最終話 はじけた真珠

 お隣の玄関ドアに飾られたクリスマスリースを横目で見ながら、小さく息をついた。オールマイトの気持ちを知って、早一週間。あれ以来、彼には一度も会えていない。これは偶然ではないような気がする。おそらくオールマイトがわたしを避けているのだ

 それにしても、かの平和の象徴がわたしに想いを寄せているなんて、信じられないことだ。天にも昇る心地ではあるが、それに応えていいものかどうか、わたしには未だに判断がつかない。
 記憶の一部がないことについては、きっとオールマイトは受け入れてくれるだろう。いや、おそらく彼はすでに知っている。雄英高校の関係者に対する身辺調査は徹底している。オールマイトは管理職のひとりだから、職員の身上を把握していても、特におかしいことではなかった。

 わたしはオールマイトに特別な感情を抱いてしまっているし、彼もわたしを好いてくれているという。ではなぜそれに応えられないのかと問われたら、問題はわたしのなかにあると答えるしかない。
 わたしがしあわせな恋をする、そんなことが許されることはどうしても思えなかった。
 しかし堂々巡りになるが、わたしのなかにオールマイトを恋いうる気持ちがあるのも、また事実。
 だからこそ、どうしたらいいかわからない。

「まいったな……」

 とちいさく呟いた時、スマホから機械的な音楽が流れてきた。リマインダーの通知だ。内容は、近々取り壊される予定になっている名建築の、喫茶付き見学会。

 取り壊されるのは歴史ある学校の旧校舎及び寄宿舎だ。建物が老朽化し大規模補強の計画が出始めたタイミングで、あの大戦が勃発した。近隣で繰り広げられた激しい戦闘のせいで、弱っていた建物の土台が大きく歪んでしまった。一時的な補強で現在までしのいできたが、限界は近い。ことに旧校舎のほうは、少しの衝撃で崩れる危険性があった。
 そこで持ち上がったのが、最後の見学会だ。
 当然ながら、旧校舎はすでに一般公開が終了している。立ち入ることができるのは寄宿舎の中だけだが、かの名建築をもう一度見ておきたいと思い、申し込んだら当選した。

 中は当選した者だけしか立ち入ることができないが、外観だけなら申込みがなくても見ることができる。だから、時間をずらしてオールマイトを誘ってみようか、と思いかけ、彼の気持ちにどう答えるか決めかねている今の状態では無理だと考え直した。

 それに、わたしはオールマイト個人の連絡先を知らないのだ。スマホの番号も、トークアプリのIDも。
 隣に住んでいるからといって、押しかけるわけにもいかないだろう。
 わたしと彼の間は、近いようで、とても遠い。

***

 師走とは思えぬほど、あたたかな午後だった。
 この建物の目玉のひとつでもある食堂ホールの大窓からは、穏やかな陽光が燦々と降り注いでいる。見学会の定員は二十人だったが、大半がまだ寮内を見学しているのか、食堂ホールの席はまばらだった。隣の席には三人の母子連れ。上の子は女の子で――小学校の高学年くらいだろうか――下の子は未就学の男の子だ。少し離れた席に年配の女性がふたり。それぞれがゆったりとくつろぎながら、喫茶を楽しんでいる。幸福で穏やかな休日の昼下がり。
 それにしてもほんとうにすてき、と巨大な窓を見上げた。
 この窓は当初はステンドグラスになるはずだったときいている。けれど予算が追いつかず、かわりに木製の窓枠と桟が幾何学的に配されたというが、なかなかどうして、採光は良い。日差しはあかるく、そして木枠ならではの趣があった。

 窓のない壁のそれぞれには大きめの絵画がれている。西の壁には暁の女神エリス、東には太陽神ヘリオス、そして北側には月の女神セレネ。つまりモチーフはギリシャ神話だ。そういえばお気に入りの喫茶店のステンドグラスにもセレネがいる。もしかしたらあの店はここの絵から発想を得てセレネのステンドグラスを選んだのかもしれない、と密かに思った。

