1 CHERRY

 青々とした葉が茂る桜の木々が並ぶ坂道の上を、春というよりも初夏を思わせる強い日差しが照りつけていた。
 コンクリートとガラスの照り返しによる都会特有の暑さと体調の悪さに閉口するかのように、長身痩躯の男がふらふらと歩いていく。
 事実、彼はひどい頭痛に襲われていた。

 鉛のように重く感じられる身体に彼はいらだちすら覚えている。その長身からは大量の汗が吹き出していた。
 彼――オールマイト――がスポンサーと共に昼食をとってから、ちょうど二時間が経過していた。食事中から軽いダンピングの症状があったのを、同席者たちに悟られまいと我慢し続けた結果がこれだ。

 現在オールマイトを苦しめているのは、後期ダンピング症候群。
 急激に起こった高血糖が原因でインスリンが過剰に分泌され、逆に低血糖が引き起こされてしまうのだ。そのため頭痛やめまい発汗等、非常に苦しい状態に陥る。
 食後すぐに起きる早期ダンピング症候群に引き続いて、症状が出ることが多いと言われる。

 カラフルな滑り台が特徴的な公園を抜け、オールマイトはやっとのことで広いベンチの並ぶ広場前までたどり着いた。

 息が苦しい、と彼は心の中で呟く。
 肺が半分ないために苦しくなるのはよくあることだが、ダンピングによる呼吸の乱れはまた別の苦しさだった。
 そうして彼は、小さな人口の池を横目に見ながら目的としていた広く大きなベンチにたどりつき、倒れるように座り込んだ。
 長い身体をベンチに預けながらごそごそとポケットをまさぐって、彼はシット!と心の中で舌打ちをし、そのあと静かなため息をついた。
 常備しているはずの飴が、今日に限って入っていない。
 吐き気をこらえながら、ため息をまたひとつ。

 オールマイトが自分に対して絶望するのは、こんな時だ。
 ヒーローとしての姿を維持できる時間は一日三時間程度と限定され、そうでない時間はこの弱々しい身体と向き合わなくてはならない。
 鍛えても鍛えても落ちていく体重。枯れ木のように細い手足に薄くなってしまった胸板。気温差や湿度差、興奮の度合い等で頻繁におきる吐血。
 一度にとれる食事の量は限られ、体力は落ちる一方だ。

 自分が平和の象徴として立っていられる時間は、おそらくそう長くはない。
 早く後継者を見つけねばと思ってはいるが、ふさわしい人物にまだ巡り合えてはいない。
 明暮、心の奥底に揺蕩う不安と焦りと孤独と絶望。
 誰にもそれを悟られぬことなく高笑いを続けながら、その裏側では己の衰えに怯え苦しむ。
 堂々巡りの迷路の中で、底のない沼の中で、ただ一人もがき続けている。
 それがこの国のナンバーワンヒーローの姿だと、誰が知ろうか。

 すぐ目の前が自宅だというのに、今の状態ではエレベーターまで辿りつけそうにない。
 それでもこのまま少し休めば、おそらく回復はできるだろう。糖分がとれれば時間をもう少し短縮できただろうが、仕方ない。
 そう思った矢先のことだった。

「大丈夫ですか?」

 かけられた声に視線を移すと、逆光を浴びながら自分の顔を覗き込んでくる若い女性の姿があった。小さな白い花を思わせるその人は、女性というより、むしろ少女のような佇まい。

「大丈夫ですか」
「うん大丈夫。ちょっと持病があってね。家も近いし、少し休めばよくなるから」
「何かすぐできる対処法みたいなものはありますか? 水分を取ったほうがいいなら買ってきますけど」
「じゃあ……悪いんだけど……飴とか、何か甘いもの持ってない?」

 甘いもの、と娘は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにバッグからのど飴の袋を取り出した。

「これでいいですか」

 ありがとうと弱々しく答える口に、飴がころりと入ってくる。
 その時、白い指先がオールマイトの舌に触れた。
 たとえ指先であろうと、見ず知らずの男の舌に触れてしまうなどおそらく不快であったろう。だが小さな白い花に似たそのひとは、気にせぬふうでふわりと笑った。

***

 なんということだ、と小さな声でぶつぶつと呟きながら、オールマイトが坂を上る。
 ここ数日彼の頭を悩ませているのは、他の人から見ればおそらくとても小さな出来事。
 けれど平和の象徴オールマイトにとっては、それがとても重要な一件になりつつあった。

 オールマイトは人を助け続けてきた。その行為は彼にとって、自分の存在理由ですらある。
 人を救うために、差し伸べ続けた己の手。
 当然のように繰り返してきたその行動を、誰かにしてもらおうなど夢にも思ったことはない。
 だが、心が折れそうになったあの時に、差し伸べられた小さな手。
 逆光の中で微笑む彼女の笑顔は、天使のようにも花のようにも見えた。

