レインドロップ

 月の見えない曇った夜空の下で軽く深呼吸をしてから、柚希は隠れ家バーの扉を開けた。時刻は九時ちょうど。
 そう広くはない店内はやや薄暗く、どこか礼拝堂を思わせる。その一番奥のテーブル席に金色の髪をした背の高い男が座っていた。小さな二人掛けのテーブルの上に肘をつき、薄いが大きな背中を窮屈そうに丸めて。
 とりあえず一勝、と、柚希は心の中で密かに笑んだ。

「来てくれたのね」
「暇だったからね」
「ありがとう。嬉しいわ」

 心からの笑みを返すと、不機嫌そうにしていたオールマイトがきまり悪そうな顔をした。いたずらを見つけられた少年のような顔。
 このひとこんなに可愛かったんだと、少し驚く。柚希はオールマイトの大人の顔しか知らなかった。

 スカートに皺がよらないよう注意しながらスツールに滑り込んだ。軽くマスターに会釈して、柚希はシャンパンをグラスで注文する。

「シャンパンが好きなんだね。この間も頼んでいただろ」
「ええ、そうね。こういったバーではいつもこれで通してるわ。あなたも前と同じ?」
「いや、今日はブッカーズ」
「ブッカーズ?」

 初めて耳にする銘柄だった。
 かつてのオールマイトは、ブラントンのストレート・フロム・ザ・バレルばかり飲んでいたから。

「興味あるの?」
「えっ?」

 一瞬、別のことを尋ねられたのかと思い、心臓が跳ね上がった。酒のことをきいたのだろうに。動揺していたので答えた声が裏返ってしまった。
 オールマイトがくすりと笑って飲んでみる?とグラスを掲げる。まったくこのひとは、昔から人の心を掴むのがうまい。
 まんまと動揺させられたこととそれを見透かされたことを悔しく思いながら、クラッシュドアイスでいっぱいのグラスを受け取った。

「飲む時に気をつけろよ、それのアルコール度数は64だ」

 くだけた口調にどきりとした。
 かつてオールマイトは、ときたまこういう話し方をした。普段の紳士的な口調が崩れるたびに、それだけ自分に心を許してくれているのだと嬉しくなったものだ。
 自分の中に生じた甘苦い思い出の泡をそっとふりはらい、ブッカーズのミストを一口含む。とたん、花のように豊かな芳香が広がった。高いアルコール度数を感じさせぬ、どこまでもなめらかな口当たり。

「美味しい」

 だろう?と言わんばかりにオールマイトが笑んだ。
 こういった時の笑い方は、別人のような姿になってもやっぱり変わらない。柚希は少し切なく思う。
 柔らかくて人を包み込んでしまうような、人をとりこにするような笑みだ。

 つい、と、柚希の目の前にグラスのシャンパンが置かれた。この店のマスターは無口だが、こういうタイミングの取り方がとてもうまい。
 金色の液体の中に浮かび上がるきめ細かい泡を見つめてから、柚希はシャンパンを一口飲んだ。

「ところで、君はここに来ることを恋人になんて言っているんだい?」
「別に何も言っていないわ」
「それはよくないんじゃないか?」
「この一週間彼とは会っていないし、連絡もひかえているから」
「え?」
「彼は忙しいひとなの。毎日の帰宅は深夜を超えるわ。連絡が来ない週もあるのよ」

 これは本当のことだ。三十歳前に警視にまで出世するキャリア官僚の忙しさは、一般人が考える公務員の勤務状況とは大幅に異なる。
 しかしこの返答が気に入らなかったのか、オールマイトが眉間に皺を寄せた。不思議だと柚希は心の中でひとりごちる。
 つきあっていたころは笑顔しか見たことがなかったのに。笑っていなかったのは、あの最後の夜だけだったのに。
 この痩せたオールマイトはいろんな表情をもっている。改めて彼の知らなかった部分を見た気がした。五年前は気が付かなかったことだ。
 互いを隔てた月日に柚希が大人になったのか。
 それとも今見せている姿こそが、オールマイトの真実であったのか。

 柚希の心情には気づかぬ様子でオールマイトが問うてきた。

「それで君たちは大丈夫なのか?」
「あなたに関係ないでしょう」
「たしかにそうだが、もしかして君は、彼とうまくいっていないからこういうことをしているのかい?」
「いいえ。うまくいってるわよ。至極順調。だからその辺はもう放っておいてもらえる?」
「オーケー。もう干渉しない」