 紅茶とケーキのセットに満足しながら、大窓から降り注ぐやわらかな日差しを楽しんでいると、隣のテーブルからの会話が漏れ聞こえてきた。どうやら下の子がトイレに行きたくなったらしい。けれど女の子はまだケーキを食べている。どうするのかな、と思っていると、「ここで待てる?」という声が聞こえてきた。

 正直な話、子どもを置いて行くのはどうか、と思った。けれど上の子は高学年のように見えるし、席を外すのもそう長い時間ではないだろう。わたしがさりげなく気にかけておけばいいかと思い直して、余計な口出しはしないことにした。

 女の子が自身のスマホを取り出して、画面を眺めはじめた。これくらいの頃、わたしはなにが好きだったっけ。ヒーローになりたくて、そういう動画ばかりを見ていたような気がする。当時の気持ちを思いだして、寂しいような、懐かしいような気分になった。叶った夢もあれば、叶わなかったこともある、そして道半ばで自ら逃げ出したことも。
 ふう、と息をついて、残りの紅茶を飲み干した。えぐみがなく香りのしっかり立った、美味しいお茶。

 と、その瞬間、地響きと共に耳を劈くほどの爆音が響きわたった。なにごとか、と窓の外に視線を移して、ぞっとした。すぐそこの芝生の上で男が暴れている。
 敵か、と呟いたその刹那、男の腕から弾丸が放たれた。数秒おいて、隣接している学舎の一部がゆっくりと崩落していくのが見えた。個性はロケットランチャーの一種だろうか。

 けれど、あの男には見覚えがない。

 活動停止して八年経ってはいるが、雄英に勤務している関係で、ネームドと呼ばれる大物ヴィランの顔と個性くらいは把握している。再び自らの記憶を総動員して、男の顔と脳内のヴィランリストを照らし合わせたが、やはり知らない男だった。
 オール・フォー・ワンの死後、大物のヴィランは数を減らしたが、組織だった犯罪行動を起こすほどの度量がない小悪党は未だ点在している。あの男もその類いだろう。トリップ系の薬物を多用して、おかしくなっている可能性もある。

「おかあさん……」

 隣の席から弱々しい声が聞こえてきてはっとした。女の子が怯えている。

「こっちへ!」

 細い腕をとってそっと抱き寄せ、できるだけ優しい声でささやいた。同時にフロア内にいた人々にも合図をし、ひとかたまりになるよう促す。フロアの配膳はロボットが行っているので、現場の人数が少ないのは幸いだ。
 頭の片隅でさきほどトイレに立ったふたりの無事を祈りつつ、女の子に向き直る。

「大丈夫。わたし、これでもヒーローなの」
「ほんとう?」
「ええ」

 テーブルを立てバリケードを作り、中に入るよう促しながら、あえてにっこり微笑んでみせた。現在はヒーロー活動はしていないが、更新手続きは続けているので、わたしの免許はまだ生きている。つまり重要なことを隠してはいるが、嘘はついていない。

 ロケットランチャーにテーブルの盾など物の役にもたたないが、ないよりはましだ。たしかこのあたりにはヒーロー事務所がいくつかあったはず。ヒーローが現着するまで、そう時間はかかるまい。
 と、そこまで考えた瞬間、地響きと共にまた爆音が轟いた。食堂の入り口が破壊されたのだ。
 もうもうと立ち上る砂塵の中から現れたのは、さきほど芝生広場で暴れていた男だった。食堂の入り口は開放されていたので、わざわざ壊す必要などない。力を誇示したいという精神のあらわれだ。

 そう思った刹那、男がロケット弾を発射させた。弾は北側の壁に命中し、振動でセレネの絵が落下した。澄んだ破壊音が鳴り響き、それとほぼ同時に額のガラスが四方に飛び散る。

