アメリカンルーレット

 しとしととしめやかに雨が降る。夜の麻布に雨が降る。

 こんな雨の夜は、別れた男のことを思い出す。
 あれからもう五年も経つというのに、あれだけ酷いことを言われたのに、それでも柚希は男のことを忘れることができない。
 男のことを恨んでいるのか、憎んでいるのか、それともまだ未練があるのか。この気持ちはもう恋ではない。おそらくはただの執着だ。

 のめりこんでいたのは自分だけで、男の方はただの遊びだった。
 その証拠に、柚希は男の年齢も、本名すらも知らない。
 男はヒーローを生業としていた。生まれながらのヒーローである私に本名などない、男はいつもそう言っていた。
 別れた男は、ヒーロー名をオールマイトという。

***

 甘苦い思い出をかみしめながら、柚希は元麻布の閑静な住宅街を歩いていく。四月の雨はまだまだ冷たい。アスファルトに弾けた雨粒が、対向車のヘッドライトに反射してきらりと光った。

 柚希の足はかつての恋人と別れた場所に向かっていた。
 あれから五年、もういいかげん忘れなくてはならない。だからこれは儀式のようなものだ。
 今夜、思い出の残る場所を訪れて、この気持ちに整理をつけよう。雨の降るこの街で、あのひっそりとした隠れ家のようなバーで。

 六本木ヒルズから有栖川宮記念公園方面に向かう途中の元麻布の住宅地に、その店はあった。小さな立て看板がなければ、普通の一軒家にしか見えない外観。
 広尾に住んでいる柚希と、六本木に住んでいるオールマイト。互いの住まいのちょうど中間地点にあたる位置の、知る人ぞ知る隠れ家バーだ。
 当時の客層は、土地柄のせいか外国人や業界人が多かった。オールマイトがいるからといって騒ぎたてるものはいない。有名人が多く住まうこの街に慣れた、大人ばかりだった。

 オールマイトはいつもバーボンを飲んでいた。アメリカンな彼らしい選択だと思う。
 柚希はいつも、シャンパンをグラスで頼んでいた。
 こじゃれたカクテル名がよくわからないせいでもあったし、自分にはそのような酒が似合わないような気がしたからだ。それでも精一杯背伸びをしての選択だった。

 思い出をふりかえりながら、白銀の雨が降りしきる住宅街を歩くこと数分。柚希は小さなバーにたどり着いた。
 重たいオーク材の扉を開けると、薄暗い礼拝堂のような空間がひろがる。酒場なのに厳かな雰囲気のある、不思議な店。
 左側の一番奥にあるテーブル席に、いつもふたりは陣取っていた。
 小さな二人用のテーブルには不似合いな、体の大きいオールマイト。彼はその広い背中を丸めるようにしてテーブルに肘をつき、柚希に偽りの愛をささやいたものだった。

 水曜の夜だと言うのに、店は混んでいた。昔と変わらず外国人の客が多い。カウンターの中には無口なマスターと若いバーテンダー。昔はマスター一人で切り盛りしていたのに、新しい人をいれたのかとどうでもいいことをぼんやり思った。
 空いているカウンター席に座り、昔のようにグラスでシャンパンを頼む。柚希のことを覚えていたのだろうか、こちらを見たマスターが軽く眉を上げた。

 思い出す、思い出す。五年前を。

 五年前のある日、いきなりオールマイトと連絡が取れなくなった。
 ひと月以上連絡を絶たれ、やっと会えたその夜に別れを切り出された。
「君みたいな普通の女性に、この私が本気になるとでも?」
 これが彼の最後の言葉だった。
 向こうは遊びだったのだ。女優やモデル、いわゆる美貌の女性たちに飽きた英雄が、お堅い職業のさえない女に手を出した。それだけのこと。
 あの時のオールマイトは別人のようだった。冷ややかな目、冷ややかな口調。