 それ以来、あのひとにまた会うことができないだろうかと、彼はそればかりを考えている。

 長い脚が、ロボットのトーテムポールが目印の公園の階段を昇っていく。
 青い瞳が、カラフルな遊具を視界の端にとらえる。
 その先に待つ人工の小さな滝と池が見えるたびに、ここで彼女と出会ったのだとため息をつく日々の繰り返し。

 オールマイトはパン屋とベンチの間で立ちつくし、自問自答を続ける。
 再び会えたとして、あのように若い女性をどうしようというのか。
 今の自分は特定の相手など作れる状態ではない。
 そのうえヒーローは常に死と隣り合わせの危険な仕事だ。
 だから、彼女にもう一度会えたとしても、何も変わりはしないのだ。
 そう、変わりはしない。

「こんにちは」
「うわっ!」

 オールマイトが一人自らを戒めていた最中、背後から声がかかった。
 気絶せんばかりに驚きながら、同時に大きな期待が胸に湧き上がってくるのを彼は自覚した。その声に覚えがあったからだ。

「……びっくりした……」

 振り返った先に、ずっと会いたいと願い続けていたひとが立っていた。
 うふふと彼女はちいさく笑う。

「今日はお元気そうでよかったです」
「ああ、あの時はありがとう。今日は?」
「これからお昼をと思って」
「よかったら、キャンディのお礼として、ランチをご馳走させてくれないか?」

 さらっと自分の口から出た言葉に、オールマイトは少し驚く。
 ティーンのように心を弾ませながら、さも何でもない感じで食事に誘えるのは、それなりの年齢と経験を重ねた男の狡知でもあった。

 幸い彼女は快く誘いに応じてくれた。さりげないふりで一番近くのパスタハウスに入り、ランチセットを注文する。

 美月果穂と言いますと彼女は名乗り、オールマイトは少し考え、「マイト」と名乗った。

「この先にあるツインタワーの中に、自宅とオフィスがあるんだ。住まいと事務所は別の階だけどね」
「アッ、じゃあお近くなんですね。わたしはメトロの駅から一番近いタワー内にある、美術館の受付で働いています」
「えっ? ってことは社会人? 高校生じゃないんだ」
「童顔なのでよくそう言われますけど……一応20歳は過ぎてます」

 少し気を悪くしたように、果穂がパスタをつつく。
 オールマイトは、ごめんと小さく謝った。

「でも二人で食べるご飯っておいしいです。私、ずっとひとりだったので」
「ひとり?」
「はい……」

 おいおい、その憂い顔は反則だろうと、オールマイトが内心で呟いた。
 気になる相手のギャップに弱いのは男も女も同様だ。
 これ以上関わってはいけないと、オールマイトの中で己を諌める声がする。

 少しして、果穂が言いにくそうに口を開いた。

「わたし……身寄りがないんです」

 明らかな作り笑いを見せて果穂が肩をすくめる。

「変なことを言い出して、ごめんなさい」
「……いや……」

 少し気まずい沈黙が流れ、二人の間を天使が通る。
 けれどこの天使が、男の気持ちの後押しをした。

「じゃあ、次は夕飯でも一緒にどう?」

 果穂の顔がぱっと輝いたように見えた。それに気づかぬふりをして、オールマイトは続ける。

「私もずっと一人なんだ。食事は一人でするより誰かとした方が楽しいし、誘ってもいいかい?」
「え……はい。もちろんです」
「じゃ、連絡先を聞いてもいいかな」
「はい」

 携帯を取り出しながら自分を見つめる果穂の笑顔は、やはり白い花のようだった。

***

 パスタハウスを出てすぐの並びに、小さな花屋がある。
 そこに並ぶ鉢植えの一つに目をとめて、果穂が微笑んだ。

「わたしあの花が好きなんです」

 白い、かわいらしい花だった。鉢にデイジー(雛菊)と書かれた札が刺してある。

「切り花より鉢が好きなんです。温かい感じがするし、なにより長く持つでしょう?」

 貧乏性なんですと照れくさそうに眼を細めた果穂を見て、ああとオールマイトは思った。
 確かに温かい感じがする、白くて小さく可憐な花だ。
 デイジーというのか。彼女はこの花によく似ている。

「それじゃ、わたし仕事に戻ります。今日はご馳走様でした」

 ぺこりと頭を下げて手を振って雑踏の中に消えていった果穂の姿を見送りながら、困ったものだとオールマイトは嘆息する。
 この年になってこんな感情に悩まされることになろうとは。

 好きな女性など作ってはいけない。
 常に一人、孤独をかみしめながら生きてきた。
 今までもそうだったし、おそらくこれからもそうだろう。そうでなければならないと思ってきた、それなのに。

 今日昼食を共にしただけで、果穂をもっと知りたいと思う気持ちがますますつのっている。
 自分は彼女をどうしたいのか、どうなりたいのか、
 それを望むことは許されるのか。
 心の中で答えの出ない問いを繰り返しながら、人目を引く長身もまた、雑踏の中へと消えていった。


2015.4.29
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月とうさぎ