柚希は達すると、いつもそんな香りがした。
五年前の雨の夜に別れたはずのひとだった。自分を忘れて、幸せになってほしいと。
けれどオールマイトと柚希は冷たい雨の降る春夜に再会し、梅雨があける頃、共に朝を迎える仲になった。その後も水曜になると麻布のバーで会い、会えば褥を共にする。
柚希の気持ちを聞いてはいない。オールマイトも自分の想いを伝えてはいない。
肝心な言葉を伝えあわぬまま、ふたりは肌だけを重ねている。
***
それを目撃してしまったのは、まったくの偶然だった。
警視庁のロビーで塚内と別れ、苛烈な日差しの中を帰路につこうとしたオールマイトは、あっと息を飲んだ。
視界の端に柚希の姿を発見したからだ。
髪をきっちりまとめて帽子の中に入れ、だぼっとした作業着然とした鑑識の制服に身を包んだ柚希は、プライベートの時の華やかさとはまた違った美しさがあった。
やあと声をかけようとしたその時、柚希に一人の男が駆け寄った。
この時の気持ちをどう表現したらいいのだろう。端的に言えば、驚くほどの不快感。
若い男だった。柚希より一つ二つ年下のようにも見える。
だが意志の強そうな光を宿した黒い瞳が、男が己に自信を持っているということを表していた。
すらりとした長身を仕立てのいいスーツでつつんだ男の顔立ちは端正だった。銀のふちの眼鏡が、その怜悧な美貌をますます際立たせている。
同僚、いや、上司だろうか。いや違う、あれはきっと――つい先日まで、柚希が付き合っていた相手だろう。
彼女は少し前まで、エリート管理官と交際していた。
オールマイトの胸に、先ほどよりも大きな不快感と苛立ちが生じた。
わかっている。管理官ともなれば警視だ。そう無下にもできないだろう。
だが次の瞬間、オールマイトは自分の顔が大きくこわばるのを感じた。
男の手が柚希の肩を叩いたのだ。
オールマイトとて、異性の同僚の肩をたたくくらいはする。だから一連の行為に性的な意味合いがなかったこともよくわかっている。
けれどこの時生じたのは、不快感などという生易しい感情ではなかった。
強いて言うなら、漆黒の炎に我が身を焼かれるかのような感覚。
黒い炎がじわじわと己の心を侵食していくのを、オールマイトは絶望的な気分で感じていた。
***
麻布のバーで柚希と待ち合わせ、二杯ほど酒を酌み交わし、いつものようにオールマイトの部屋へと向かった。
バーでも家までの道中でも、あまり口をきかなかった。それを不審に思ったのだろう。柚希が不安げにオールマイトを見上げる。
「今日はどうしたの?」
「どうもしないさ」
こたえながら後ろ手で玄関の鍵を閉めると同時に、柚希の唇をふさいだ。そのままなだれ込むようにリビングへと向かい、ソファの上に押し倒す。
柚希の口の中に己の舌を侵入させた。己の首や背に、回された腕。甘い声と共に弓なりにしなる女の背は、貧欲に男を誘っているようにも見えて。
そっと柚希を抱き上げ、寝室まで運んだ。
強請るようなしぐさに煽られ湧き上がる、密かな歓喜。
と同時に、ふたりが五年ぶりに結ばれたあの夜のことを、オールマイトは思い出していた。
君がくれたあの快楽。
かつての君はあんなに積極的ではなかった。
君を変えた男はいったい誰だ。
そう思った瞬間、嫉妬で気が狂いそうになった。否、今でも気が狂いそうだ。
柚希をこうまで蠱惑的な女にしたのは、あの男なのかと。
オールマイトの中で、黒い炎がぽつりとともった。
そこからはもう、夢中だった。
寄せては返す波のような快楽の中で、互いだけを求め、そして昇りつめてゆく。
ただその中で、己のこの名を呼ばせたかった。
「柚希……私の名前を呼んでくれないか」
こくり、と、柚希がうなずく。
オールマイトは彼女のしなやかな指に、自分のそれをからめる。
「俊典……」
享楽の波に流されながら、柚希が己の名を呼んだ。
くりかえし、くりかえし。
そうだ、その名をもっと呼んでくれないか。暗い炎が鎮火するまで。
いま君を抱いているのは、平和の象徴などではなく、嫉妬に狂ったただの男だ。
もう二度と他の男には渡さない。触れさせやしない。見つめることすら許したくない。
ああ、嫉妬に狂った男とは、かくも滑稽で、かくも愚かなものなのか。
「柚希……っ……」
甘くオリエンタルな花の香りが充満していく暗い室内で、オールマイトはしずかに、目を閉じた。
***
室内を、時計の秒針が時を刻む音だけが支配してゆく。
行為の後の静かなこの時間は、男が最も冷静になるときだ。
私はどこまで自分勝手なのだろうかと、オールマイトは己の小ささを嫌悪する。
先ほどの行為は嫉妬に狂ったうえでの所業だ。思い返しただけで顔から火が出そうだ。
やや強引に抱いたことを不審に思ったのか、柚希がたずねた。
「今日はどうしたの?」
「どうもしないさ」
オールマイトは、行為の前と同じ言葉を繰り返す。
「愛している」と言いたいのに、なぜか言葉にすることができない。
「もう君を離さない」と言いたいのに、なぜかそれは声にならない。
あの白銀の雨が降る夜、自分の気持ちに正直になろうと思い至ったそのはずなのに。
不器用と言ってしまうにはあまりにも臆病に過ぎる、己の愚かさに嫌気がさす。
彼女の気持ちを聞いてはいない。己の想いも伝えてはいない。
最も大事な言葉を伝えぬまま、ふたりは今日も、肌だけを重ねた。
2015.7.21
2017.11.9 改稿
規定改正に伴い年齢制限ある部分を削りました。原文はPrivatterに掲載。詳細はinfoに
GREEN EYED MONSTER=嫉妬を表す慣用句
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