熱風・東京

 いつもの元麻布のバーで、柚希はオールマイトを待っていた。手元にはひんやりとしたフルートグラス。中身は例によって例のごとくシャンパンだ。

 ややグリーンがかった金色の液体の中に浮かぶ炭酸の泡を見つめながら、柚希は先週の出来事を思い出していた。

 部屋に入った途端、無理やりのようなかたちでソファに押し倒され、そのまま抱かれた。
 獣のように、ただひたすら猥雑な行為にふけったあの夜。
 いったいオールマイトはどうしてしまったのだろう。避妊もせず性行為に及ぶような人ではなかったのに。
 あの夜の彼の青い瞳は、獲物を見つけた捕食者のそれに、どこか似ていた。

 行為の三日後……つまりは四日前に生理がきたから良かったようなものの、危険日であったらと思うと冷や汗が出る。
 あの日は実際、いろいろなことが起きた。



 警視庁の入り口付近で、ひと月ほど前に別れた人に声をかけられた。

「柚希、少し話をさせてくれないか」
「ここでなら」

 珍しく切羽詰まった感じの彼に押され、ためらいがちに答えた。

「いきなりプロポーズして、悪かった」

 彼が申し訳なさそうに告げる。

「あの頃、なんとなくぎくしゃくしていただろう? それはその……君の年齢的なものが原因なのかと思って焦ったんだ。早く……結婚したいのかなと」

 彼の顔を見ることすらできなかった。この関係がおかしくなったのは結婚を焦っていたからでも、自身の年齢を気にしたからでもない。

――あなた以外の人に囚われている。もう何年も、あなたに出会うずっと前から――

 そう本当のことを言えたらどんなによかっただろう。

「でも君は結婚は考えられないと言ったね。だからもう別れましょうと」

 彼の言葉は柚希の心を罪悪感でいっぱいにした。

「結婚は考えなくてもいいから、もう一度やり直してもらえないだろうか」

 柚希は驚いて彼をみつめた。プライドの高いこのひとが、まさかこんな場所で、こんなことを言うなんて。

「わたしは……」
「答えはすぐでなくていい。時間をかけて考えてほしいんだ。夏が終わるまでに答えを出してくれればいいから」

 断ろうとした声を彼はさり気なく遮って、肩をポンと叩いて去っていった。



 そんなことがあって、オールマイトのあの行為だ。
 オールマイトとはいつもこのバーで会い、数杯の酒を飲み、向こうの部屋に行き、寝る。
 ふたりはそれ以外の場所では会わない。約束を取り付けたりしない。もちろんメッセージや電話などくるはずもなく。
 これではセフレとかわらない。
 
 あなたのためにエリートと別れたのになどと、重たいセリフを吐くつもりはない。
 オールマイトの気持ちも、この関係をはっきりさせられない理由もわかっている。
 けれど今の状態は、あまりにも切なかった。
 刺激的で刹那的な快楽に身体が満たされれば満たされるほど、心はオールマイトからの愛を求め飢えていく。

 半分ほどになってしまったグラス内のシャンパンを見つめため息を吐いたその時、カランという音と共にオールマイトが入ってきた。

「ブラントンを」

 いつものようにバーボンをミストで頼み、オールマイトが小さく咳をした。ごく少量の吐血。

「元気だったかい?」

 何事もなかったかのように、口元の血を拭ってオールマイトが笑む。
 実にさりげない仕草だった。だがそのさりげなさゆえに、彼の状態がよくないことを露呈してしまっていた。
 このごろ吐血の回数が増えているような気がする。それを気取られまいとするオールマイトの心情を思うと、胸が痛い。

 血を拭ったその手元には、いつものように黒い樹脂バンドの腕時計が巻かれていた。昔、柚希が贈った、丈夫なのが取り柄の時計。
 少しゆるめにセットしてあるのは、オールマイトとして活動するときにバンドが弾けてしまわないようにだろう。
 ジープに踏まれても壊れないとアメリカ軍が賞賛したごついチタンのベゼルが、少し歪んでいる。それが、オールマイトのヒーロー活動の過酷さを物語っていた。
 この時計はオールマイトと柚希を繋ぐ、数少ないカラビナの一つだった。

 この関係を、このまま続けていていいのだろうか。近頃はそんなことばかりを考えてしまう。
 オールマイトは現状に罪悪感を抱いている。なんとなくだがそれは感じる。それでもきっと、彼の方もこの関係を断ち切ることができないのだ。
 今の柚希とオールマイトは、やめることができない麻薬のような関係に陥ってしまっている。

