室内にいても時折聞こえてくる、ひゅうひゅうという風切音。
気圧の配置が西高東低と呼ばれる冬型になったことでおこるこの風は、ひどくつめたい。
ブラウンのスーツと砂色のトレンチコートを身にまとったとても背の高いそのひとは、晴れ渡った空と同じ色の瞳をしていた。
***
うちのママはきれいだ。
二十歳でわたし達を産んだせいもあってか、同級生のママたちに比べて格段に若くてスタイルがいい。
ママは異形型の元ヒーロー。仕事中の事故がもとで個性を使えなくなったためヒーローを引退し、現在はオールマイトの事務所で事務員をしている。
パパが亡くなった後、女手一つでわたし達をここまで育ててくれたママを、わたしは密かに尊敬していた。
そしてそのママが、ある夜わたし達にこう切り出した。
「話があるの」
そう言いながらも、ママはもじもじしてなかなか話を切り出そうとしない。頬を赤く染めて、軽く組んだ左右の指先の間で親指をくるくると回している。
「はあ? なんだよ! 早く話せよ!」
カチカチという歯噛みの音に続きブーンという威嚇音を響かせて声を荒らげたのは、わたしの双子の兄である胡蜂。
胡蜂はその個性のせいだろうか。気性が荒いところがある。
「あっ、うんあのね……。ママ、結婚してもいいかな」
「「はああ??」」
わたしと胡蜂……双方同じ言葉が口から飛び出た。
男女の双子は二卵性。顔も性格も全然似ていないのに、こういう時は見事にシンクロするのだから、血のつながりって不思議なものだ。
「ママ、プロポーズされてるの……」
きゃっと声を上げながら、ママは真っ赤になって顔を覆った。まるで恋する女の子だ。 あ、いや、いくつになっても恋をしている女の人は、こんなふうなのかもしれないけれど。
「「え? どんな人(やつ)?」」
とことん被るわたしと胡蜂。
二人、思わず顔を見合わせた。
だって、意外にもほどがある。
ママは確かに若くて美人だ。言い寄る男のひとは、きっとたくさんいるだろう。
だからといって、恋人はおろか、好きな人がいるなんて話は聞いたことがない。
ママがわたし達を置いて夜遅くなることなんて、仕事のほかではたぶんない。
それなのに、プロポーズされるほど深いつき合いをしている人がいたなんて、ちょっとびっくりだ。
「同じ職場のひとなの」
「マジか!!」
胡蜂の瞳がきらきらと輝いた。ママ譲りの優れた個性を持った胡蜂はヒーローを目指している。ヒーローを目指す中学生の常として、志望校は雄英だ。
その雄英を卒業し、長きにわたってトップヒーローの座に君臨し続けているオールマイトを、胡蜂は崇拝しきっていた。
わたしにも個性はあるが、どちらかというとサポート向けのもの。戦闘にはあまり向かない。わたしと似たような個性でヒーローを務めている人もいるから、そうなりたいと思ってはいるけれど。
でもそれを口にしたことはない。これは誰も知らない、わたしの密かな夢。
思考がそれてしまったことに気づいたわたしは、また考えをママのお相手に戻した。
いったいどんな人なんだろう。オールマイトの事務所にいるくらいだもの、きっとすごいヒーローに違いない。
ひょっとしてオールマイトだったりして。
……さすがにそれはないか……
「俺は賛成だ!!」
いきなり大きな声を上げた胡蜂を、呆れ顔で眺める。
言うと思った。
男の子って、なんでこう単純なんだろう。有名なヒーローだからって、立派なひとであるとは限らないのに。
お相手が個性に秀でていて、社会的な地位が高くても、内面がろくでなしだったらわたし達三人の人生は悲惨なものになってしまう。
ママは気丈な頑張り屋さんだけれど、そういう人は悪い男の人に騙されやすい面もある、と聞いたことがある。
本当に大丈夫なのだろうか。
「このみは? ママね、あなたたちが反対するなら、断ろうと思っているの」
「えっ?」
ママ、そんなのずるいよ。
