「すごい雨……」
カーテンを閉めながら、柚希は小さく微笑み、そして息を吐いた。
突然の雨――しかも土砂降りの――は、たいていの人が嫌がるものだ。しかし柚希には、いきなりの雨にまつわる微笑ましい思い出がある。
あの頃の彼はバーボンをストレートやロックで飲んでいたっけ、と小さく独りごち、柚希は過去に想いを馳せた。
それは八木俊典――オールマイト――が、胃袋と肺の片方を失う前の物語。
***
「このあたりだったっけ?」
麻布十番の駅から少し歩いた先にある、閑静な住宅地。そこにオールマイトがよく行くバーがあるという。
「そこで静かにお酒を飲むのが、最近の私の楽しみのひとつなんだ」
そうスーパーヒーローは柚希に語ったのだ。東京の夜景が一望できる、フレンチレストランの個室の中で。
*
とある事件がきっかけでオールマイトと知り合いになり、食事に誘われたのが二週間前のことだ。
天にも昇る心地で出かけた世にも名高きスーパーヒーローとのデートは、それはそれは素敵だった。オールマイトのエスコートはスマートで洗練されていた。
だがそれ故に、その夜は何事もなく終わった。お互いの連絡先のみを、交換しただけ。
帰宅してすぐ「今日は楽しかったです。ありがとうございました」とLIMEを送ったが、それには「また会おう!」と言うオールマイトのスタンプが返されただけ。それから二週間後の今日まで、特になんの音沙汰もない。
悲しいけれど、それはしごく当たり前のことだろう。
柚希は一介の鑑識官。華々しい経歴に飾られたキャリアならいざしらず、どこにでもいそうな一公務員にオールマイトが声をかけてくれたのは、きっと、ほんのちょっとした気まぐれ。
それに一緒に食事をしただけで、特に口説かれた記憶もない。だからあれは一夜の幸福な夢だったのだと言い聞かせ、諦めるつもりだった。
だが、オールマイトがよく行くと言っていた件のバーは、柚希の家からそう遠くない場所にある。だから、ちょっとした好奇心から、そのバーを一目見ようと足を運んだ。そう、それだけだ。
*
「……ここだ」
小さな立て看板がなければ、そこがバーであるとは気づけなかっただろう。大人の隠れ家というにふさわしい、ひっそりとしたたたずまい。
けれど柚希には、オーク材の重厚な扉を開く勇気は持てなかった。ただお店を見てみたかっただけ、それだけだ。だから、うんと小さくうなづいてきびすを返した、その時だった。
バケツをひっくり返したような雨が降り出した。激しい音を立てて落ちてきた水滴が、アスファルトを弾いて下からも柚希に襲いかかる。最悪なことに傘はない。
「……」
意を決して、柚希はオーク材の扉をあけた。
扉の向こうは、外とはまったくの別世界だった。中はそう広くはない。数人が座れる程度のカウンターと、奥に小さなテーブル席がひとつあるきり。けれどひんやりとした石造りの内装は、どこか静謐な礼拝堂を思わせる。まさに大人の隠れ家というにふさわしい、雰囲気のあるバーだった。
マスターらしき人物に促され、柚希はカウンター席に座った。出された熱いおしぼりが心地よかった。
とはいえ、本格的なバーに足を踏み入れるのははじめてのこと。カクテルの類にも詳しくはない。何を頼んでいいかわからず困っていると、シャンパンの文字が目に入った。これなら味も想像できるし、なんとなくおしゃれ感もある。
「シャンパンをグラスで」
と、注文すると、隣から低くやさしい声が降ってきた。
「シャンパン、好きなんだね」
「は?」
振り向いた先で笑っていたのは、この国では誰一人として知らぬ者のいない英雄だった。「オールマイト?」
「うん。隣にいるのにぜんぜん気づいてくれないからさ、どうしようかと思ったよ」
「……すみません」
それ以上、なんの言葉も出なかった。突然の雨に降られたからといってこんなに大きな人に気づかないなんて、自分でも本当にどうかしていると思ったからだ。
オールマイトの目の前には、琥珀色の液体が注がれたショットグラスと、水の入ったチェーサーが置かれている。
「こないだも飲んでいたよね? シャンパン」
と、彼は先ほどの質問の続きを口にした。オールマイトの言う通り、前回のデートの時、柚希は食前酒にシャンパンを選んだ。あの時も今と同じ理由で選んだお酒だ。もちろんそうと口にしてしまうのは恥ずかしかったので、「はい」と応えてちいさく笑んだ。
前回柚希が飲んだものをオールマイトが覚えていてくれたことが、とても嬉しかったから。
「オールマイトはウイスキーですか?」
「うん。あの時はワインだったけど、今日はバーボン」
「それストレートですよね。強くないですか?」
「チェーサーで調節しながら飲むから大丈夫だよ。ところで」