 これは嘘だ。それでもオールマイトに対しては見栄を張りたい気持ちが働いた。自分はなんというくだらない女なのだろうか。
 けれど思惑通り、オールマイトは肩をすくめて答えてくれた。昔とかわらぬアメリカンな仕草で。
 
 そのあとはあっという間だった。オールマイトは相変わらず会話がうまい。気がつくと二時間近くが経過していた。

「さて、私はもう帰るよ」

 たとえ特定の人がいなくても、おそらくオールマイトは、女性に不自由してはいないだろう。だからこうして、去り際もスマートなのだ。
 柚希はそこに一抹の寂しさと嫉妬を覚えた。別れた相手に執着して嫉妬までする、どこまで未練がましいのかと自分で自分が嫌になる。

「早いのね」
「ミストとはいえブッカーズを飲んだんだ。もう限界だよ」

 まだ余裕のありそうな顔でオールマイトが笑んだ。だが、早いとは言ったものの、明日を思えば柚希もそろそろ帰路につきたいところだ。

 結局、何がしたくてここに来たのだろう。
 自分がかつて愛されていたかどうかなど確認して、いったいどうなるというのか。五年も前に終わった恋を取り戻すことなど、絶対にできはしないのに。
 オールマイトが今夜ここに来た。もうそれだけでいい。もうこれで終わり、ここには来ない。
 柚希はそう自分に言いきかせながら、スプリングコートに袖を通した。

 春先の夜風はまだまだ冷たい。店を出ると同時に、シフォンのストールで首元を覆った柚希の瞳を覗き込むようにして、オールマイトが屈みこんだ。
 なにと身構える柚希にそれじゃあと笑いかけて、長身痩躯の男はくるりと背中をむけて歩き出す。
 見上げるほどの長身に薄手のトレンチコートをまとったその後ろ姿は、つい見惚れてしまうほど凛とした雰囲気を漂わせていた。

 六本木方面に消えたオールマイトの後姿を見送って、柚希も広尾方面に向かって歩き出す。
 見つめられた時、昔のように送っていくよと言ってもらえるのかと思ってしまった自分が悲しかった。
 街の明かりに反射した白銀の雨粒は涙が出そうなくらい美しく、柚希はそっと目をふせる。

 今日はあまりいい日ではなかった。
 復元の個性と言っても、自分だけが視えているというだけで、実際に復元してみせる能力はない。
 犯人を推理するのには重宝されるが、詳しいことは科捜研の鑑定結果を待たねばならない。
 また直接その対象を視ないことには、かつての姿を視る知ることはできない。
 写真や映像ではだめなのだ。オールマイトがあんな姿になってしまった事を最近まで知らなかったのもそのためだった。

 なのに、今日、一課の刑事に容疑者の写真を見せられた。整形しているかどうかと聞かれたが、視えないとしか答えられなかった。
 おそらく捜査が頓挫しているのだろう。焦りもあったのかもしれない。さんざん嫌味めいた言葉を吐かれた。
 向こうには向こうの事情があるのだろうが、やはりやりきれない気分にはなる。

 ため息をつきながら帰り支度をしていると、同僚が今日飲みに行かないかと声をかけてきた。落ち込んでいたのを察してくれたのだろう。

 柚希はちらりと腕時計を眺める。時刻は八時半。
 霞が関から六本木までは地下鉄で約五分。六本木から元麻布まで歩いて十分強ほど。今から化粧を直しても、九時には充分間に合うはずだ。
 本当にわたしは、と、柚希は心の中でため息をつく。

 結局のところ、行くまいと心に決めたにも関わらず、あれから何度もオールマイトと会ってしまっている。

 オールマイトは名前を聞かない。柚希もオールマイトの名前を聞かない。
 「君」と「あなた」だけで続けられる会話。
 互いの距離は縮まらないが、ぎこちないわけでもない。毎週水曜に会い、他愛のない話をして、酒を一杯飲んで別れる。ただそれだけ。
 ここ二か月は、多忙なキャリア官僚の彼と会うよりも、オールマイトと会う回数の方が多くなってしまっている。
 そしてまずいことに、今の彼といるよりもオールマイトといるほうがずっと楽しい。この関係がどれだけで不毛でいびつであるか、ほかでもない柚希自身が一番よくわかっている。けれど会わずにはいられない。