「なんだい?」

 心ここに非ずといった調子で手首を眺めていたことを訝しく思ったのだろう。オールマイトが問うてきた。
 なんでもないわと答え、心の中で嘆息する。

 互いに当たり障りのない話をし、一杯を飲み終えたオールマイトが席を立つ。柚希もそれに合わせて席を立った。今夜は切り上げるのが早い、やはり調子が良くないのだろう。

 オーク材の扉を開けた途端に、真夏のべたつく空気が身体にまとわりついた。湿気の多いこの街の夏の夜は、熱帯のようだ。

「ごめんなさい。今夜は帰るわ」
「どうしてだい?」

 どう答えようかと躊躇して、ありのままをストレートに口にすることにした。よく考えれば「女の子の日」などという年齢でも、そんな可愛げのある関係でもないのだ。

「今、生理中なのよ」

 驚いたことに、オールマイトが一瞬顔を赤らめた。
 ベッドの上では常にあれほど大胆な行為をするくせに、生理ごときでこんなふうになるのは本当にずるい。
 赤くなった顔を隠したいのか、オールマイトが大きな手で口元を覆った。

「私はそれでもかまわないよ」
「あなたは平気かもしれないけど、わたしが嫌よ。生理の時はしたくないわ」
「それはもちろんだよ。しなくてもいいから一緒にいたいんだ」

 ずるいひと。
 そんなことをそんなはにかんだような顔で言われたら、こちらは即ノックアウトだ。

「君さえよければ、来ないか?」
「帰るつもりだったからお泊りセットを用意していないのよ」

 突き放すように言ったつもりが、声に媚が含まれてしまった。それを見透かしたオールマイトの口角がゆっくりとあがる。

「化粧品も下着も、コンビニで購入できるよ。だから―」

 オールマイトはここでいったん言葉を切った。どうしたのかと訝しがる柚希の耳元に息がかかるほど唇を近づけて、続きを囁く。

「だから、来いよ」

 やられた、と思った。
 ブラはコンビニじゃ買えないわと返すつもりだったのに。
 オールマイトが耳元で囁く甘い声、柚希はそれに抗う術を持たない。
 本当にずるいひと。こんな時に口調を変えるなんて。

***

「まいったな、そういう姿も悪くないね」

 コンビニで買ったショーツとオールマイトのTシャツを着てバスルームから出てきた柚希に、オールマイトが微笑んだ。平均的な身長の柚希が着ると、彼のTシャツはワンピースのようになる。

「まだ寝るには少し早いよね。映画でも観ようか?」

 オールマイトの言葉にこくりと頷いた。彼ご自慢のシアタールームに足を踏み入れるのは、そういえば五年ぶりだ。

「何にする? 君はフランス映画が好きだったよな」
「あなたはアクション映画が好きなのよね。有名なアクション俳優の出世作だったっけ?ベトナム戦争の帰還兵が山にこもって大暴れする話」
「あのね、あれは帰還兵の絶望を描いた名作なんだよ」
「あんなに暴れることもないと思うけど……続編のほうがまだわかりやすかったわ」
「あの主人公はプライドを守るために牙を剥いたんだ。たしかに無意味だけれど、それでも戦う事しかできない男の痛々しいまでの姿をだね……」
「わたしたちはあの映画に関しては永遠に分かり合えないと思うわよ。あなたがわたしの好きだった映画を理解できなかったようにね」
「あのティーンの恋愛映画?」
「そうよ」
「あれは確かにわからなかったなぁ。特にラストシーン。別れた相手と再会して抱き合ったと思ったら、次はこれ見よがしに別の男にもたれかかって踊るんだよね。そこだけ覚えてる。女の子って怖いと思ったよ」
「あれは男の子のほうがはっきりしなかったから悪いのよ」

 そうかい、とオールマイトが肩をすくめる。

 違う、こんなことを話したかったわけではない。

 オールマイトは、柚希が彼のためにエリートのプロポーズを蹴ったことを知っている。
 柚希は、オールマイトが今でも柚希を想っていることを知っている。

 皮肉なことに、互いの気持ちを知ってしまってから、ふたりはそれについて語る言葉をなくしてしまった。
 互いに何を恐れているのか、何を失いたくないのか。
 わかっているようで、もしかしたら何ひとつわかっていないのかもしれなかった。
 身体だけを重ね合わせ、このまますれ違っていくのだろうか。

「じゃあフランスのハードボイルドなんてどう?」

 オールマイトが選んだのはフランスの犯罪映画だった。ネオ・フレンチノワールというジャンルだ。舞台は1950年代のパリ。
 映画自体は最近撮られたものだが、映像はなぜかモノクロだった。
 パリの街並み、古い形のシトロエン、氷がとけ薄まってしまったウイスキー、吸いかけの煙草。
 白黒でも、フランス映画らしく確かに映像は美しかった。

 内容は、いわゆる、「男の、男による、男のための」映画だった。
 この映画に出てくる「男」は「女子供」をは己の命と引き換えにしても守るものだという、古臭い自己犠牲の精神にあふれて。

 オールマイトの好きな大昔の作家、レイモンド・チャンドラーの世界を思わせる作品だ。
 「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」
 かの有名なこのセリフは、オールマイトの為にあるような気がするし、実際に彼はそれを体現していた。