 とっさに女の子を守ろうと手を広げた。と、手首のブレスレットが、テーブルの装飾に絡みついた。思わず強めに手を引いて、しまった、と思った時にはもう遅かった。

 ぷつん、という音と共に、ブレスレットの糸が切れ、真珠が弾けた。

 あっ、と、小さく声を漏らした。これとよく似た光景を昔に見たことがある。あれは、どこでだったろう。

 幾何学模様の窓から差し込む光の中で飛び散った真珠の粒たちが、有翼の女神の描かれた絵の上にぱらぱらと落ちた。それはまるで、セレネが流した涙のようで。

 そうだ、と思わず声を上げた。

 あれは宝石店強盗を撃退した時のことだ。戦闘の衝撃で中央に置かれていたガラスケースが割れ、展示物である女神の像にかけられていた真珠の首飾りが弾け飛んだ。
 像の上に落ちた真珠は、まるで女神の涙のようで。
 その時、飛び散る真珠の向こうから敵に散弾を撃ちこんだのは、背の高い青年だった。
 そこまで思い出した刹那、脳内で自らの声が響いた。

――ねえ、あなたのその腕、とても綺麗ね。まるでエンゼルトランペットみたい。

 この声を皮切りに濁流のように押し寄せてきたのは、封印したはずの記憶の数々。

 初めて共闘した日、薄橙色のエンゼルトランペットの下で彼と話した。
 つきあって二年目の記念日に、真珠のブレスレットを二人で選んだ。
 次に買うのは指輪にしようと笑い合ったあの日。
 そして「無事か。……よかっ……た」という言葉を残し、彼は事切れた。

 ああ……思い出した。…思い出した! なにもかも。
 どうして忘れていられたのだろう。あの優しくも愛おしい、幸福だった日々を。

「ヒーローさん……」

 呆然と立ちすくんでいたわたしを現実に戻したのは、袖を引く子の声だった。たしかに、今は余計なことを考えている場合ではない。

 男は直接攻撃をしかけては来ず、壁や装飾品を破壊してはげらげらと笑っている。錯乱しているとまではいかないが、極度の興奮状態にあるのは確かのようだ。

 男のロケット弾は、見た目の割に威力はそこまで甚大なものではなさそうだ。民間人だけでも避難させるにはどうしたらいいか、と頭を悩ませていると、男の手前に設えられていたランプシェードがいきなり割れた。当然ながら、男がランプに視線を向ける。
 その隙を縫うように、崩れた入り口の隙間からここまで疾風のように滑り込んできた人物がひとり。

「もう大丈夫。なぜって」

 ウインクしながら、そのひとは続ける。

「私が、来た!」
「オールマイト先生?」

 しーっ、と小さな声を上げ、オールマイトが長い人差し指を口元に当てた。
 幸い敵はこの闖入者に気づかなかったようで、ランプが割れた原因を求め、きょろきょろと周囲を見回している。

「外から建物を眺めていたらこの騒ぎだ。逃げ遅れた人がいるだろうと思って、中に入ってみたんだよ。そうしたら君たちがいた」
「それは……心強いです」

 オールマイトが来てくれれば百人力だ。あんな敵などあっという間に拘束してくれるだろう。

「助かりました。オール・フォー・ワンと戦ったときのバトルスーツがまだ残っていたんですね」
「いや、あのときのスーツはもうないよ。壊れちゃったからね」
「え?」
「あれがあれば、敵などすでに確保している」

 たしかにその通りだ。ということは……。

「以前のようには戦えない。今の私にあるのはこれだけ」

 と言って彼がスーツの内側から取り出したのは、いくつかの判子だった。

「……これは……」

 何度か現場で見たことがある。これはサー・ナイトアイが使用していた戦闘用のサポートアイテムと同じものだ。
 うん、とオールマイトはうなずいて、次に故人を懐かしむようにさみしげに笑んだ。

「これを入り口から投げても、倒せるかどうか微妙だったからね。隙をついて距離を縮める必要があったんだ。さあ、今からここを切り抜けるよ。君たちは安心して見ていてくれ」

