「胡蜂くん、このみちゃん。二人の誕生日に忙しくて何もできなかったから何かプレゼントしたいんだけど、欲しい物はあるかい?」
「当日に母さんからもらったし……別になにもいらねーよ」
「同じくです……だってママがくれたプレゼントを買うお金は、俊典さんが働いて稼いだものだし」
「そういうことじゃなくって、私が、君たちに何かプレゼントしたいんだよ!」
「特に何にもねえよ」
「そんなこと言わないで。なにかあるだろ? 欲しい物がなければ、どこかに連れていったりしてもいいんだ。夢の国とか! アメリカンスタジオジャパンとか!!」
俊典さんのスイッチが入ってしまった。こうなったこのひとはけっこうしつこい。
ママとの結婚式がいい例だ。ちなみに結婚式については、俊典さんが押し勝った。近隣の教会で式だけを挙げる手はずがついている。
「あー、めんどくせえな!」
胡蜂が椅子から立ち上がった。
俊典さんにくってかかるのかと思いきや、なんだかちょっと様子がおかしい。上を見たり横を向いたり、変に落ち着きがないのだ。威嚇の時とはまた少し違う羽音が、さっきからやたらと耳につく。
それにしても、なんで胡蜂は赤くなっているのだろう。俊典さんに愛の告白でもする気なのだろうか?
「……俺さぁ」
明後日の方向を向きながら胡蜂が続ける。
「一度オールマイトにトレーニングを見てほしいんだけど、父さんなんとかならないか?」
え? 胡蜂、今、なんて?
わたしもママもびっくりしたけれど、たぶん一番驚いたのは俊典さんだろう。
「ハイ?」
だってほら、俊典さんの声が裏返ってる。
胡蜂は忌々しそうな顔をして、そっぽを向きながらもう一度「父さん」と呼んだ。
「胡蜂ぐん……」
濁点交じりの声の方向に目を向けると、驚くべきことに俊典さんは泣いてしまっていた。ママがよしよしと言いながら、金色の髪を優しく撫でている。
わたしの心がちくりと痛んだ。
「あので、胡蜂ぐん。オードゥバイドどごどばだんどがどぅどぅるがだ」
「……何言ってるかわかんねーよ」
オールマイトのことは何とかするから、って言ったのよ。
それにしても、大人の男の人がガチ泣きしてるのって始めて見た。
ホラー映画の時も思ったけれど、怖がるのも感動するのも喜ぶのも、まっすぐなのだこの人は。
「だんだだ、いばずぐよんだっでがばばだい」
「だから何言ってるかわかんねーんだよ!!」
なんなら今すぐ呼んだって構わない、って言ってるみたいだけど、それはダメでしょ俊典さん。一応内緒にしてるんだから。
でもきっと、勘のいい胡蜂は気づいてる。俊典さんがオールマイトだって。
だらしなくもぼろぼろ涙をこぼしている俊典さんに、ママがそっと寄り添っている。
あの金色の髪をなでているのがママじゃなくて、わたしだったらいいのに。
そう思ったその時、涙と鼻水でぐずぐずになった俊典さんが、いきなりわたしのほうを向いた。
やめて。その期待にあふれる目をやめて。
パパだなんて、わたしはまだまだ呼べそうにない。
だって、俊典さんは、わたしの……。
するとわたしにだけ聞こえるような小さな声で、胡蜂がぼそりとささやいた。
「おまえは父さんなんて呼べねーだろ。無理して呼ぶこたあねえよ」
えっと顔を上げたわたしの肩をポンポンと叩き、胡蜂は自分の部屋に戻っていった。
まったく、本当に勘のいい奴。
俊典さんはしばらく期待を込めた眼差しでわたしのことを見ていたが、やがて諦めたように軽く息をついた。
「このみちゃん。君は何がいい? なんでもいいよ」
「別にいいです」
「そんなこと言わないで。私にできることならなんでも叶えてあげるから」
オールマイトの経済力と人脈をもってすれば、大抵のことなら叶うのだろう。
でも俊典さん、そんなことを言ってあなたは後悔しませんか。
もしわたしが「ママと別れて」と言ったら、あなたはそうしてくれるのでしょうか。
すると、ママが気を利かせたように席をはずした。わたしの気持ち、ママにも気づかれているのかもしれない。
