1話 そばかすだらけの
スノウホワイト

 オールマイトはトレンチコートの襟を立てて、師走の喧騒の中をかき分けるように歩いていた。
 筋肉も脂肪も少ないこの身体になって以来、冬はつらい。それでも冬の街を歩くのが好きだ。この不合理な矛盾。だからこそ人生は面白い。

 幸いにして、六本木の事務所の整理は滞りなく進んでいる。
 今のところ東京とこちらを行ったり来たりだが、この調子なら三月までには完全に生活の拠点をこちらに移すことができそうだ。
 おかげでこの街にもずいぶん慣れた。
 市内の中心部も、高級住宅地が立ち並ぶ東側の地区も、そして活気あふれるこの地区も。

 この通りは「風花通り」というらしい。
 華やいだ名前とは裏腹に、この界隈は日雇い労働者の多い地域だ。
 だが往々にしてこういう街の食堂に、うまい店が隠れていたりする。そういう隠れた名店を見つけ出すのが、オールマイトの楽しみの一つでもある。
 ミシュランばかりに頼るのはナンセンス、それがオールマイトの外食に対する持論だった。

 鼻歌交じりに、オールマイトは最初に目についた定食屋ののれんをくぐる。
 あまり広い店ではない。カウンターと、少しばかりのテーブル席と。
 カウンターからもテーブルからもよく見える位置にはモニターが一台。古き良き時代によく見られた、典型的な定食屋の風景だ。
 カウンターに腰掛けると、とん、という小気味よい音と共に目の前に水が置かれる。タイミングが絶妙だった。
 見る限り大将と女将が二人で切り盛りしている店のようだ。
 これは当たりかもしれない。

「おかみさん、ここのおすすめはなんだい?」
「スタミナ定食とサバ味噌定食が人気だね」
「じゃあサバ味噌を一つ頼むよ。悪いけどご飯は少なめにして」

 この姿になってから、ずいぶんと食が細くなった。胃袋がないために一度にたくさんの量が食べられないのだ。
 少量ずつ何度かに分けて食していかないと、腸への負担が大きすぎる。おかげで一日の食事はだいたい六回。我ながら面倒なことだ。
 そう苦笑してコップの水を一口含んだその時だった。

「おばちゃん、いつものちょうだい!」

 元気のいい声に、思わずそちらに目を向けた。
 視線の先に立っていたのは、抜けるように白い肌をした若い女性だった。その頬にそばかすがいくつか散っている。色白なだけに、それが目立った。

 娘はこの店の常連らしかった。無操作にオールマイトの隣に腰掛けて、女将と会話を続ける。

「ああ、杏奈ちゃん。ごめんね。いつものはいま最後の一個が出ちゃったんだよ。スタミナならまだあるよ」
「今日はスタミナの気分じゃないんだよー。疲れてるのは体じゃないんだ」

 杏奈と呼ばれた娘がふくれっつらを作った。くるくる動く表情がチャーミングだ。

「あたしがこの一週間、どれだけここのサバ味噌を楽しみにしてきたか……」

 なに、サバ味噌? もしかして自身が頼んだのが、この娘が欲している「いつもの」とやらだったのか?
 オールマイトが冷や汗をかく。もしそうであれば大変気まずい。

「ごめんね。今日はもう来ないかと思ったんだよ」
「あー、たしかに遅くなったあたしも悪いけど、ショックだなぁ。もう絶望のどん底。来週までの一週間を、あたしどうやって乗り切ったらいいの」
「明日もやってるから、明日のお昼にまたおいでよ」
「あたしが二日連続で外食ができるような身分じゃないこと、おばちゃんだって知ってるでしょうよ。ここでお昼を食べるのは、週に一度のあたしの贅沢なんだから」

 定食屋のサバ味噌が週に一度の贅沢だとは、いまどきの娘さんにしてはずいぶん質素なんだな、この子。
 そう変なところに感心するオールマイトの隣で、サバ味噌が食べられない悲しみについて、杏奈は大げさに嘆き続ける。