 さらりと告げて、オールマイトが満面の笑みを浮かべる。と、さきほどまで怯えきっていた老婦人たちと女の子も、つられたように微笑んだ。
 元ナンバーワン・ヒーローの笑みは、かくも人々の心に安寧をもたらすものなのか。

 しかし、いくら歴戦の猛者であるオールマイトとはいえ、ロケットランチャーと判子ではあまりに分が悪すぎる。しかも彼は個性を失って久しく、以前のような筋肉もない。ボルトだらけの細い身体では、一発でも食らったらそれで終わりだ。

 けれどこの真に強いひとは、この状況においても個性が使えぬわたしに掩護がほしいなどとは、一言も口にしない。

――だけど。

 ごくりと息を飲んだ。
 だけどわたしの個性なら、オールマイトの前に防御壁を作り出せる。
 純粋な岩塩のモース硬度は二ほどしかないが、わたしが作る塩の壁はコンクリートよりも硬く、圧縮硬度も強い。弾を受けると同時に塩で包んでしまえば、周囲への被害も最小ですむ。

 わたしが個性を使えなくなったのは、精神的なものが原因だ。周りはわたしに隠していたが、機能的になんの問題もないことも知っている。
 けれどわたしは、それがわかっていて、個性を取り戻すための治療をしなかった。

 怖かったからだ。

 当時は何をそんなに恐れていたのかがよくわからなかったが、今ならわかる。わたしが恐れ続けたのは、敵との戦闘で、大切なひとを失うことだと。

「じゃ、行くね」

 止める間もなく、オールマイトが身を翻してバリケードの外へと躍り出た。豹のようにしなやかに。
 と、同時に、彼は手のひらから超質量の判子を放った。
 オールマイトに気づいた敵が、ロケット弾を発射する。

 戦闘は、今でも怖い。
 けれどわたしはもう二度と、目前で大切な人を失いたくない!

 そう思った瞬間、反射的に身体が動いた。
 身体の奥底から、沸騰しそうに熱いものが湧き上がってくる。体内が「塩」を生成しているのだ。これはかつて毎日のようにこの身を駆け抜けていた、懐かしい感覚。
 臍下丹田で生じた白い激流がうねりをあげながら身体の中を突き進み、指先まで到達する。
 それは瞬きするよりも短い、刹那のできごと。

「オールマイト!」

 大好きな人のヒーロー名を呼びながら、放出した塩をオールマイトの前に立ち上げた。瞬時に硬化したそれが壁となり、ロケット弾を止めると同時に包みこむ。
 それと時を同じくして、オールマイトが投擲した印が鈍い音をたてて敵の額にめり込んだ。
 ひとつ、ふたつと間をおいて、男の身体がどうと倒れる。

 わあ、と背後で守る人々から声が上がった。しかしこれで終わりではない。塩壁の中で炸裂した弾をかけらも外に出ぬよう、次から次へと塩で固める。

 もう大丈夫、という確証が持てるまで塩を出しきってから、わたしはすとんと腰を落とした。



「待たせてすまなかったね」

 ほろ苦く笑んだオールマイトに、いいえ、と応えた。
 あの後すぐに現着したヒーローたちによって敵は確保され――といっても敵はすでにオールマイトによって倒されていたのだが――今回の騒ぎは幸いにして死傷者なしという結果に収まった。女の子の母親と弟も当然無事だ。これで「オールマイトが出場した現場で死亡した者はいない」という記録にまた上塗りがされたわけだが、生ける伝説である当の本人は、塚内と名乗る警部にこれ以上ないくらいこっぴどく叱られていたのがなんだかおかしかった。
 頼むからこれ以上の無理はしてくれるなと連呼していた塚内さんは、オールマイトにとって大切な友人らしい。

「帰ろうか。実は車で来てたんだ。隣なんだし、家まで送るよ。」
「今日は、どうしてこちらにいらしていたんですか?」

 問われたこととはまったく関係のないことをたずねたわたしに、オールマイトは怒るふうでもなく、「最後って聞いたから、外観だけ見に来たんだよ」と応えてくれた。「そうですか」「うん、そうなんだ」というやりとりのあと、互いの言葉がふいに途絶える。
まただ、と思った。
 このひとに会ったら言いたいことが山ほどあったはずなのに。用意していた言葉は、なにひとつでてきてはくれない。