いけないことを考えてしまったことを、わたしは少し後悔する。それでもやっぱり……欲しいものは欲しいのだ。
わたしは俊典さんの視線を正面から受け止めて、口をひらいた。
「一つだけ欲しいものがあるんですけど、ママには内緒にしてくれますか?」
「またかい?」
「だめですか?」
「いや……だめじゃないけど……」
少し考えて、俊典さんはいいよと答えた。いつものように、低くて優しい声だった。
ごめんなさい、ママ。ごめんなさい、俊典さん。
わたしはこれから少しだけいけない子になります。
「わたし、俊典さんが欲しいです」
「え……」
俊典さんは笑顔を引きつらせたまま、だらだらと汗をかいている。
この顔だけで、答えはわかろうものだ。だからわたしは表現を変える。優しい俊典さんが、絶対に断ることができないように。
「一日だけ、わたしの彼氏になってください。一日だけでいいの。一日だけ、大人の女性みたいに扱ってほしい……それだけなんです」
俊典さんは少し躊躇しているようだった。それでもきっとこの言い方ならこの人は断らない。そんな確信めいたものがわたしにはあった。
自分にこんな大胆なところがあったなんて、わたしは少し驚いている。
大好きなママを裏切って、それでもいいと思えるような、そんな想いがあるなんて。
俊典さんはしばらく額に手を当て思案していたが、やがて観念したように、小さくいいよと呟いた。
***
俊典さんとのデートは、よく晴れたある日曜日。
世界で一番有名なネズミのキャラクターがいる遊園地の、海側のほうに朝から出かけた。
国のほうより海側の方が大人っぽい雰囲気なのだ。大きな船の上でランチをとって、心地よい潮風を感じながら二人並んでショーを見た。
朝から夕方までの時間は、ほんとうにあっという間に過ぎていった。
他の人から見たわたしたちは、いったいどんな風に映るのだろう。
ミドルエイジの俊典さんと、十代半ばのわたし。やっぱり親子にしか見えないのだろうか。
南欧の風景が広がる運河沿いのスペースに夕日が差し込み、とても綺麗だ。
ここはカップル向けの穴場スポットの一つ。点在するベンチには座っているのは、たいていが恋人同士だ。
その一つがあいたので、わたしは俊典さんを促し、そこに二人で腰掛けた。
「疲れたかい?」
「いいえ。とても楽しかったです」
「それはよかった」
安心したように笑う俊典さんに、わたしは今日一番のお願いを口にする。緊張で心臓が口から飛び出そうだ。
「俊典さん」
「なんだい?」
「キスしてください」
「え?」
「今日はわたしの彼氏ですよね。だったらキスして」
「……場所はどこでもいいかい?」
「く……口で!」
俊典さんは答えなかった。
わたしの心臓の音だけがやけにうるさい。
しばらく思案していた俊典さんが、やがて静かに微笑んだ。
「すまないが、それはできない相談だ」
やっぱり。
俊典さんはやっぱりママが一番大事。わかっていたことだけど、涙が出そう。
「これはね、君のママのためだけじゃなくて、君のためでもある」
「嘘ばっかり!」
諭すような声にわたしは反論した。
実のところ、君のような子供は相手にできないと冷たく拒絶された方がずっとましだった。変な気遣いをされるほうがずっとつらい。
「嘘じゃないよ。実際ね、男はその気になれば、愛がなくてもキス以上のことができる生き物だ」
「だったらキスくらいしてくれたっていいじゃない。お願いだから恥をかかせないでください」
「こんなことは恥でもなんでもない。いいか、このみ。私は君をかわいいと思っている。だからさっきも言ったように、しようと思えばキスどころかそれ以上のこともできるよ」
「……」
「でも、しない。『できる』と『する』の間には、大きな隔たりがあるからだ。そして理由は三つある」
「ママを裏切りたくないからでしょ!」
「うん、その通り。まず一つ目、私はゆかりを裏切りたくない」
「知ってます」
「そして二つ目、私は自分のことも裏切りたくない」
