2 BITTER CHOCOLATE

 少し冷たい夕方の風を感じながら、果穂は商店街を歩いていた。
 下町情緒が感じられる商店街と、六本木まで地下鉄で20分弱の立地にふさわしい高層マンションが立ち並ぶ高台。新旧入り混じった、この街が好きだ。
 果穂が暮らしているのは都営地下鉄よりではなく、黄色い電車がシンボルの私鉄駅から商店街を抜けた先にある、神田川沿いのアパート。
 1DKと、広くはないが、果穂にとっては城だった。

 鼻歌を歌いながら商店街を抜けたあたりで、ポケットに入れていた携帯がブルブルと震えているのに気がついた。
 画面に浮かんだ名前を見て、果穂の心臓が跳ね上がる。
 最近、食事を共にするようになった相手からの連絡だ。彼は名前をマイトという。
 彼といるととても楽しい。別れ際いつも思ってしまう。もう少しお話しできたらいいのにと。

 いつも安心する低い声で、優しく語りかけてくれる。
 いつも長躯を大きく屈めて、視線を合わせてくれる。
 思いやりのある優しい人だ。

 この想いに名前をつけたら、それはきっと恋だろう。
 ほろ苦くて溶けるように甘い、まるでビターチョコレートのような想い。
 鳴り渡る心臓の音をうるさく感じながら、緊張に震える手で着信ボタンをプッシュする。
 瞬間、耳の奥に流れてきたのは耳触りの良い落ち着いた低音で、果穂の胸が甘くうずいた。

「ああ、果穂ちゃん。今夜は暇かい?」
「もちろん暇です!」
「今から夕飯でもどう?」 
「はい。……でもすぐには出られないので20分くらいかかるかもしれません……」
「ンン? 君、今どこにいるんだい?」
「六本木です」

 きっと彼は、職場にいるのだろう。
 地元にいるなどと馬鹿正直に答えたら、また今度と言われかねない。ここから六本木までの時間を逆算してそう答えた。
 恋しい相手に会いたくてついた、小さな嘘だ。
 すると電話の向こうで、当の相手がくすりと笑った。

「それウソだろ? 果穂ちゃんのウソつき」
「え?」
「だって私、今、君の近くにいるもの」
「え!?」

 きょろきょろとあわてて周りを見回した。
 橋の向こうに、道行く人たちよりも頭二つ分突き抜けた金色の髪をみとめる。
 穴があったら入りたいとはまさにこの事。
 羞恥に言葉を返せぬままでいると、彼が電話越しにそっと囁いた。

「仕事でこっち方面に着たから、ちょっと寄ってみたんだ」

 仕事とひとことで言われたが、果穂は彼の職業を知らない。
 胃袋がなくて、時々低血糖で倒れる人。
 肺が片方なくて、頻繁に血を吐く人。
 そんな弱った体なのに、なぜか怪我が絶えない人。

 なんとなく、そうではないかと予想している職業があるのだが、それは聞かない。
 きっと彼は知られたくないと思っているのだ。だから問わない。

「今そっちに行くね」

 金色の髪を夕日に反射させて、マイトがこちらに向かって歩いてくる。
 強い光を放つ晴れ渡った空と同じ色の瞳が見つめているのはきっと自分の姿で、それが果穂には何よりうれしい。
 こちらからも駆けより、横に並んで肉の削げ落ちたシャープな顎のラインを見上げると、ニコリと微笑まれた。

 今日はお休みだったけれど、薄く化粧をしておいてよかったと、果穂は頭の片隅で思う。
 服装はおかしくないだろうか。
 ボトムはジーンズ、トップスは七分丈の春ニット、アウターはネイビーのジャケット。ありがちなきれいめカジュアルのつもりだけれど、こういう感じ、彼は好きだろうか。
 会えるとわかっていたら、春らしい綺麗な色のスカートにしたのに。

