結婚式については、どうするかまだ決まらないみたいだ。
俊典さんは住んでいた六本木のタワーマンションを引き払い、そこから徒歩圏内の場所に、庭付きの大きな家を買った。
場所は各国大使館からほど近い、閑静な住宅地。六本木の他にも二つの駅が利用できる、静かだけれど便利なところ。
わたし達が通っていた中学からは、都営地下鉄で15分。嬉しいことに、転校する必要もない。
わたし達のような子供でも知っている。六本木近辺でこんな物件を購入できるひとが、どういう層に属するのか。そう、驚くべきことに俊典さんはすごいお金持ちだった。
「おい、おっさん」
「おいとか、おっさんって言い方はやめなさい」
「まあまあ、私は別にかまわないよ」
胡蜂はあいかわらず俊典さんをおっさん呼ばわりしている。言われている本人はそれについて何も気にしていないようすだったが、ママは当然のように怒る。
けれど胡蜂はまったくの無視だ。
逆にママが怒れば怒るほど、態度を硬化させる。あれ、きっとわざとやってる。
俊典さんはあんなにいい人なのに。
わたしあのひととっても好きだ。優しいし、何よりママを大事にしてくれている。
名前の呼び捨てを胡蜂がいやがったため、俊典さんはわたし達に話すときはママを「君たちのママ」と言い、ママに直接語りかける時は「ハニー」と呼ぶ。
馬鹿な胡蜂は、それを聞くたび「虫唾が走る」と地団駄を踏むのだ。
「俊典さんってすごい人だよ」
二人だけになった時に、わたしは胡蜂に言ったことがある。
「すごいもんか。男の世界では、ああいうへらへらした奴は負け犬って言われるんだぜ」
力だけがすべてじゃないのに。胡蜂は本当にばかだ。
たしかに、胡蜂は優れた個性を持っている。頭がよくて身体能力が高くて、戦闘力も高い。荒々しい性格だけれどいじめはしないし、見た目もまあまあカッコいから、女の子たちからもそこそこモテる。
でも、そんな胡蜂は敵も多い。
事件が起きたのは、街がクリスマスの準備に浮かれるある冬の日のことだった。
***
「胡蜂!」
学校からの帰り道、地下鉄の入り口の手前でわたしはそう声をかけた。
「なんだ、このみかよ」
「なんだってなによ。最近胡蜂、態度悪いよ。俊典さんにだって」
「うるせーな。このみ、なんでいつもあのおっさんの肩持つんだよ。ああいう弱々しいのが好みなのか?」
「は? 何言ってんの?」
馬鹿じゃないのと言い返そうとした時、ポケットの中の電話がブブブとふるえた。ママからだ。
とりあえず道の端に寄り電話に出た。なんてことない要件だ。
「お醤油が切れているから、帰りに買ってきて」
ママ……そんなのメッセージでいいじゃんか。
そう思いながら、胡蜂の方に振り返ったその時、わたしは自分の目を疑った。
高校生と思しき若い男の集団が、ぐったりした胡蜂を取り囲んでいたのだ。その数、十人ほど。
中の一人の手から、黄色い火花が散るのが見えた。電気系の個性だろう。
胡蜂の様子からして、かなりの電気を体内に流し込まれたに違いない。
嫌な含み笑いを浮かべながら、その男たちはゆっくりとわたしに近づいてきた。
***
連れていかれた先は、川沿いにある古い倉庫だった。
わたしは猿轡をされたうえ男たちに両腕をとられている。胡蜂はロープで縛られ、電気系の個性を持つ男の足元に転がされていた。どうやらこの男がグループのリーダー格であるらしい。
こんな、半世紀くらい前の少年漫画みたいなことが、本当にあるんだ。
「てめえら、なんでこのみまで連れてきた。こいつは関係ないじゃねえか」
ブーンという威嚇音と共に、胡蜂が叫ぶ。
わたし達の通う中学がある街は、お世辞にもお上品とはいえないところだ。
ヴィラン予備軍のような、ガラの悪い学生も少なくはない。
わたし達を拉致したのは、そんな素行の悪い高校生たちのグループだった。
ゲームセンターでこの連中に絡まれていた同級生を、胡蜂が助けたことに始まる因縁だ。
中学生とはいえ、ブロック塀を素手で粉砕するパワーの持ち主である胡蜂だ。不良高校生の三〜四人、叩きのめすのなんてわけはない。
それ以来、彼らは胡蜂をつけ狙っていた。