「チャンドラーっぽいわね」
「あ、わかるかい?」
「あなた、大好きだったでしょう?」
「君はフランスの女流作家が好きだったね」
「覚えていてくれたの?」

 当然だと言わんばかりに、オールマイトが目を細めた。

***

「柚希、おはよう」

 オールマイトの声で目が覚めた。
 セックスをせず、同じベッドで朝を迎えたのは、五年前を含めても初めてのことだ。

 テーブルには完璧なアメリカンブレックファストが並べられている。
 柚希はそれを食べるだけ。オールマイトは女子力が高い。
 こんなにしてもらっているのにこの関係が切ないなどと、やっぱりわたしはわがままなのかもしれない、と柚希は思う。
 この関係が袋小路に陥ってしまったことには理由がある。それを知りつつ、柚希は懲りずに先を求める。
 女は、どこまでも欲深い。

「そういえば、来週は会えないわ」
「どうしてだい?」

 出勤準備をしながら告げた柚希に、オールマイトが眉間に皺を寄せた。

「友人たちと旅行なの。本当は一昨年か昨年に行く予定だったんだけど、全員の都合のいい日に限って、そろって許可がおりなくて」

 これは本当のことだった。警察官が渡航するには少々面倒な許可がいる。それなのに、なぜか言い訳がましくなってしまったことにいら立った。

「何人でどこに行くんだい? いつから?」 
「わたしも入れて三人よ。刑事課の子と、交通課の子とわたし。行先はバリで月曜の朝出発して土曜の夜に帰ってくるわ」
「へえ。女性ばかりで?」
「当たり前でしょう」

 言葉の奥に含まれた嫌な空気に気づいて、ますます不愉快になった。
 オールマイトは時折、驚くような独占欲を垣間見せることがある。本人は知られまいとしているが、表情や声のトーンでわかる。
 ああきっと、欲深いのは男も同じか。

「じゃあ、あなたも来ればいいのに」
「え?」

 オールマイトが困惑した声を上げた。
 実のところ、女ばかりの旅行についてこられて、困るのは柚希の方だ。
 旅行に限らず、女子会に顔を出したがる男なんて嫌だし、友人たちもドン引きだろう。
 それでも、意地の悪いことを言わずにはいられなかった。

「あなたと一緒の方が、きっと楽しいわ」
「冗談だろう?」
「もちろん冗談よ。たとえ一日だって、あなたがこの国から離れられるわけがないもの」

 オールマイトは答えなかった。
 彼はトップに上り詰めて以来、一度も国外に出たことがないはずだ。
 ヒーローの渡航手続きの煩雑さは我々警察官の比ではない。だがオールマイトがこの国を離れない理由は、きっとそれだけではないだろう。
 ヒーローとしての在り方、姿勢、ポリシーのようなものが、オールマイトをこの国に縛りつけている。この国は自分が守るのだという、揺るぎない意思と守護者としての矜持。
 他にもヒーローはいるのに、オールマイトは少し気負いすぎている。
 この人はすべてにおいてそうだ。

「ねえ、オールマイト」
「名前で呼んでくれないか」

 柚希は、わざと彼の名前を呼ばなかった。それに気づいていてなお、根気強くオールマイトが促す。

 けれど、柚希は聞こえないふりをした。

「バリに行く前に一つきいてもいいかしら?」
「なんだい?」
「あなたにとって、わたしは何?」

 オールマイトがぎくりと身を強張らせた。

 柚希はオールマイトを愛している。そして彼も同じ気持ちでいてくれている。
 だからこのまま、互いの位置づけをはっきりさせないまま、この関係を続けてもよかった。
 けれど人はわがままだ。少しずつ、相手のすべてが欲しくなる。相手が独占欲のようなものを表に出すならなおさらに。
 もちろん結婚など望んでいない。ただ、一言が欲しかった。

「柚希……」

 予想通り、オールマイトは何も言ってくれない。その理由もわかっていた。
 オールマイトの気持ちも逡巡も、すべてわかっていて、それでも言葉が欲しかった。

「そう……わかったわ。困らせるようなことを言ってごめんなさい。それじゃあまた……再来週に」
「柚希」
「おみやげは期待しないでね」

 にっこり笑ってオールマイトをみつめた。互いに大人だ。こういう時どうするべきか、二人ともよく知っている。
 こういう時は、何も起きなかったように振る舞うにかぎるのだ。

 人は笑顔のままで泣くこともある。オールマイトが、常にそうしてきたように。

 それじゃあねとオールマイトにそう告げて、マンションの扉を開けた。
 途端に襲い掛かってくるのは狂暴なまでの熱気と熱風。
 端末でネットのホーム画面を開くと、『本日の最高気温は三十七度、熱中症にお気を付けください』と書かれていた。
 まったく、この街はいつから熱帯のようになってしまったのか。

 湿気を含んだ熱い風が、スカートの裾を軽く揺らした。
 じわじわと汗が湧き出てくるのがわかる。

 息苦しいこの街から、早く出たい。

 柚希は初めて、心の底からそう思った。


2015.8.16
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月とうさぎ