 何気ない風を装って、果穂は隣に歩く人の姿を見つめる。今日のマイトはいつものスーツ姿ではなく、大きめのロゴTシャツとゆるっとしたカーゴパンツというカジュアルなスタイルだった。
 痩せてはいるが骨格がしっかりしていて手足が長いため、彼はスーツがよく似合う。だが今日のようなラフなスタイルも、存外可愛い。
 そんなことを頭の中でぐるぐる考えていたら、大きな手で頭をポンポンと叩かれた。
 見上げた果穂に微笑んでから、マイトがさりげなく車道側に移動する。

 たったそれだけのことなのに、一気に顔が熱くなった。
 ああ、やっぱりこの人が好きだと果穂は思う。
 マイトは独身だと言っていたが、恋人がいないとも言われていない。
 でも、もうどうしようもないくらい彼を好きになっている。

 駅に向かって歩いていくと、前々から気になっていた焼き鳥屋の青い看板が見えてきた。以前雑誌で見かけて以来、気になっていたお店だった。
 写真で見る限りでは、赤ちょうちんとはまた違うお洒落な雰囲気のお店のようで。
 気になりながらも女一人でテーブル席のない店には入り難い気がして、敬遠してきた店である。

 藍染ののれんをくぐって、マイトとカウンターに並んで座る。
 店内は焼き鳥屋というよりは、テーブル席のない小料理屋といった造りだった。
 だがメニューはこだわりの餌で育てた国産地鶏を使った本格的な焼き鳥だ。
 マイトはこういう店にも慣れているのか、メニューを見ながらオーダーを通していく。

 日本酒だけでなく、焼酎やビール、ワインもあったが、職場の友人と行くような店にあるカクテルやサワーがない。ビールでは少し色気がない気がした。
 ワインがいいかと思ったが、焼き鳥に赤白どちらを合わせるべきなのかよくわからない。
 何を飲んだらいいのかわからず、マイトと同じ日本酒を頼んだ。

「ああ、美味しいね」

 わさび醤油で味付けしてあるささみをつまんで、冷酒をちびちびと舐めながら彼が笑む。
 たしかに醤油もたれも塩も肉そのものも、大将のこだわりがよくわかる味だった。
 
 何でもない顔で酒杯を傾けているマイトの喉仏が、軽く上下するのを見てどきりとした。いつもはテーブル席なので、二人の間にはもう少し距離がある。
 だが今日は互いの腰が触れそうなほど近い。
いつもはそうそう気づかないちょっとした動作に隠れた色気が、至近距離だとよくわかる。果穂は心に浮かんだ動揺を隠すように、一息で一杯目を飲みほした。

「ちょ……君、そんなにお酒強いの?」
「これ、美味しいです」
「……そう……それならいいけど、ゆっくりね」
「大丈夫です。おかわりください」
「うん、だからもう少しゆっくり飲もうか」
「子ども扱いしないでください。お酒の飲み方くらい知ってます」
「そうかい?」

 その後も、殆ど飲んでいない状態のマイトが心配しているにもかかわらず、果穂はビールと同じようなペースで冷酒をあおった。
 だが果穂は強い酒に慣れてはいない。三杯目の冷酒を干して化粧室に立った時にはもう、かなり足元が危うくなっていた。
 マイトが、ああとため息をつきながら額を押さえたことにも気づけない。

 化粧室から戻ってきたら、早々に会計が済まされていた。
 こういうところ、マイトはずるいと果穂は思う。
 毎回あまりにスマートすぎて、こちらが財布を出す機会すら与えてもらえない。
 ここで会計についてもめるのもどうかと思い、ごちそうさまでしたと大将に声をかけ、藍染ののれんをくぐった。

「悪かったね。少し飲ませすぎてしまった」
「大丈夫れす。そおれより今日のお会計」
「うん、それはもういいから。今度コーヒーでもご馳走して」
「いつもごちそうさまれす」