 軽くため息をついて二杯目のシャンパンを頼んだその時、薄い茶色の髪をした外国人が隣の席に腰掛けた。先ほど右端に座っていた男のようだが、なんのつもりだろうか。

「そのシャンパンをわたしに奢らせてもらえませんか?」

 面倒な、と柚希は思った。
 いわゆるナンパだ。女ひとりでこうした店にいると、男をあさりに来た女だと思われることがある。
 六本木界隈には、外国人男性との一夜のアバンチュールを目的にバーを訪れる若い女たちがいるという。その種の女だと思われたのかもしれない。
 声をかけてきた男はきれいな顔立ちをしていた。流暢な日本語を操り、女性の扱いに長けているようす。
 柚希がそういう目的でいるのなら、うってつけの相手だったろう。
 けれど、悪いが男はまにあっている。

「ありがとう。でも自分の飲む分は自分で払うわ」
「そんなこと言わないで。シャンパンも美味しいけれど、ルシアンというカクテルもお勧めですよ」
 
 意外に面倒な相手かもしれない。
 ルシアンはレディキラーと呼ばれるカクテルだ。ウオツカとジンの強さをクレームドカカオで隠しているため口当たりがよく飲みやすいが、アルコール度はなかなか高い。

「いいえ、けっこうよ」

 外国人の男にやんわりとした拒絶はきかない。だから強い口調でぴしゃりと告げた。
 だが、それでも男は口説くのをやめない。
 カウンターの中をちらりと見やる。
 この店のマスターはこういう輩を静止してくれるタイプのバーテンダーだったはずだ。だが頼りのマスターの姿がみえない。若いバーテンダーは困ったような顔をしてこちらを見ているだけだ。
 そのうちに、肩に手を回された。まずいと思ったその時だった。

「失礼。彼女は私の連れだ」

 腹に響く低音と共に、細い腕が柚希の肩に置かれていた手を引きはがした。
 驚くくらい背の高い男性だった。古武術でもやっているのか、それともそういう個性の持ち主なのか、枯れ枝のように細い腕なのに柚希を口説いていた男は身動きが取れないようすだった。

「悪いが別の席に移ってもらえるかい?」

 ひょろりとした男がそう言って手を離すと、柚希を口説いていた男はすごすごと退散した。
 もともとこうしたタイプの男は、女性をひっかけることだけが目的だ。口説いていた女に連れがいるとわかると、拍子抜けするくらいすんなり引き下がる。

「ありがとうございます」

 救ってくれた男性に礼を言い、その肉の薄い顔を仰ぎ見た瞬間、柚希は凍りついた。
 二メートルを軽く超える長身、青い瞳に金色の髪。
 嫌な予感に震えながら、柚希は痩せた男を凝視する。

――オールマイト――

 枯れ木のような細い手足、薄い胸板、薄い肩。肉の削げ落ちた頬、落ち窪んだ眼窩は、濃い眉が目立たなくなるほどの影を作っている。シャープな顎に、喉仏と鎖骨が大きく浮き出た首筋。力なく垂れ下がった前髪。

 かつて、否、現在もモニターの向こうでいつも豪快に笑う平和の象徴。そのヒーローとは似ても似つかない姿。だが、目の前の骸骨のような男は、間違いなくオールマイトだ。柚希にはわかる。

 柚希の個性は復元眼。
 それは物や人の、在りし日の姿が視えるというもの。
 たとえば白骨死体を視れば、被害者の生きていたころの外見がわかる。現場に残された遺留品のかけら一つでも、元の形がわかる。
 それだけでなく、時間の経過で変わってしまった容貌であっても、視ようと思えば若いころの姿や幼いころの容姿を知ることができる。
 この個性を生かして、柚希は警視庁の鑑識官をしている。個性を『武』――すなわち戦闘――に使うことはヒーローにしか許されていないが、こうした『文』――いわゆる調査――の部分での使用はある程度許可されている。

 オールマイトと出会ったのは、柚希がまだ鑑識官ではなく、所轄のヴィラン対策係に任命されたばかりの頃だった。もう六年以上も昔のことだ。
 ある事件で知り合い、解決後、食事に誘われたのがきっかけだった。
 当然のことながら柚希は舞い上がった。オールマイトに誘われてその気にならない若い女など、そういない。
 オールマイトは紳士的で洗練されていて、そしてなにより優しかった。
 互いの仕事柄、彼との付き合いは内密にしなくてはいけなかったが、それがますます燃える想いに拍車をかけた。