 柚希は同僚に向かって微笑んだ。断りの言葉を頭の中で選びながら。

***

 隠れ家のような静かなバーで、柚希はシャンパンをグラスで頼む。
 小さなテーブル席で窮屈そうに座っている男は、バーボンのミストをゆっくりと傾ける。
 いつものふたりの光景だ。だが次の瞬間、柚希が硬直した。

 オールマイトが、暑いねとシャツの袖をまくり上げたからだ。その骨ばった腕の細さにも驚いたが、それだけではない。
 まくり上げられた手首にまきつく、腕時計が目についた。
 アメリカ海軍特殊部隊御用達がキャッチフレーズの、質実剛健な国産の腕時計だ。黒い樹脂製のバンドにごついチタンのベゼル、黒い文字盤に銀色の針のクロノグラフ。
 これはオールマイトの誕生日に、柚希がかつて贈った時計だ。
 価格は二万程度だったと思う。東京駅の本店で、さんざん悩んで選んだ品だ。
 当時の柚希にとってはすごい金額のプレゼントだった。
 しかしあれから五年以上経った、今ならわかる。
 オールマイトの収入や立場を思えば、スイス製の高級時計でも愛用するのが妥当なところだ。本人が普段身につけているものとの釣り合いも、そちらのほうがとれるだろう。
 それでも当時のオールマイトはありがとうと喜んでくれ、私服の時もスーツの時も着用してくれていた。

 柚希の視線に気づいたのか、オールマイトが左手を軽くあげた。

「なに? 時計?」
「ええ。あなたのスーツにはちょっと合わないんじゃないかと思って。もしかしていつもそれを?」
「これはいただきものだから」

 オールマイトが大切そうに時計を撫でたのを目の当たりにして、泣きそうになった。愛おしそうなその表情が、ひどく心に突き刺さる。
 捨てた女が贈った物を、どうしてこのひとはこんなに大事そうに身につけているのだろう。

 それでも嬉しかった。嬉しくて、切なくて、悲しくて。もう泣きたいのか笑いたいのかわからない。
 様子がおかしいことを心配したのか、オールマイトが柚希の顔を覗き込んだ。

「君、大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫よ。昔同じものを人に贈った経験があったから、それを思い出しただけ」
「……そうか」

 覚えがあるのだろうに、何事もないように答えてオールマイトがバーボンを一口ふくむ。
 ごめんなさいと小さくもらして、柚希は化粧室へと逃げ出した。

 化粧室の照明は店内に比べるとやや明るかった。この店が明るい居酒屋などでなくてよかった。明るいところで見られたら気づかれてしまっただろう。この眼が真っ赤になっていることに。

 鏡の前で軽く粉をはたきなおして、口紅を塗りなおした。マスカラがよれていないか確認し、柚希はちいさく息をついた。
 もう本当に潮時だ。今日で決着をつけよう。これ以上こんなことを続けても、不毛なだけだ。

 オールマイトは変わらない表情で、しずかに喉を潤していた。なくなりかけていたシャンパンも、新しいものに変えられている。こういうところがナンバーワンヒーローのそつのないところだと、柚希は思う。

「ねえ、一つきいていいかしら」

 新しい酒を三分の一ほど飲んでから、柚希は切り出した。

「あなた、最後の恋人と別れてからずっと一人でいるっていうけど、どうして?」
「おいおい、私は君の彼について尋ねたりはしていないぜ。干渉しないのがルールなんじゃなかったのかい?」
「じゃあ質問を変えるわ。恋人と別れたのは、胃がなかったり吐血したりするその身体が原因なの?」
 
 オールマイトは黙ったまま微笑んだ。この二か月で柚希が知ったことがある。オールマイトは話したくない真実に触れられると黙るのだ。

「そうなのね」

 青い瞳をまっすぐ見つめたまま、柚希は相手の反応を待った。やがて観念したように、オールマイトがため息をつく。

「こんな身体になって、いつどうにかなるかわからないような男と一緒にいてくれなんて、どの口で言えばいいんだい?」
「女はその言葉を待っているものよ」
「だったら尚更突き放してやらなきゃいけない。早く私のことなど忘れるように、新しい恋ができるように、できるだけ酷い言葉で」
「そうしたの?」
「ああ。あのまま一緒にいても、彼女を泣かせるだけだったろうからね」
「ばかね。ひどい言葉で別れた時点で、彼女は充分泣いたわよ」