「そんなにわたしが嫌なんですか?」
「そうじゃない。これは、私のポリシーの問題。そして三つ目。これが一番大事なことだ」
俊典さんはここでいったん言葉を切って、わたしの瞳をじっと見つめた。
「私は君を裏切りたくないんだよ」
「え?」
「ここで私が君にキスをするのは簡単だ。けれどそうしたら、君は私をどう思うかな」
「どういうことですか?」
「私はおそらく、君の初めてのキスの相手になるわけだ。それはとても光栄なことだ」
わたしには俊典さんが何を言いたいのかよくわからなかった。
「だけどきっと、君は私をいつしか恨むようになる。ママのことを裏切って自分とキスして、平気な顔でいるなんてと。それはまあ仕方のないことだろうけど、問題なのはその後だ」
「そのあと?」
「君は男を信じられなくなる。君とキスしておいて何食わぬ顔でゆかりと暮らす私を見るたびに、君は『男は愛する人を裏切っても平気なのだ』と思うようになるだろう。私は君の男性不信のきっかけになるのはごめんだ」
「そんなこと思わない。だってお願いしたのはわたしのほうなんだもの」
「……そういう思考になるものなんだよ。人はね、そういう生き物なんだ」
そう言ってわたしに優しく微笑みかけた俊典さんは、少し悲しそうだった。
だから、と俊典さんは急に立ち上がり、わたしの前で跪いた。
「私が君にキスできるのは、ここだけ」
俊典さんは大きな右手でわたしの左手を取り、甲にそっと唇を落とした。
これ、昔絵本で見たことがある、騎士がお姫様に忠誠を誓うときにやるやつだ。
「君を女性として愛することはできない。けれど私は全身全霊で君を守るよ」
やられた、と思った。
こんなふうにされてしまったら、もうわたしは引き下がるしかない。
涙が次から次へとあふれ出た。
俊典さんがさりげなくハンカチを渡してくれる。
時折俊典さんが聴いている古い歌謡曲ではないけれど、沈む夕日が目に染みた。
俊典さんが言ったこと、今のわたしには正直よくわからない。けれどいつか、今日の話を理解できる日がくるのだろうか。
理解できたその時、わたしはいくつになっているのだろう。
***
JRとメトロを乗り継ぎ、わたしたちは六本木界隈に戻ってきた。
「今日のデートの締めはここ」
俊典さんが連れてきてくれたのは、オールマイトの事務所からほど近い場所にあるバーだった。細い階段をおりた先にある、地下のお店だ。
こんな大人っぽいところ、わたしみたいな子供が来てもいいのだろうか。
お店の中はやや薄暗かったが、何とも言えない雰囲気があった。
無口そうなマスターがわたしと俊典さんのあいだにキャンドルを置き、それに火をともしてくれる。
ゆらゆらと頼りなげに揺れる炎は、わたしの心情のようで少し切なかった。
「ブラントンをミストで。このみちゃんは、なににする? メニューのソフトドリンクの他にも、ノンアルコールのカクテルを頼めるよ」
俊典さんは前もって、中学生が同行するとことわりを入れてくれていたようだった。わたしは俊典さんではなく、マスターにたずねる。
「あの……ブルームーンってカクテルを、アルコール抜きで作れますか?」
「全く同じとはいきませんが、似た香りで似た色のノンアルコールカクテルに仕上げることはできますよ」
お待ちください、と落ち着いた声でマスターは告げた。眼を細めて俊典さんに向き直る。
「こうしてブルームーンを頼まれると、いろいろ思い出しますね」
「やめてくれよマスター。古い話だ」
からかうようなマスターの言と俊典さんの照れ笑いに、わたしは少し嫌だなと思った。だってきっとママの話だ。
「君のママは手ごわくて、何度口説いても振られてさ。三十分だけの約束でここに来ても、毎回ブルームーンを頼まれて」
ほらね、やっぱり。
でも最初っから両想いだったんじゃない。毎回ママが、ブルームーン……「完全なる愛」を頼んだなんて。
あれ、でもちょっと話がおかしい。ブルームーンで振られるってどういうこと?