 呂律がまわらないまま必死に答え、頭を下げる。
 これで呆れられてしまったら、きっともう会ってはもらえない。
 果穂はふらふらしないよう足に力を入れて必死でふんばるが、どうにもまっすぐ立っていられない。
 よろよろとした足取りで、それでも神田川沿いまでたどり着いた時、遊歩道の段差につまずいた。
 植え込みにぶつかるその寸前、長い腕がすっと果穂を抱きとめた。そのまま肩を引き寄せられる。

 春とはいっても夜はまだまだ寒く、川沿いの風はつめたい。
 だが、果穂は一気に全身が熱くなるのを感じた。

 マイトの左手が自分の肩を支えている。果穂の身体はすっぽりとマイトの脇の下におさまり、互いの身体が密着した形になった。
 夜間の川沿いとはいえ、駅近の人通りは決して少なくはない。
 サラリーマンらしき男性数人から、すれ違いざまに冷やかしの声をかけられた。

「まったく下心がないわけじゃないけど、下心でしてるわけじゃないからね」

 冷やかしの声を受けたマイトが、明後日の方向を見ながら言った。
 その横顔が、少し赤くなっている。
 もしかして、彼も同じように緊張しているのだろうか、それとも酔いが回っただけ?
 そう聞いてしまいたいのを我慢して、家路を進む。
 酔ってくらくら回りながらもどこかひんやりしている頭に浮かぶのは、もう少しだけ一緒にいたい、それだけで。

 アパートの扉の前まできた時に、思いきってこう切り出した。

「あの、お茶でも飲んで行かれまふ?」
「え?」

 普段より2トーンくらい高い声で、マイトが答えた。その顔が深紅に染まっている。
 同時に果穂も、自分の言葉が曲解されたのかもしれないと気がついた。
 そういう意味ではなかった。急に恥ずかしくなって下を向いた。
 簡単に男を誘うような女だと思われただろうか。

「あ……変な意味じゃらくて……」
「わかってる。君はそういう子じゃないね。だからこそ、男に向かってそんなことを言ってはいけないよ」

 大きな手が頭に当てられ、そのまま優しく撫でられた。
 いつの間に買ったのだろう。マイトが冷えたスポーツドリンクをそっと差し出した。

「では今日はこれで失礼するよ。水分をたくさんとって、早めに寝ること。お風呂は明日の朝にしなさいね、危険だから」

 数歩あるいて立ち止まり、それから、と彼はくるりと振り向いた。

「先ほどのお誘いは非常に残念だ。変な意味だったら、あがりこんでいろいろサービスできたんだけどね」

 ウインクしながらそう言って、彼は足取りも軽やかに去って行った。

 扉を開けて鍵とチェーンをかけ、果穂はドアにもたれかかってそのまま座り込んだ。
 酔いのためだけではなく、胸がいっぱいで立っていられなかった。
 心がしめつけられるように苦しいのに、どこか甘くて。

 彼はわたしをどう思っているのだろう。時々一緒に食事をするだけの小娘と思っているのだろうか。若い娘の反応が面白いだけなのだろうか。それとも。

 頭をなでられたりぽんぽんと叩かれるととてもうれしいが、それは小さな子供にするようなしぐさでもある。
 立ち居振る舞いから予想できる彼の女性経験は、きっとそれなりに豊富だろう。
 あんなに素敵な人なのだから、それは当然のこと。
 もしかしたら、彼につりあうな年齢の恋人がいるのかもしれない。

 でもそれでもと、果穂は思った。
 こんなにあの人のことが好きになっている。思い返しただけで、涙ぐんでしまうほど。

 この想いは甘くて苦いお菓子のようだ。
 優しくて温かいのに、切なくてくるしい。
 この恋はビターチョコレート。
 ほろ苦いのに、心と身体がとけるほど、甘い。

2015.5.2
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月とうさぎ