 オールマイトがぐっと息を飲んだのがわかった。
 聞きたかったはずの言葉、だがその言葉が氷の刃になって柚希の心に突き刺さっていた。
 これでもういい。愛されていたのだ。これでこの執着を葬れる。そのはずだったのに。

「どうせ泣くなら、少しでも長く一緒にいられた方が、彼女にとってはずっと幸せだったんじゃないかしら」
「なるほど、そういう考え方もあるんだね」
「そうよ」
「そうか。でも彼女はいま幸せにやっているようだよ。嘘をつかない私がついた、最初で最後の大嘘は、多少なりとも効果があったんじゃないかな」

 弱々しい、自嘲するような響きだった。それは柚希の知らないオールマイトの声。
 これ以上ここにいてはいけないと思った。これ以上ここにいたらどうしていいかわからなくなる。
 否、最初から来てはいけなかったのだ。
 もうこの気持ちは未練でも執着でもない。再会前はそうであったのかもしれないが、今はもう違う。柚希はこの痩せたオールマイトに強く惹かれている。
 この気持ちは確かに恋だ。

「これ、わたしのぶんの会計」
「え?」
「悪いけど、帰るわ」
「どうしたんだい? 急に」

 カウンターに五千円札を置いて、逃げ出すように店を出た。
 元麻布の街は今日も雨だ。
 天気予報では降らないと言っていたのに、今宵は空も泣いているのか。

 雨の中傘も差さずに広尾方面へと早足で歩いた。あの夜と同じだ。オールマイトと別れたあの夜も、今日のようなそぼ降る雨だった。

「待ってくれ!」
 
 呼び止める声とともに背後から腕をつかまれた。誰何するまでもない。この腹に響く低音はオールマイトだ。

「いったい、どうしたっていうんだ」
 
 柚希はくるりと身体を反転させて、大好きだった青い瞳を見上げた。

「忘れないでいてくれてありがとう。オールマイト」

 薄い肩がぎくりと強張り、つかまれていた手が離された。それにはかまわず柚希は続ける。

「だからわたしを追いかけてきたりしてはいけないのよ。あの夜と同じように、一人で帰るわ」
「柚希」
「さようなら……」

 踵を返し、ヒールのかかとを軽く鳴らして柚希は雨の中を再び歩き出した。
 オールマイトはもう追いかけてこない。わかっていたことだが、それでもひどく哀しかった。

 柚希の頬を涙が濡らしていたが、それは自分のためではなかった。オールマイトに対して流されたものだ。
 あのひとは、誰よりも強く優しいのに、とても弱くて、とても悲しい。

 その夜、皮肉なことに彼から久しぶりの連絡があった。大事な話があるから明日会えないかと、彼は柔らかなバリトンでそう告げた。

***
 
「結婚してくれないか」

 中目黒のバーで、ショットグラスのスコッチを傾けながら彼がいきなり言った。この人はいつも、要件を単刀直入に切り出す。
 同僚の男性は焼酎やビール好きが多く、あまりウイスキーを嗜む人はいない。いてもハイボールや水割りがせいぜいで。
 初めて二人で会った時、彼はスコッチをストレートで注文し、今と同じように開口一番「私と付き合ってくれないか」といきなり言った。
 年下の上役のその唐突さに驚きながらも、柚希ははいと即答していた。スコッチとバーボンの違いがあれど、ウイスキーをオールマイトと同じようにストレートで飲む。柚希はその一点に惹かれたのかもしれなかった。

「結婚?」
 
 さすがに即答しかねて、そのままおうむ返しする。彼はそれにたいして静かにうなずいただけだった。

 三十歳手前で警視になり、管理官をつとめるエリートだ。四十歳を過ぎても警視になれないのが殆どの、ノンキャリアとは違う。
 国家公務員であるキャリアは全国を移動せねばならないが、順当にいけば、彼は三十五歳前には警視正に、四十歳までにはその上の警視長となる。きっと彼となら、安定した豊かな暮らしができるだろう。