「ブルームーンって、完全なる愛って意味ですよね」
「ええとね、ブルームーンのもう一つの意味は、『できない相談』なんだよ。サシ飲みしててバーで女性がブルームーンを頼んだら、その恋には見込みがないってことなんだ」
「そうなんですか?」
「まあ、今どきそんなのを知っている女性は、あまりいないけどね」
数分後、わたしの目前に薄紫色の飲み物がことりと置かれた。
「……綺麗」
「すみれのリキュールの代わりにすみれシロップを使い、レモンジュースで仕上げました。味もかなり似たものになっているはずですよ」
一口飲むとお花の香りが口の中で広がった。紫色の綺麗な飲み物。
これのもう一つの意味が「できない相談」だったなんて。
「君のママとつきあうようになったのは、四年くらい前だったかな。今まで振り向いてくれなかった彼女が、私が精神的に一番参っていた時に、手を差し伸べてくれたんだよね」
そうなのか。四年前に何があったのかは知らないけれど、きっとそこにはわたしの知らない俊典さんがいて、わたしの知らないママがいる。
四年前……わたしはまだ小学生だった。
どうしてわたしは、もう少し早く生まれなかったのか。
どうしてママと俊典さんが出会う前に、わたしが会えなかったのか。
考えても仕方のないことばかりを、ぐるぐる思ってしまうけれど。
と、その時、俊典さんの電話が鳴った。
ごめん、と小さく呟いて俊典さんが外へと出ていく。その細長い姿を見送った。
「お嬢さん、ブルームーンには『できない相談』『完全なる愛』のほかに、もう一つ意味があるんですよ」
「えっ?」
「『叶わぬ恋』です」
落ち着いた目の色のマスターの言に、私は思わず言葉をなくした。わたしの気持ちは、たぶんこの人にも見透かされている。
そういえば、このマスターはママと俊典さんのことを見てきたようだけれど、俊典さんがオールマイトであると知っているのだろうか。
知っていて尚、そこにはっきりと触れずにいるのだろうか。
そして俊典さんも、そこに言及することはないに違いない。
大人とは、黙ったままでも会話ができる不思議な生き物なのだろうか。
わたしはマスターに笑みだけ返して、薄紫色の美しい飲み物をゆっくりと飲み干した。
まずすみれの花の香りが先に来て、その次にレモンの甘酸っぱさが広がる、美味しいけれども不思議な味だ。
ああそうか。
ママにとっては「完全なる愛」だけれども、わたしにとっては「叶わぬ恋」……俊典さんとの関係は、わたしたち母娘にとって、ブルームーンそのものだ。
「マスター。ブルームーンをもう一杯いただける?」
「よろこんで。お嬢さんはきっと、素敵なレディになりますよ」
「ありがとうございます。とても光栄です」
わたしとマスターが微笑みあっているのを、戻ってきた俊典さんが不思議そうな顔で眺めていた。
***
それから数日後のやっぱりよく晴れた日曜、ママと俊典さんはゴシック調の礼拝堂で有名な教会で結婚式を挙げた。
参列者は、ママ側はわたしたち兄妹とママの友達が数人。
俊典さん側はわたしとよく似た個性を持つリカバリーガールと、しゃべる鼠と、俊典さんのお友達の刑事さんと、やたらと口の悪い小柄なおじいさん。
ほんの少しの参列者だけの、内輪だけの小さな挙式。
背の高い俊典さんが、小柄なおじいさんにやたらとぺこぺこしていたのが、とても印象的だった。おじいさんは、ママが入場する際のエスコート役もするらしい。
式が終わったら、リカバリーガールにこれからのことを相談してみよう。回復系の個性でヒーローを目指すには、どうしたらいいのか。
やがて俊典さんが牧師さんに導かれ入場してきた。今日はぶかぶかのオールマイトサイズではなく、スレンダーな身体にあったタキシードを着ている。
細身だけれど肩幅がある俊典さんは、黒のタキシードがよく似合う。
次いで讃美歌をBGMに、小柄なおじいさんに手を引かれたママが入場してきた。
スタイルのいいママは、体のラインがよくわかる細身のマーメイドラインのドレスを着て微笑んでいる。そんじょそこらの女優さんなんか太刀打ちできないくらい、とても綺麗だ。
ああほら、涙もろい俊典さんがまた泣きそうになっている。
すると小柄なおじいさんが、しっかりせんかい!と俊典さんの大きな背中をばしりと叩いた。
イギリス製の大きな祭壇の前で、ママの隣で幸せそうに微笑んでいる人は、わたしが初めて好きになった男のひと。
優しくて、強くて、正しくて、カッコ悪くてカッコいい、わたしのパパだ。
俊典さん、わたしの初恋。
2015.9.13
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