今日、わたしは俊典さんと二人で夜を過ごさねばならない。
ママは今朝一番の便で、沖縄に旅立った。お友達の結婚式に出席するためだ。距離も距離なので、帰宅は明日の夕方になる。
外は何年かぶりの強烈な春一番。
ママは朝一で発って正解だった。午後からの羽田発の飛行機は、おおむね欠航になってしまったのだから。
胡蜂は昨日、友人一家に招かれてお泊まりに行った。
先ほどそちらの保護者から、「強風がおさまるまでうちでおあずかりします」と連絡があった。俊典さんは恐縮しながら「お言葉に甘えさせていただきます」と答えていた。
胡蜂はこのくらいの風、大丈夫なんじゃないかと思うけど、あちらのご両親も、この強風のなか中学生を帰宅させるのは心配なのだろう。
「ごめん、このみちゃん。今夜は私と二人になってしまった」
「ヨロシクオネガイシマス……」
俊典さんと二人っきりだなんて、嬉しいんだけどすごく緊張する。
晴れ渡った空と同じ色をした瞳と視線がからんだ。へにゃりと笑まれたが、俊典さんも緊張しているということが、なんとなく伝わってきた。
動揺を隠そうとしてわたしも俊典さんに笑い返したが、うまく笑えたかどうかはわからない。
***
変に意識をしてしまったせいか、今日はぜんぜん俊典さんと話せない。
まだ八時だというのに、お風呂も夕飯も、その片付けすらも済ませてしまった。
お互いに緊張しすぎて、やらなくてはいけないことをガンガン片付けていった結果だ。ゆえに時間がたくさん余ってしまった。こういう時、どうすればいいのだろう。
「俊典さん、映画でも観ませんか」
「いいね」
わたしの提案に俊典さんはほっとしたように笑った。
各自で飲み物を持参して、シアタールームに向かう。
俊典さんは映画が大好き。ミニシアターも真っ青の映像機器と防音設備がばっちりのこの部屋は、俊典さんの自慢でもある。
映像媒体もレンタルショップ並みにそろっているのだから驚きだ。
好きなものを選んでいいよと言われたのに、てんぱったわたしはろくに中身を確認もせず、一番近くの棚にあるものから適当な一本を選んでしまった。
***
「わああああああああ!!」
絶叫がシアタールーム内に響き渡る。この部屋が防音で本当に良かった。
それにしてもこの選択は本当に失敗だった……
なぜわたしはこの映画を選んでしまったのだろう。そして何故このひとはこの映画を保管していたのだろう。
先ほどの絶叫はわたしのものではなく、隣でがくがくと震えている金髪碧眼のおじさんから放たれたものだ。
細長い腕で大きなクッションをしっかり握りしめている姿は、おかしいを通り越して泣けてくる。
わたしが適当に選んだのは、有名なホラー作品だった。
テレビの中から髪の長い女の人が出てくるあれだ。
「……俊典さん、怖がりすぎですよ」
「は? こ……こわいわけ……ないじゃないか……」
俊典さん。声、裏返ってますよ?
普段あんなに落ち着いた低い声なのに、1オクターブくらい高い声になっちゃってますよ?
それにしてもホラー映画ごときで、こんなに怖がる大人を始めて見た。
わたしもホラーは得意じゃないけれど、このひとほど苦手ではない。
切れている人を見ると冷静になれるというけれど、ガチで怖がっている人を見ると、こちらもすっと冷静になる。
「うわあああ!」
俊典さんが何度目かの叫び声を上げながらクッションを放り投げた。
モニターから女の人がずるりと出てくる一番有名なシーンにさしかかったのだ。
そして次の瞬間、家じゅうの電気がばちりと消えた。
「きゃっ?!」
「うわあああああああああ!!」
さすがにわたしも驚いた。
よりによって、一番怖い場面で電気が消えるとはどういうことなのだろう。
けれど自分がとてつもなく大きな何かにしがみつかれていることに気づいた時、恐怖心がぱたりと消えた。
俊典さんがわたしにしがみついている。さっきクッションを放り投げたからだ。パニック状態のまま、手近にいた何かにしがみついたに違いない。
ああ、それにしても。
どうしよう。口から心臓飛びでそう。
それからどれくらい時間がたったのか。たぶんほんの数秒だろうけれど、わたしにはとても長く感じられる時間が流れた
「……」
「……」
「これはさ……たぶん……強風による停電だね」
「……みたいですね」
そして自分がしがみついているものの正体にやっと気が付いたのか、俊典さんがとびのいた。
「あっ、ごめん」
「大丈夫です。怖かったらそのままでもいいですよ」
「そういうわけにはいかないよ。……それに私は怖くないからね」
はははと笑う声に力はない。
もう、嘘ばっかり。
*
部屋に懐中電灯の明かりがひとつと大きなキャンドルが二つ。
なんだかちょっとロマンチックだ。
冷たく強い風のふく嵐の夜だ。暖房も切れてしまうとやっぱり寒い。
しかたなく、一人一枚ずつの毛布にくるまって話をする。
「もうさ、このまま自分の部屋に戻って寝ちゃう?」
「真っ暗の中……一人にされるの、怖いです」
「だよね。じゃあ電気が回復するまでこのままでいようか」
「はい」