 オールマイトのことはこのまま忘れて、未来あるエリートと、平凡だけれども幸せで安定した生活を。それがきっと、賢い選択。

 柚希は答えを出すべく、慎重に口唇をひらいた。

***

 元麻布は今日も雨だ。
 梅雨時とはいえ、こう雨続きではいささか嫌になる。オールマイトは閉口していた。
 肺機能が弱っているオールマイトには、この湿気と低気圧はかなり堪える。それでもこの店に来てしまった。そんな未練がましい自分が、実に情けない。

 柚希と別れた五年前のあの夜、傘も差さずに六本木まで歩いた。傷つけられた方よりも傷つけたほうがつらいのだなどと、身勝手なことを言うつもりはない。だがあの夜の雨は、確かに自分の心身を冷やし、そして痛めつけた。

「ブラントンをストレートで」

 オーダーを取りに来た若いバーテンダーにそう告げて、オールマイトは小さなテーブルにひじをついた。

 それにしても、先週は驚いた。まさか正体を見破られているとは思わなかった。
 知られていないと思い込み、当の本人に別れた本当の理由を話してしまった。こんなに間抜けな話はない。
 何故、柚希が自分の正体に気づきながら接触してきたのかはわからない。何がしたかったのかも、よくわからない。

 けれどきっと、柚希はもうここには来ないだろう。彼女には恋人がいるのだ。その相手と幸せになるといい。
 それが自分の望みだったはずだ。そのために、幸せになってもらうために別れたのだ。

 それでも今夜柚希が来たらお前はどうする、とオールマイトが心の中で自問する。
 もし来てしまったら、もう手放すことなどできない気がした。
 柚希を泣かせるのがわかっていて共に生きたいなどと、そんなエゴイズムが許されるはずもないのに。

 賭けでもするか、オールマイト、と心の中で呟いてみる。

 柚希が来たらこちらの勝ちだ。もしそうであったら、自分の気持ちに正直になろう。もう二度と離さない。他の男になど渡さない。
 柚希がこのまま来なかったらこちらの負けだ。行き場のないこの思いを、雨と一緒に流してしまおう。

「乙女か」

 自嘲気味に小さく呟いて、ショットグラスを傾ける。バーボンをストレートで飲むのは、実に五年ぶりだ。
 舌と喉が妬ける感覚の後に来る、ブラントン特有の深い芳香と、バニラを思わせる濃厚な甘み。
 次にチェイサーの氷水を一口。そしてまたバーボンを一口。この繰り返し。
 バーボンのガツンと来る強烈な感じは、東京という街に少し似ている。エネルギッシュでパンチがあって。
 東京の街はごみごみしていると人は言う。だが雨の夜はそれなりに綺麗だ。雨粒が街の明かりに反射して白銀に輝くさまは、なんともいえない趣がある。

 そういえば柚希と別れた夜も雨だった。再会した時も同じで、春先の突き刺すように冷たい雨がしとしとと降っていた。先週も雨。節目節目に雨が降る。そして今夜もまた雨だ。
 自分の気持ちに幕を引くにはちょうどいい。どこまでも雨に縁があったふたりだ。

 この店はいい店だった。
 うまい酒しか置いていないし、マスターは無口で、客のプライバシーに口を挟まない。彼はおそらく自分の正体に気がついている。それでも一切何も言わない。
 本当にありがたい店だった。

 だが、もうここを訪れるのもこれで最後だ。柚希との思い出が多すぎる。この一杯を飲みおえたら席を立とう。

 オールマイトがアメリカ海軍御用達と言われる手元の時計をちらりと見やった。
 銀色の短針が指しているのは九の文字。

 ふっとため息をついて、またバーボンとチェイサーの中身を交互に飲む。胃のない身体に、ひさびさのストレートはさすがにきつい。

 その時、からんという音とともにオーク材の扉が開いた。

 オールマイトがくるりと振りかえり、入ってきた人物をみとめて反射的に立ち上がった。その勢いに負けて倒れた椅子が、大きな音を立てて床に倒れる。

 開け放たれたままの扉の向こうで、店のあかりに反射した雨粒がきらりと光った。

2015.6.23
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