そんなふうに言われたら、わたしは反対できないじゃない。
先に賛成した胡蜂に至っては、全身から「反対なんかしたら殺す」オーラを発生させている。
パパはわたし達が生まれる寸前に死んでしまった。だからママの再婚にあたって、パパがかわいそうという感覚はあまりない。
どちらかというと、ママがその人に盗られてしまいそうな気がしてさみしかった。
それはやっぱり子供っぽい感情なのだろうか。もう小さい子ではないのに。
「ママ、どんな感じの人なの?」
「とても優しいひと。実はね、ずっとママを支えてくれていたの」
……そうなんだ……
知らなかった。
わたし達にとってママは大人で、そんなママが誰かに支えられたいと思っていたなんて、考えもしなかった。
「その人に会ってから決めてもいいかな」
そう言うとママは、漫画だったら背後にパアアという書き文字が現れそうなくらいに顔を輝かせた。
ああ、そんなにその人のことが好きなんだ。そんなにその人と一緒にいたいんだ。
わたしに、ママの幸せを邪魔する権利はない。
さみしいけれど、わたしはそろそろ大人への階段を昇らなくてはいけないのだろうか。
***
ママの告白から三日後、その人――八木俊典さんというらしい――は木枯らし一号の吹きすさぶ中、有名店のマカロンを手土産に我が家を訪れた。
砂色のトレンチコートとぶかぶかのスーツを着た俊典さんは、めちゃめちゃ背が高くて、めちゃめちゃ痩せている。手足なんか棒みたい。
俊典さんは挨拶する前にひどく咳込んで、大量の血を吐いた。
ママ、ホントにこの人と結婚して大丈夫なの?
いきなり血を吐くなんて、病気なんじゃないの??
見慣れているのか、ママは平気な顔で俊典さんにタオルを手渡している。俊典さんも普通にそれを受け取った。
悪いけれど、俊典さんはどうみてもヒーローには見えない。
オールマイトの事務所に勤めていると聞いていたが、きっと事務のひとだろう。
わたしは病弱そうな俊典さんを見て不安になったが、胡蜂はそれ以上の衝撃を受けていたようすだった。
当然だ。現役のヒーローが新しい父親になるかもしれないと楽しみにしていたのに、こんな弱々しいひとではがっかりだろう。
あの目の吊り上り方からして、がっかりどころかマジ切れしてるんじゃないだろうか。
「はじめまして」
低いけれど柔らかい声で、俊典さんは笑った。
胡蜂はぷいと横を向いたまま、俊典さんのことを見ようともしない。これはちょっと失礼だ。
わたしはその場を取り繕うように、笑顔を作った。
「はじめまして、このみです。隣にいるのは双子の兄の胡蜂で、二人とも中二です」
「このみちゃんと胡蜂くん。ゆかりから話は聞いてるよ。これからよろしくね」
「ハア? なんで俺がてめーとよろしくしなきゃいけねーんだよ、おっさん。あと人の母親を呼び捨てにすんじゃねーよ」
「胡蜂!」
いきなり喧嘩を売った胡蜂を、ママが諌めた。
俊典さんはそんなママにまあまあ落ち着いて、と声をかける。
「確かに、私が君たちのママを呼び捨てにするのは嫌かもしれないね。じゃあ私は、君たちのママをなんと呼べばいいかな?」
この人すごい、とわたしは思った。わたし達のような子供にあんな口をきかれたら、たいていの大人はむっとする。
それなのに、こんなふうにニコニコ笑いながら、どうすればいいか聞けるなんて。
なんて表現したっけ、こういう人のこと。ああそうだ、器が大きい。
俊典さんは器が大きいんだ。
「普通に名字で呼べばいいじゃねーか」
明後日の方向を向いたまま、胡蜂が不愛想な声をあげる。
俊典さんに会うまではどんなヒーローかな、誰かな、なんて、あんなに楽しみにしていたくせに。
胡蜂は本当に子供だ。
ママもママだ。俊典さんがヒーローじゃないなら、最初にそう言うべきだったのだ。
事務のお仕事が悪いわけじゃない。でもヒーローを想像していたぶんだけ、期待してしまったぶんだけ、胡蜂が落胆し、怒り出すのはわかりきっていたことだろうに。