「まあ、眠かったら寝ちゃって。そばにいるから」
「はい」
わたしは嘘をついた。本当はたいして怖くなんかないのだ。
だってもう少しこうしていたい。
「ただね、これ以上風が強くなるとまずいんだ……」
「えっ?」
「出動要請が来るかもしれない」
そう俊典さんがぽつりとつぶやいた。
ああ、やっぱりこのひとヒーローなんだ。
どうして身内にまで隠しているのかはわからないけれど、なにか事情があるのだろう。
そして職業柄、出動要請に従うのは当然のこと。
小さな子供ならまだしも、この春中3になるわたしが行かないでというのも変な話だ。
「要請がかかったら仕方ないですよね」
「……うん……」
停電自体は少しして回復した。
だがそれと同時に、俊典さんの端末が鳴り響いた。
春一番による竜巻で、橋梁上を渡る電車が脱線したという。大事故だ。
東京に竜巻が起こるのは珍しいことだ。けれど何十年も昔のことだが、ある沿線上でやはり同様の災害が起きたと聞いたことがある。
橋梁の途中で春一番による竜巻に煽られた電車の数両が脱線し、うち2両が転覆した。その時死者は出なかったそうだが、今回はどうかわからない。
これはひとりでも多くの職業ヒーローの手が必要だろう。
「ごめん。私、救助に行っても大丈夫かな?」
「はい。すぐに行ってください。たくさんのひとが助けを待ってる……」
「ありがとう」
俊典さんが自室にコスチュームを取りに走った後、我に返ったわたしは急に心配になった。
拉致された私たちを助けてくれた時の俊典さんはそれはそれは強かったけれど、それでもその後血を吐いていた。
あんなに細い身体で、ヒーロー活動なんかできるのだろうか。
***
「じゃあ、行ってくる」
目前に現れた巨大で細長いテルテル坊主に、わたしは絶句した。
首から下がすっぽりとマントに包まれていて、コスチュームがまったく見えない。
よくみるとマントの右端と左端が中央でとめられている。とめているのはいくつもの安全ピンだ。
俊典さんは上背があるが痩せているので、そうすると体がすっぽりマントで覆われてしまうのだ。
こんな姿で活動できるわけがない。
どうしてコスチュームまで頑なに隠そうとするのだろう。秘密主義にもほどがある。
それから俊典さん、それ、すごくカッコ悪いから。
「ちゃんと鍵をかけておくんだよ。チェーンも忘れずにしっかりかけてね」
俊典さんはテルテル坊主状態なので腕が出せない。苦心しながらそれでも何とか玄関の扉を開け、風の中へと出ていった。
あのままではろくに身動きもとれないだろう。きっとすぐに安全ピンを外して、マントを広げるはずだ。
そう思ったわたしは、リビングのカーテンに隠れながら、そっと外の様子をうかがった。
俊典さんは庭の真ん中に立っていた。我が家の庭は少し変わったつくりだ。
中庭的とでもいえばいいのだろうか。コの字の建物で庭をぐるっと囲った感じ。
開いている部分には高い塀がめぐらされている。広さが結構あるので日当たりは悪くないのだが、外から庭の様子は一切見えないようになっている。
その庭で、俊典さんはこちらに背を向けてマントについていた安全ピンを一つずつはずしていた。
ほら、やっぱりカッコ悪い。
最後の安全ピンが外されて、強風にあおられたマントが大きく翻った。
隠れていたのは、青を基調にした見覚えのあるコスチューム。
そこで私は信じられないものを見た。
俊典さんの細い身体が一気に膨れ上がったのだ。
力なく垂れ下がっていた前髪が天に向かって立ち上がり、薄く骨ばった体が鎧のような筋肉で覆われる。
後姿でもすぐわかる。この国で彼を知らない人間はいない。
「オールマイト!?」
思わず大きな声が出た。強風のせいで聞こえるはずはないのだが、オールマイトが振り返った。
ばちりと目が合い、互いに硬直すること数秒。オールマイトの額からは、大量の脂汗。
我が国一の英雄は大慌てで家の中に戻ってきた。
「………………………見た?」
「……はい……」
「あのさ、これ、他の人には内緒にしておいてくれる?」
「ママは知ってますか?」
「あ、うん。彼女は知ってる」
「……じゃあ、わたしが知ってしまったことをママに言わないでいてくれるなら、誰にも言いません」
「いいけど……それに意味はあるのかい?」
オールマイト……俊典さんは少し不思議そうな顔をした。
だよね、きっと俊典さんにはわからない。
「じゃあこんどこそ行ってくるね」
俊典さんはそう言い残して、救助現場へと飛び立っていった。オールマイトが行ったのだもの、きっと現場は大丈夫。
オールマイトの存在が、どれだけ人々の救いになるか。
俊典さんがオールマイトだったなんて、驚いたけれど、なんだか納得できるような気もした。
おばけが怖いオールマイトとわたしは、今日、ママに秘密を持った。
つまらないことかもしれないけれど、わたしにとってそれはとても特別なこと。
ママが知らない、俊典さんとわたしだけの秘密。
2015.9.6
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