 柚希は、オールマイトに夢中だった。

 かつて自分を夢中にさせ、手ひどく振った男が目の前にいる。
 別人のように萎み衰えた、変わり果てた姿で。

「どうして……」

 思わず口からこぼれ出た声は自分でも驚くほどに弱々しかった。

「おせっかいとは思ったんだけど、困っているように見えたから」

 どうしてという言葉の意味を取り違えたのか、オールマイトがそう答えて微笑んだ。
 失礼、と呟いて彼は柚希の隣のスツールに腰掛ける。昔と変わらない、流れるような無駄のない動きだった。

「助かりました。しつこくて困っていたんです」

 まったく大人として生きるという事は、やせ我慢の連続だ。
 あれほど執着し続けた相手の変わり果てた姿を目の当たりにしても、本人と気づかぬふりをしながら微笑み、言葉を交わさなくてはならないのだから。

 痩せた元恋人は、昔と同じブラントンという銘柄のバーボンを、昔とは違いミストでオーダーした。

 バーボンは主にケンタッキー州で生産されているアメリカンウイスキーの一種。
 主原料を発酵させた後蒸留し、焼き焦がしたホワイトオークの樽にそれを詰めて熟成させる。熟成の過程で焦げた樽の色と匂いが中の液体に移るので、バーボンは独特の芳香と癖を持つ。
『だから、氷や水で薄めたりしたら美味しくなくなるんだ』
 いつもそう言っていたのは誰だったのか。
 柚希は少なからずショックを受けていた。あれほど飲み方にこだわっていたオールマイトともあろう者が、大量のクラッシュドアイスに酒を注いだミストとは。

 運ばれてきたバーボンのミストを、オールマイトが柚希に向かって軽く掲げた。つられて柚希も二杯目のシャンパンを掲げる。

 その大きな手の中にかつて納まっていたのは、ロックグラスではなくストレート用のショットグラスだった。
 グラスの真上を人差し指、中指、親指の三本だけでつまむように持ち、軽く手首を返してバーボンを嗜む。それがオールマイトの飲み方だった。
 だが今は違う、大き目のロックグラスに、山と盛られたクラッシュドアイス。そして溶けた氷で薄まってしまうであろうバーボン。
 少し意地悪を言いたくなって柚希はオールマイトに話しかけた。

「ミストはバーボンには向かない飲み方じゃないかしら? すぐに薄まってしまうし、どちらかといえばブレンデッドウイスキーに向いた飲み方ですよね」
「詳しいね」

 いきなり話しかけたにも関わらず、オールマイトが少し嬉しそうに眼を細めた。

「昔、バーボンの飲み方にうるさいひととつきあっていたことがあるんです」
「飲み方はいろいろだよ」
 
 軽く笑みながらオールマイトが続ける。

「私は胃袋がなくてね。飲み物や食べ物が、すぐに腸に届いてしまうんだよ。その為アルコールが回るのもとても早い。チェイサーをつけてもストレートではとても飲めない。だから酒を楽しもうと思ったら、自然とこういう飲み方になるのさ」

 胃袋がないってどういうこと、と聞こうとした瞬間、オールマイトが吐血した。
 いつのまにか持ち場に戻ってきていたマスターが、お使いください、とオールマイトにおしぼりを手渡す。血を吐いた当人も、ありがとうとだけ返して血を拭い取った。

「…大丈夫ですか?」
「ああ、気にしないでくれたまえ。よくあることなんだ」

 馬鹿な、と、柚希は心の中で叫んだ。
 血を吐くなんて大変なことだ。それに異様ともいえるこの痩せ方。いったいこの人になにがおきたというのだろうか。
 オールマイトと付き合っている頃、若い頃や子供の頃の姿を、個性を使ってこっそり視たことがあった。けれどここまで痩せた姿は、一度も視えたことがない。
 ということは、会わないでいたこの五年の間になにかがあったということだ。

「病気かなにかで?」
「五年前に、ちょっとね」

 五年前、とオールマイトの言葉をおうむ返しして、柚希は愕然とした。
 ちょっとの怪我や病気で、胃袋をすべて摘出したりするものか。

 空調が効いているはずなのに、身体がどんどん冷えてゆく。嫌な想像が頭をよぎった。
 連絡がつかなくなったあの頃、どれだけかけてもつながらなかった携帯。いくら送っても、既読がつかなかったメッセージ。
 あれは無視されたのではなく、電源を入れられるような状態ではなかったのだとしたら。