「杏奈ちゃん、もうそのへんにしといたほうがいいよ……」
 
 オールマイトが感心しながら苦笑していることに気づいた女将が、杏奈をたしなめた。
 だが彼女は止まらない、そうとう楽しみにしていたのだろう。

「お待ち」

 そんなやり取りをまったく意に介さずと言った調子で、どん、という音と共に無口そうな大将がオールマイトの前にサバ味噌定食を置いた。
 大きめのサバの味噌煮が二切れと、茶碗に盛られた少量の白米と、漬物と、味噌汁と、それから小鉢に入った煮物。

 同時に杏奈の嘆きがぴたりと止まった。まあそうだろうなと思いながらも、そっと隣を盗み見る。そこで待ち受けていたのは、これ以上ないくらい気まずそうな表情だった。
 こうして見ると本当に若いな、とオールマイトは思った。
 この近辺に住む大学生だろうか。治安がいいとは言えないこの界隈に住み、定食屋でのランチも頻繁にできないなんて、きっと苦学生に違いない。

「よかったらどうぞ」

 すっとサバ味噌定食を娘の前に差し出した。娘が慌てたようすで顔をぶんぶんと横に振る。

「あっ、ごめんなさい。そんなつもりじゃ」
「よければ、私は君の頼んだスタミナ定食をいただくよ。君はこれをこの一週間楽しみに生きてきたんだろう?」
「……そうだけど……おじさん見ない顔だね。ここは初めて?」
「初めてだよ」
「じゃあ、サバ味噌は食べたほうがいいよ、ここのサバ味噌は絶品なんだ。ほかでは味わえないよ!」
「そうなのかい?」
「うん、スタミナも美味しいけどね、サバ味噌は別格。日本一おいしいサバ味噌だよ」
「そこには後ろ髪惹かれるけどね、おじさんはレディの楽しみにしていた物を譲ってやれないほど、無粋な男じゃないんだよ」
「やだー! レディだなんてはじめて言われた。おじさんおもしろーい」

 ばしりと背中を叩かれた。
 おい、お嬢さん。けっこう痛いぞ。
 食堂で血を吐くのは衛生的にどうかと思い、喀血しそうなところをギリギリこらえる。
 杏奈は少し考えて、オールマイトにたずねた。

「ね。おじさんさ、好き嫌いとかアレルギーとかある?」
「ないよ。幸いにして何でも美味しく食べられる」
「じゃあこうしたらどう? サバ味噌とスタミナを半分こするの」
「は?」

 あぜんとしているオールマイトににこりと微笑み、杏奈は女将に声をかけた。

「おばちゃん、小皿を二枚もらえる?」
「はいよ」

「杏奈ちゃん、お待ち」

 躊躇しているオールマイトをよそに、無口そうな店主の手によって杏奈の前に出来たてのスタミナ定食がおかれた。
 にらや玉ねぎやにんにくの芽と一緒に炒められた豚肉が一皿。ほかはサバ味噌と同じだ。
 そして女将がさっと杏奈の手に小皿を二枚渡した。
 色白の娘は流れるようなしぐさでスタミナ定食の半分を皿に乗せて、オールマイトの前に差し出した。
 ここまでされて断るのも野暮だろう。
 オールマイトも新しい小皿の上にサバの味噌煮を一切れ乗せた。

「これでお互いどっちも楽しめるね。サバ味噌もスタミナも美味しいから、食べてみて」
「さっきはサバ味噌の方が美味しいって言ってなかったかい?」
「ふふふ、でもね、やっぱりどっちも美味しいんだよ」

 オールマイトは手を合わせていただきます、と言ってからサバ味噌を口元に運ぶ。
 脂ののった魚がこの地域特有の味噌とうまい具合に絡まって、口腔内にひろがった。なるほど、確かにこれは美味だ。

