。
少しして唇を話すと、彼女は少し照れくさそうに笑ってから、どうぞ、と私を誘った。
ありがとう。
どうやら今宵は、香り高く素敵な夜になりそうだ。
2026.5.29