「送られるのは嫌かい?」

 わたしの沈黙を誤解したのか、オールマイトが眉を下げる。まさか、そんなはずはない。けれどわたしの口から出てきたのは、いいえ、という無愛想な言葉だけだった。

「じゃあ、行こうか。コインパーキングはすぐそこだよ」

 オールマイトの言葉にこくりとうなずき、彼の後をついてゆく。警察署の前の通りは国道で、簡単なイルミネーションが施されていた。

「……また個性が使えるようになってよかった」

 金と銀にきらめく街路樹がとてもきれいだ、とぼんやり考えていたわたしに、ぽつりと彼が言った。
 すべてあなたのおかげです、と内心で答えたが、舌先に乗って出てきたのは、ありがとうございます、というそっけない声だけ。
 三十を大きく超えているというのに、さすがにこれでは情けない。そう思い直して、常よりも重く感じられる口唇を開いた。

「あの……帰る前に、すこしお話させていただいてもよろしいでしょうか?」
「かまわないよ。なんだい?」

 その……と、くちごもってしまったわたしに、オールマイトが軽く目を細めた。いたわるような、優しいまなざし。彼の金色の頭髪の少し上で、同じ色の灯りがゆるやかに点滅を繰り返している。

「ちょっと込み入った話みたいだね。どこかに移動してゆっくり話そうか」

 意図を察してくれたであろうことにほっとして、ちいさく頷く。と、オールマイトはまた優しく微笑んだ。

***

 オールマイトが選んだのは、最も近くにある海浜公園だった。人に話を聞かれにくいよう、戸外を選んでくれたのだ。その思いやりがありがたかった。
 遊歩道から見えるのは、二、三年前まではゴミであふれていたという海岸だ。けれど今は、それが嘘のように綺麗になっている。

「少し寒いけど、あそこでもいいかい?」

 オールマイトが遊歩道から少し入ったところにある、海岸を臨む四阿を指した。そこには木のテーブルと、ベンチがふたつ。
 はいと応えてそちらに向かいベンチに腰掛けると、失礼、という言葉と共に、オールマイトが隣に座った。……風上のほうに。
 日中は暖かかったのに、陽が落ちたあとの海沿いは冷える。思わずコートの前を合わせると、オールマイトが巻いていたマフラーをはずして、わたしの首にふわりとかけた。

「あの……」
「冷えるといけない。おじさんの私物を身につけるのは嫌かもしれないけど、風邪をひくよりいいからね」
「……嫌ではないです」

 そう、と彼が言い、はい、とわたしは応えた。
 ひとけのない冬の海。寄せては返す潮騒がブルースのように響いては、砂の隙間にしみこんでゆく。
 どこから話をしたらいいだろう。なにを話すべきなんだろう。自分から話があると言ったくせに、話の糸口がみつからない。
 するとオールマイトが心得たように軽く眉を上げ、スーツのポケットから小さな袋を取り出した。

「忘れていた。先に返しておくよ。大切なものだろう?」

 袋の中にはいっていたのは、いくつかの真珠だった。

「すべては無理だったけど、できるかぎり回収しておいた。もしも残りが後から出てきたら知らせてほしいと、塚内くんにも頼んでおいた」
「オールマイト先生……」
「せっかくのブレスレットが壊れてしまって残念だったね。似合っていたのに」
「……形あるものは、壊れてしまうものですから……でも、拾ってくださってありがとうございます」

 うん、と、静かにオールマイトがうなずいた。

「ただ……得られたものもあります。個性と共に、なくしていた記憶を取り戻しました」
「そうか……安易に告げていい言葉ではないかもしれないが、それは良かった」

 はい、と応えて黙りこむと、また沈黙が場を支配する。人の声の代わりに、聞こえてくるのは潮騒だ。
 それでもオールマイトは何も言わず、辛抱強くわたしの言葉を待っていてくれている。わたしは一度目を瞑り、大きく息を吸ってから、再び口唇をひらいた。