 そして、そのあとすぐにオールマイトに別れを告げられたのは、それが原因であったのか。
 自分に都合のいい妄想に囚われかけたことに気づいて、柚希は軽く頭を振った。そんなわけはない。オールマイトは遊びだったとはっきり言った。

「ところで、君はこういう店にしょっちゅう一人で来るのかい?」
「それに答えなくてはいけません?」
「いや、答えを強いるつもりはないよ。ただ女性が一人で酒場にいると、声をかけてもらうのを待っていると思い込むような男もいるんだ。できればやめた方がいい」
「大きなお世話……って返してもよくって?」
「まあ、そうだろうね。君、恋人はいないのかい?」

 どきりとした。
 柚希には三つ年下の恋人がいる。キャリア官僚で、捜査一課の管理官をしている彼とは、言うまでもなく仕事がらみで知り合った。付き合ってまだ半年程度だが、あまりうまくいっていないように思う。
 その理由を柚希は自覚していた。彼と一緒にいるとそれなりに楽しい。でも、それだけだ。
 オールマイトとつきあっていたときとは何もかも違う。彼のことを考えただけで胸が弾むような、声を聞いただけで涙ぐむような、切なくも幸せな感情を抱くことができない。

「彼氏はいます」
「だったら尚更やめたまえ。彼はきっといい気持ちはしない」
「わたしの彼がどう思おうと、あなたには関係ないわ」

 少し腹立たしかったので、思わず昔の口調で答えてしまった。オールマイトは頓着しない様子で淡々と続ける。

「それはそうだがね、やはり彼は心配すると思うよ」
 
 心配という言葉が柚希の心に小さな波を起こした。
 あなたはどうなの、オールマイト。

「ではこういうのはどう? あなたと一緒に飲むの」
「私と?」
「そう、あなたと」
「君、恋人がいるんだろ」
「あなたにもいるでしょ」
「私はいないよ。五年前に最後の恋人と別れてからはずっとフリーさ。これからもずっとそうだろうな」

 最後の恋人。ずっと一人だった。
 この二つのワードが柚希の心に生じた小さな波を大きなものにした。
 五年前別れた最後の恋人は、いったい誰? 
 思わず声がうわずる。

「どうして一人でいるの?」
「それは答えなくてはいけないことかい?」

 先ほど自分が放ったのと同じ言葉が返ってきて、柚希は押し黙った。

 ああ、でも。けれど。
 柚希の頭の中に、一つの考えが浮かんだ。

 柚希がオールマイトの本名や年齢、そして個性についてなにも知らなかったように、オールマイトも柚希の個性について知らない。
 わざわざ明かすような個性でもなかったし、警察官の個性については、いくつか面倒な規約があった。
 だからオールマイトは、柚希がその正体に気づいているとは思っていないだろう。

「いずれにせよ、お互いに恋人がいたとしてもあまり関係ないわ。男と女の関係にならなければいいだけでしょう?」

 賭けをしましょうオールマイト、と、胸のうちでつぶやいた。
 もしもオールマイトが五年前の自分を愛していたのなら、こちらの勝ち。
 もしもオールマイトがこのままに興味を示さなければ、こちらの負け。

「わたし、また来週の水曜にここにくるわ」
「私はなにも約束する気はないよ」
「そうね。あなたがわたしに会う気がなければ、来週の水曜はここに来なければいいことだわ」
「さっきみたいな男に、また声をかけられても知らないぞ」
「そうしたら、そのひとと楽しくお話でもして帰るわ。ルシアンでもロングアイランドアイスティでも、いっそのことアースクエイクでも飲みながら」

 オールマイトがぎゅっと眉根を寄せた。アースクエイクはアルコール度数が40パーセントを超える酒。その強さは他のカクテルの比ではない。

 ルーレットが回り始めた、と柚希は心の中でひそかに微笑む。
 柚希は「来る」にすべてのチップを賭けた。
 オールマイトという名のボールは「来る」のポケットに入るのか、それとも「来ない」のポケットに吸い込まれるのか。

「No More Bet」の声と共に、ベルの音が二回鳴る。
 それは賭けの、始まりの合図。


2015.6.17
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月とうさぎ