「そう、おまえの妹は関係ねえよなぁ。だからこそ連れてきたんだよ。そのほうがおまえの痛手になるだろうからな」
ぞっとした。奴らはわたしをいたぶるつもりなのだ。わたしに興味があるからじゃない。そうすることによって、胡蜂の心を傷つけることが目的なのだ。
男の一人が、わたしの制服の前をぐいと開いた。ボタンが飛んで、中の下着があらわになる。わたしは声を出すかわりに、ひっ、と喉の奥で息をのんだ。
「ふざけるな。やめろ!」
倉庫の中を、胡蜂の叫びが虚しく響く。
いやだ。怖い。助けて。誰か。
猿轡のせいで、声がくぐもり言葉にならない。せめてもの抵抗にと、わたしは首を左右に振った。
だがそれは、逆に男たちの嗜虐心を煽ったようだった。
「そんなに喜ぶなよ。これからたっぷり可愛がってやるからよ」
恐怖に足がすくんで、立っていることができなかった。
腰から崩れそうになっているわたしを、左右の男たちがあざ笑う。彼らはわたしの腕を力任せに引き上げ、むりやり立たせようとした。
その時だった。
響き渡る粉砕音。
音と共に、鉄の扉がはじけ飛ぶ。
コンクリートの床を転がる、蝶番の破片。
もうもうと立ち上る砂埃の先にうっすらと見える、背の高いシルエット。
「もう大丈夫、私が来た!」
オールマイト?!
その場にいた全員がそう思ったことだろう。
だが砂塵の中から現れたのは、平和の象徴とは程遠い、骨と皮でできたような痩身だった。
「おっさん?」
「まったく、子供のいたずらにしてはタチが悪すぎる」
苦々しげに俊典さんが呟いた後、わたしの方に笑いかけた。それはいつものように優しい笑みだ。
「このみちゃん、これは君のお手柄だ。電話を切らないでいてくれたから助かったよ」
そう。ママからかかってきた電話を切らずに、そのまま制服のポケットに入れておいたのだ。
だからきっと、助けが来るとは思っていた。
思っていたけど……怖かった。
「何しにきやがった、帰れ!」
俊典さんは、わたし達を救けに来たのだ。わざわざ来たんだから、このまま帰るわけがない。
それにしても、どうして一人で来たのだろう。十対一だ。弱々しい俊典さんが勝てるわけなどないのに。
男たちをぐるりと見回して、俊典さんが肩をすくめた。
「ちょっと読みが甘かったかな? まあ、このままの姿で来ちゃったものはしょうがないか」
何を言ってるんだろう?
「高校生相手だし何とかなるだろ。胡蜂くん、君、動ける?」
「ハア? 愚問だろ」
「うん、いい答えだ。じゃあ加勢してもらえるね」
「加勢とか、なんでアンタがメインで戦うみたいな感じになってんだよ。怪我しないうちに帰れ」
いきり立つ胡蜂に笑みを返して、俊典さんが男たちに向き直る。
その時、俊典さんの持つ雰囲気が一変した。
スレンダーな身体から、殺気のようなものがゆらりと立ち昇っていく。
倉庫の窓ガラスがびりびりと震えだした。そしてその場を支配し始めたのは、経験したことがない威圧感。
わたしは初めて、俊典さんを怖いと思った。
俊典さんが軽く腰を落として構えながら、片方の口角をゆっくりと上げた。まるで相手を挑発しているみたいに。
「さあ、やろうか」
その言葉と、俊典さんが動いたのが同時だった。
瞬時にわたしたちの側まで移動してきた俊典さんが、胡蜂の縛めを手首の返しだけで引きちぎる。
そのまま身体を反転させて、わたしを取り押さえていた右側の男の延髄に手刀を叩き込んだ。
そいつが崩れ落ちるのと同時に、わたしの左側の男に足払いをくらわせる。それにコンマ数秒遅れて、みぞおちに一撃。
俊典さんの動きによって生じた旋風が倉庫の床にたまっていたほこりを舞い上げ、砂嵐のように周囲を覆った。
もうもうと立ち込める砂埃。
わたしは、動体視力だけはプロヒーロー並みに優れている。それでも俊典さんの動きは追い切れなかった。長身痩躯が翻るたびに、バトルアニメをみるように、ばたばたと男たちが倒れていく。
瞬殺。一撃必殺。あとは……そう、電光石火。そんな言葉がぴったりだ。
視界がクリアになった時、その場にいたほとんどの男たちが意識を失い、地にひれ伏していた。
俊典さんが一人で九人を倒すのに、一分もかからなかったのではないだろうか。
胡蜂はリーダー格の男と対峙していた。