と、オールマイトはここで一旦言葉を切り、柚希の瞳をのぞき込んだ。晴れ渡った空色をした瞳に映る自分は、どこか頼りなげだ。なんとなく不安になって眉を下げると、オールマイトが小さく笑んだ。
「よくここを見つけたね。ちょっとわかりにくいだろ? 住宅地の中にぽつんとある店だから」
たずねられ、心臓が飛び出そうになった。どうしよう。あなたがよく行くお店を見てみたかっただなんて言ったら、ドン引きされてしまうだろうか。
「……それは……」
「もしかして、こないだ私が言ったこと、覚えていてくれた? 元麻布の住宅地の中にある、隠れ家バーの話」
優しい声に、柚希は覚悟を決めた。もしドン引きされたら「ファンなんてそんなものですよ」とかなんとか言ってごまかそう。
「…………はい。お話を聞いて、行ってみたいなと思ったので」
ごまかし切れず、小さく答えた。
「あー、良かったァー!」
するとオールマイトは、精悍なおもてに満面の笑みを浮かべた。それは彼が敵と対峙した時に見せる太い笑みではなく、とてもキュートでチャーミングな顔。
「あの時、君、つまんなそうだったからさ。私に興味がないのかな、って不安だったんだ。なんだよ、言ってくれたら連れてきたのに」
意外な言葉に、柚希は慌ててぶんぶんと手を振った。
「いや、オールマイトさんといてつまらないとか、興味がないなんて思うわけないじゃないですか。あの時はめちゃくちゃ緊張してたんですよ」
「そうなの? 緊張なんかすることないぜ。いやぁ、安心したよ。私はもう四十の終わりで、君はまだ二十代だし。デートの申し込みを受けてくれたけど、おじさんと会うのはやっぱり退屈だったんじゃないかって、ずっと心配してたんだ。あとから来たLIMEもなんか事務的だったからさ。次はどうやって誘おうかって、ずっと悩んでいたんだぜ」
えっ、と柚希は小さく声をあげた。
「なんだい? さっきからそんな驚いたような顔をして」
「あの……今の感じですと、オールマイトさんがわたしに好意を抱いてるみたいに聞こえるんですが……」
すると今度は、オールマイトが目を丸くした。
「それ以外になんだと思っていたんだい? いいかい。私はね、仕事ならともかく、プライベートで好きでもない女性を一対一の食事に誘ったりはしないよ」
「えっ?」
「そういう可能性があるって思わなかったのかい? まいったな」
「……いや……そんなふうに考えちゃいけないって思ってました」
「なんでだよ。考えてくれよ。積極的にさ」
「……なんだか……夢みたいで……」
「夢じゃなくて現実だよ。じゃあさ、また君を誘ってもいいかい?」
「――もちろんです」
恥ずかしくって顔を覆ってしまった柚希を愉快そうに見おろして、オールマイトが笑った。
「それにしてもさ、雨が降ってこなかったら、君はあの扉を開けることなく、帰っちゃってたわけだろ? そう考えると、君には悪いけど、にわか雨に降られるのもそう悪くはないもんだな」
「たしかに」
と顔を覆っていた手を外した瞬間、目の前にシャンパンの入ったグラスが静かに置かれた。
オールマイトが無言でショットグラスを掲げたので、柚希も慌ててフルートグラスを手に取って、彼のグラスと軽く合わせた。それはまるで、夢のような瞬間。
そしてこの夜、帰り道でふたりはグラスだけでなく唇をも重ね、すべてが始まったのだった。
***
「お帰りなさい。今日は早かったのね」
びしょ濡れで帰宅したオールマイトに渡すためのタオルを出しながらそう告げると、そりゃあね、という声が返された。
「君が休みの日くらいは、できるだけ残業なしで帰りたいじゃないか。幸いにして今日は事件もなかったし」
嬉しい言葉に、柚希は小さく笑みを返した。
あの夜から数年が経ち、柚希は「警視庁からの出向」という形でこちらの県警に務め、オールマイトは雄英の教師になった。
いや、それだけじゃない、あの頃四十の終わりだった彼は五十の半ばを過ぎ、逞しかった肉体はすっかり痩せ、グラスの中身はウイスキーからお茶になり――そして柚希の苗字は、月視から八木へと変わった。
「俊典、ちょっとかがんで」
その理由をよく知っている彼は、微笑を浮かべて次の行動を待っている。オールマイトは痩せた姿でも、見上げるほどに背が高い。だからそうしてもらわないと、彼の頭には届かない。
雨に濡れた金色の髪を、柚希はタオルでそっと覆った。そうして柚希はごく自然に、彼の頬にキスをした。オールマイトは笑う。心の底から満足そうに。
「君からキスしてもらえるのはとても嬉しいけど、どうしたんだい? 急に」
「さあ、なんでだと思う?」
うーん、と、眉を下げて彼は笑い、そして続ける。
「いずれにせよ、雨に濡れたおかげかな。そう思うとさ、にわか雨にやられるのも、そんなに悪くはないもんだ」
2023.9.30
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