「ここから先は自分語りになります。お許しいただけるでしょうか?」
「もちろんだよ」
「……記憶をなくしてからずっと、わたしは恋などしてはいけないのだと思ってきました。好きだったはずのひとのことを、存在すらも忘れ、涙すらも流さない。そんな薄情な人間に、恋など許されることではないと」
「そうか……」
「記憶を取り戻して、その気持ちはますます強くなりました。わたしのために死んでしまった人がいるのに……どうしてそれを忘れてなんかいられたんだろう、と」

 声がひび割れてゆくのが自分でもわかった。けれど最後まで伝えなければいけない。このやさしいひとに、どんなにわたしが薄情な人間かということを。

「あの日…………わたしが先に、動けなくなったんです」
「君が大けがをした日のことかい?」

 はい、とうなずいて続ける。

「初手で手足を折られ、立つことすらままならなくなりました。相手の攻撃を塩の盾で受け流すのにも限界があった……。死を覚悟した次の瞬間、敵の攻撃をその身で受けたのは……」

 わたしではなく、彼だった。

「彼は、わたしをかばって亡くなりました。あの時死ぬべきだったのは、彼ではなくわたしであったのに。それなのにわたしはそれを忘れてしまっていた。この八年間、すべて忘れて、のうのうと生きながらえてきたんです。こんな薄情な女が恋愛をするなんて、許されるはずがありません」

 うーん、とオールマイトが首をかしげた。

「もしかして、今のって、このあいだ私が伝えた気持ちの答え?」
「……本当のことをお話しておいたほうがいいと思いましたので」
「そうか。じゃあ、私の考えを述べさせてもらってもいい?」

 はい、と答えると、オールマイトがまた微笑んだ。細められた瞳が、とてもやさしい。サファイアのように澄んだ、美しい青。
 あまりにもそれがまぶしくて、わたしはさりげなく目をそらした。彼は続ける。

「君は冷たくもなければ薄情でもないよ。むしろ愛情深いひとなんだと思う。自己防衛本能で自らの記憶を消さざるを得ないほど君は悲しみ、そして苦しんだんだ。それにね、彼のことをすっかり忘れていたと君は言っていたけど、自分でも理由がわからないのに涙がとまらなかったこともあるんじゃないかい?」

 柔らかな声で問われてはっとした。たしかにそうだ。わたしは薄橙色のエンゼルトランペットが咲くのを見るたびに泣いてしまっていた。意味もわからず、ただただ悲しい気持ちになって。

「それ、君が彼のために流した涙だと思うよ」

 私としてはちょっぴり妬けちゃうけどね、と冗談めかしてから、彼は続ける。

「恋するのも許されない、って言っていたけどさ、それ、誰が許さないの?」

 答えに窮して、息を飲んだ。
 自分が誰に許しを乞うているのか。それは前々から自分でも考え続けていたことだ。

 ヒーローは危険が伴う職業だ。だから相手が先に死んだときのことを、生前の彼と話し合ったこともある。

 もしそんなことになったら他の人なんて一生好きにならない、と青臭いことを言ったわたしに彼は告げた。
『何言ってるんだ。死んだ男のことなんかとっとと忘れて、新しい恋をしてくれよ。俺は美栗がしあわせでいてくれるなら、それでいいんだ。俺を見くびるなよ』と。

「君を許していないのはね、ほかでもない、君自身だ」
「わたし……自身……」
「そうだ。自罰的になるのは、もうやめたほうがいい。ブランダーバスが亡くなったのは、君にとっても彼にとっても大変不幸なことだった。それを悲しむのはいい。彼を想い続けるのも同様だ。だが、自分を責めることだけはよしなさい。そうして君の中で、彼を想う気持ちと同じように別の人を大切に想える日がきたら、その気持ちを大切にするといいよ。もちろん、それが私である必要はない」