二人に対して……特に俊典さんが自分の思うような相手ではなかったというだけで手のひらを返した胡蜂に対して、わたしは無性に腹がたった。
だって、身体は弱そうだけれど、とても感じのいいひとだ。
きっと悪いひとじゃない。根拠はないが、そんな気がする。
「えー、だってママと俊典さんは結婚するんじゃん。そしたら名前も俊典さんの名字になるよね。だから今の名字で呼ぶなんておかしいよ」
「えっ?」
俊典さんが意外そうな顔をした。わたしがこの結婚に微妙な反応をしたことを、ママからきいていたからだろう。
「わたし、俊典さんとママの結婚に賛成する。だから俊典さんはママのことを好きに呼んだらいいよ」
「ありがとう」
俊典さんが嬉しそうに笑った。ママもとても幸せそうだ。
わたしの隣からチッという盛大な舌打ちの音が聞こえてきたが、それは無視することにした。
たった今舌打ちをした相手に、俊典さんが向き直る。
「ところで胡蜂くんの気持ちはどうかな。私は君のママと結婚したいと思っているんだが、許してもらえるだろうか」
「おっさんがオールマイトみたいだったら賛成してやったところだけどな」
やっぱり、意見を翻して反対するつもりなんだ。胡蜂はずるい。
ママだって、俊典さんに息子は賛成していると話していただろうに。その証拠に、ママはすごいははらはらした顔をしている。ママは考えていることが顔に出るのだ。
不安になってわたしは俊典さんの顔をそっと見上げた。けれどそこにあったのは満面の笑みで。
あれ? なにこのひと。 すごい嬉しそう。
「へえ、君はオールマイトのフォロワーかい?」
「当たり前だろ。男っていうのは、ああいう圧倒的な強さを持った男に憧れるもんだ」
「そうかい。それは嬉しいな」
「なんでおっさんが喜んでるんだよ、気持ち悪い」
うん、それはわたしもそう思う。なんで俊典さんはこんなに嬉しそうなんだろう。
オールマイトのファンなのだろうか。
ファンが高じて、オールマイトの側で働いている……とか?
おじさんが大好きなおじさんって、なんかちょっと怖い気もする。
俊典さんは、柔らかい笑みを浮かべながら胡蜂に問いかけた。
「それで、君の気持ちはどうなんだろう?」
「胡蜂は大賛成してたよねー。男に二言はないって、いつも偉そうに言ってるじゃん」
わたしは胡蜂に対して意地悪な気持ちになっていたので、割って入ってそう告げた。
だいたい普段から、胡蜂は「男は××」「男たるもの××」とうるさいのだ。
隣から小さい声で「おぼえてやがれ」という声と、あからさまな舌打ちの音が聞こえてきたが、そんなのぜんぜん気にしない。
だって実際言ってたじゃない。俺は結婚賛成だって、あんなにしつこく。
胡蜂はとんでもなく怖い顔になっている。それはまさしく鬼の形相。
「すりゃいいじゃねえか。結婚」
「ありがとう!!!」
そう叫んでママが胡蜂に飛びついた。
ママ……そんなに……そんなになのか……そんなにそのひとと結婚したかったんだ。
本当にそのやせっぽちののっぽさんが好きなんだね。悪いひとじゃなさそうだけど、正直びっくりだよ。
鬼の形相だった胡蜂は、困り顔になっている。口ではいろいろ言っているけど、ヤツはママには弱いのだ。
ザマミロ胡蜂と思いながら俊典さんをちらりと見ると、やっぱりその顔には満面の笑み。
笑顔を絶やさない人だなあ。体型は全然違うけど、なんだかオールマイトみたい。
わたしの視線に気がついたのか、俊典さんと目があった。
「父親と思えとは言わない。身近な大人の一人として、君たちと仲良くできたら嬉しい」
つめたい風が吹きすさぶその日、わたしの前に差し出された俊典さんの手は、なんだかとても温かかった。
2015.8.28
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