「ん、うまい」
「でしょー」

 そう言って花のように笑んだ杏奈にどきりとした。
 よく見ると娘は器量がよかった。色が抜けるように白くて、まつ毛が長くて、化粧っ気がないのに、唇だけが妙に赤くて。
 頬に散るそばかすがなければ、まるで白雪姫のようだ。

「君は毎週ここに来るの?」
「そうだよ。毎週金曜にここにくることにしてるんだ」
「週末のお楽しみってわけ?」
「……っていうかね、あたしの仕事、週末の夜が一番忙しいんだよ。だから金曜の昼は自分を励ます意味も含めて、ここのサバ味噌を食べて元気を出すことにしてるんだ」
「まあ、確かに元気になれそうなうまさだ」
「ね。おじさんもそう思う?」
「ああ」

 大学生ではなかったのか。週末の夜が忙しいということは、飲食店にでも勤務しているのだろうか。元気そうな感じからして、居酒屋の店員かもしれない。

「あたしね、スタミナは体が疲れた時、サバ味噌は心が疲れた時に食べるって決めてるんだ」
「……心が?」

 杏奈は応える代りに陰を含ませて笑った。その顔にぞくりとするような色気を感じて、オールマイトは少し焦った。
 自分の娘のような年の、若い女だ。そういう対象ではないだろうに。本当に男の欲というものは度し難い。
 そんなオールマイトの心情に気づかず、杏奈がたずねる。

「ねえ、おじさんはなにしてる人?」
「私かい? 私は来年の四月から高校教師になる予定」
「じゃあ、今は中年ニート?」
「中年ニート……って君ねえ……違うよ。今は個人事業主をしてる。事務所は三月までには畳む予定だけどね」
「そうか……おじさん……おじさんも大変なんだね」
「は?」
「でも新しい仕事が見つかってよかったじゃない。学校の先生だなんてすごいよ。事務所のことは残念だけど、気を落とさないでね。借金とかは大丈夫なの?」
「……ありがとう。幸いにして借金はないよ」
「それは良かった。借金取りに追われる暮らしは子供がかわいそうだからね」
「いや私、独身なんだけど……」
「そうなの? 事務所がつぶれて奥さんにも逃げられちゃったの?」

 さっきからろくな想像してないな、この子。いったい私はどう見えているんだ……とオールマイトが内心でため息をつく。

「事務所の整理は円滑にすみそうだし、借金なんてないし、おまけに逃げた女房もいないよ」
「え……ごめん。おじさん痩せ細ってて、なんか幸薄そうだから」
「痩せてるからって、幸薄いなんて決めつけないでほしいな」
「ごめんなさい。お詫びにあたしのお肉一枚あげるよ。これでゆるして」
「気持ちはありがたいけどね、遠慮しておくよ」
「だめだよ。おじさん小食だから痩せてるんだよ。ご飯だってそんなにちょっぴりでさ」
「たくさん食べたい気持ちはあるんだけどね、おじさんは内臓が悪いんだ。だから食事は少量ずつ、回数を増やして取るようにしているんだよ」
「あああ、あたしったら! おじさん、重ね重ねホントごめん」

 娘は慌てた様子で深々と頭を下げた。悪い子じゃないらしい。というよりもむしろいい子だ。
 思い込みが激しいけれど、元気で、無邪気で、面白い。

「気にしなくていいよ。ところで、早く食べないとせっかくのサバ味噌が冷めてしまうんじゃないかな」
「そうだね、お互い食べることに集中しようか!」
 
 晴れやかな笑みを浮かべてサバの味噌煮に箸をおろした杏奈を見ながら、オールマイトはふと思う。
 来週も、ここに来ればまた会えるだろうか。このそばかすだらけの白雪姫に。
 変に浮かれた気持ちになりながら、オールマイトは自らも食事に集中すべく、味噌汁椀に手をかけた。


2015.10.25
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月とうさぎ