 けれど……それでも――と思った瞬間、くしゅん、と小さなくしゃみが出た。
 オールマイトがはっとしたように目を開き、次に深く息を吐く。

「どうやら冷えてしまったようだね。この海岸にはちょっとした思い入れがあるから、つい選んでしまった。もう少し暖かい場所にすればよかったね。すまない」

 少し懐かしそうに、オールマイトが海を見やった。
 墨を刷いたように黒い空に浮かぶ、金色の月。その下では、空と同じ色の、だがそれよりもやわらかな光沢を放つ水面が、静かに揺れている。
 この美しい海岸にある思い入れというのがなんなのか、聞いてみたいような気がした。

「……そろそろ車に戻ろう」

 低く優しい声で告げながら、オールマイトが立ちあがった。

「君はこれ以上苦しむ必要はないし、誰かに許しを乞う必要もない。きっとこれから、いくらでも恋ができるよ。さあ、帰ろう」

 晴れ渡った空の色をした瞳が、わたしを見つめている。その奥に潜むさみしげな影に、このひととこうしてふたりきりで話すのはこれで最後になるだろう、と、不意に気づいた。少なくとも、オールマイトはそう考えているだろうと。

 同じ職場にいるのに、話をすることもない。
 隣に住んでいるのに、姿を見かけることもない。
 そう思った瞬間、胸の奥がしめつけられた。

「オールマイト先生は、本当に……わたしに恋ができると思われますか?」
「もちろんだ。私と違って君はまだ若い。必ずやもう一度、誰かと恋ができる」

 優しい声と優しい瞳でそう告げて、オールマイトがさりげなく背を向ける。長い足が一歩を踏み出した。
 その一歩分、オールマイトがわたしから遠ざかる。そしてその一歩が二歩になり、次に三歩になり、いつか見えなくなるほど遠くへ行ってしまう。

――いやだ。

 内心で叫ぶと同時に、わたしは手を伸ばしていた。必死の思いで掴んだのは、やわらかな手触りの、上質なアルパカのコート生地。
 とたん、大きな背中が、ぎくりとこわばる。

「もしも……もしももう一度恋をするなら……」

 絞り出した声は、自分でも驚いてしまうくらいかすれていた。「うん」と、優しくそして甘い声でオールマイトが応える。

「……もし……そうであるならば、相手はあなたがいい」

 告げた瞬間、弾かれたように、目前の長身痩躯が振り返った。

「……私は、二十も年上のおじさんだけど、いいのかい?」
「あなたでなければ……だめなんです」
「ソルティ……」
「……美栗、です」

 オールマイトが軽く息を飲み、美栗……とちいさくつぶやき、長い人差し指をわたしの目元に当てた。それが横にすいと動いて、目の縁に溜まっていた水滴を拭う。
 そこで初めて、自分が泣いていたことに気がついた。

「……オールマイト」
「俊典だ。私の本名は、八木俊典」

 やぎとしのり、と口の中で呟いて、彼を見上げる。月明かりをやわらかくはじいて輝く、金髪がまぶしい。

「それじゃあさ、してみようよ」

 と、明るい声で彼が言った。

「恋をしたことがない私と、恋ができないと思っていた君で、しあわせな恋というものを」
「それは……わざわざ宣言するものなんですか?」
「なんかね、私たちの場合はしといたほうがいい気がするんだ」
「たしかに……そう、かもしれません」

 絶対そうさ、とオールマイト、いや、俊典がこちらに手をさしだした。
 おそるおそるその手を取った。大きくて、少し冷たくて、骨張ってごつごつとしていて、傷だらけの、でもわたしにとっては誰のものより優しい手。

「それでは、これからどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」

 握手をしながら、やや間抜けなあいさつをかわす。それがなんだかおかしくて、思わずわらってしまうと、俊典が驚いたように目を見開いた。

「うん。いいね。私はね、君のそんな笑顔が大好きなんだ」

 そう言って、彼も笑った。心の底からしあわせそうに。

2026.4.10
月とうさぎ