倉庫にブーンという激しい羽音と、かち、かち、かち、かち、と特有の歯噛み音が響く。
胡蜂の個性は母と同じ異形型。古くは胡蜂と呼ばれた大型の蜂……つまりはスズメバチだ。
個性を発動させると、普段は体内に収納されている太い毒針が肘から姿をあらわし、それを敵に突き差し毒液を注入する。
毒液は注入した量が多ければ、相手を死に至らしめるほどのものらしい。
だから胡蜂は、毒針の使用をかたく禁止されていた。
一般に、電気系の個性と戦うのは難しいときく。
だが胡蜂の相手は、周囲に電気を放出できるほど電流は流せないようだった。
スタンガンのような個性なのだろう。直接攻撃さえ避けられれば、勝てない相手ではなさそうだ。
胡蜂はスズメバチ。動きも素早く力も強い。
相手の動きをひらりと交わして、渾身の一撃を顔面に叩きこんだ。
倉庫の端まで飛ばされた相手は、そのままの形で動かない。
「てめえは、ぜったい、ゆるさねえ!」
完全に意識を失っているであろう相手の上に馬乗りになり、胡蜂が怒りの声をあげた。
その肘から太い毒針が飛び出す。
だめだ、今の胡蜂は冷静さを失っている。きっと毒の調節ができない。相手のことを殺してしまう。
「はい、そこまで」
胡蜂の腕を制したのは、枯れ枝のような細い腕。
「離せよ!」
胡蜂が俊典さんをにらみつける。でも俊典さんは笑みを浮かべたまま動じない。驚くべきことに、力を誇る胡蜂がパワー負けしているようすだった。つかまれている腕がびくともしない。
「いいかい。ヒーローになりたいならば、ぜったいに私怨に流されてはいけないよ」
低く言い聞かせるような声。胡蜂がはっとしたように、笑顔のままの俊典さんを見つめた。
***
俊典さんがあらかじめ連絡していたのだろう。すぐに警察が来て、男たちは連行されていった。
どうやら俊典さんは警察に顔が効くようだ。すべての処理があまりにも迅速になされたことが、それを証明している。
「おっさん、あんたなにものなんだ?」
「君たちのママの再婚相手」
「そうじゃねーよ。あんたただもんじゃねーだろ!」
「さあねー」
俊典さんがオールマイトみたいに豪快に笑う。オールマイトと大きく違うのは、その体つきと、笑った後にごふっと派手に血を吐くところ。
「ヒーローなのか?」
血を吐いた口元を静かに拭って、にっこりほほ笑む俊典さん。それだけなのに、胡蜂は二の句が告げなくなってしまった。笑顔にはこんな使い方もあるんだ。
「じゃあ個性だけでも教えろよ。すごいスピードだったけど、そっち系か? 速さを生かすために体重を軽くしてるのか?」
「いい読みだ、と言ってあげたいけどはずれ。さっきの動きは、ほぼ素の身体能力」
「ハア?? マジかそれ!?」
胡蜂があんぐりと口をあけた。わたしもきっと同じ顔をしているに違いない。
だって、素の身体能力であれって、個性を使ったらどんなことになるのだろう。
俊典さんがぐるりと肩を回して、にっこり笑う。
「さあ、早く家に帰って、ママの作ってくれたご飯を食べようじゃないか」
「てめーのママじゃねーだろうが」
「ん、確かに。じゃあハ……」
語りかけた俊典さんを胡蜂の声が遮った。
「普通にゆかりって呼べばいいだろうが」
「おや、呼び捨てにしてもいいのかい?」
「ハニーって呼ぶのを聞かされるほうが苦痛なんだよ!」
助けてもらったお礼すら言ってないし。やっぱり胡蜂は子供だ。
でもその声はどこかさっぱりとしていて、今までの小ばかにしていた雰囲気とは全く違う。。胡蜂はきっと、俊典さんに敬意を抱いたのだ。
男の子ってどこまで単純なんだろう。
「あっ、お醤油買って帰らないと!」
ママに頼まれた要件を思い出したわたしの肩には、俊典さんのジャケットがコート代わりにかけられている。
そこからかすかに漂う、シナモンに似た甘い香りに胸が疼いた。なんだろう、この感じ。
空気の澄んだ冬ですら、都会の夜空は瞬く星が見えにくい。
それによく似た靄のような感覚をもてあまし、わたしはそっと空を見上げた。
2015.8.30
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