杏奈の待ち合わせの相手は、長身痩躯の中年男だ。男は名を俊典という。
週に一度、なじみの定食屋で会ううちに仲良くなった。定食屋以外の場所で会うのは今日が初めてだ。
今夜は市内で寿司を食べてから、見事な夜景で有名な高級ホテルのスカイラウンジバーに行くことになっている。
どうしてこんなことになったんだっけ? と杏奈は思う。
それは「駅の反対側に新しい高級ホテルが建つらしい」という噂話がきっかけだった。
「ホテルのレストランやバーなんて行ったことがない」と言ったら、「じゃあ私が連れていってあげるよ」と返された。
年の功であるのか、それともそういう性質なのか、俊典はさりげなく誘うのがうまかった。気づいた時にはもう、次の休み……つまりは今夜、共にでかける段取りにされてしまっていたというわけだ。
どうも困ったことになっている。悪いひとではなさそうに見えても、しょせんは男だ。
どんなにいい人に見えても、考えていることは皆おなじ。騙されてはいけない。優しいのははじめだけだ。
酔わされてホテルの部屋に連れ込まれたりしないよう、気をつけないと。
杏奈は気合を入れるつもりで、背筋をぴんと伸ばしなおした。
***
俊典は市内の夜景がよく見えるボックス席を予約してくれていた。
店内が薄暗くていやだなと思ったが、すぐにそれが勘違いであることに気がついた。
テーブルひとつひとつにキャンドルが置かれ、それに火を灯してもらえるのだ。
キャンドルの炎はゆらゆらと儚げに揺れてロマンチックな雰囲気を醸し出す。店内にゆったり流れているのは生ピアノの演奏だ。
五十二階から望む、見事な夜景。眼下に広がる煌めくネオンの海原、空に輝く凍てつくような上弦の月。それらすべてが涙が出そうなくらい美しかった。
こんな雰囲気の店に来たのは初めてだ。
「おじさん……ここ……高いよね」
「ン、まあまあかな」
「あたし、そんなに持ち合わせがないんだよ」
「そこは心配しないで。誘った時に、バーラウンジでの会計は私が持つといったろう?」
「でも……さっきのお寿司屋さんも出してもらっちゃったし」
「私が誘ったんだから、そのあたりは気にしなくていいんだよ」
爽やかに笑まれて、杏奈の背中に冷たい汗が流れる。
先ほど俊典が連れて行ってくれた寿司屋は、杏奈が想像していた店とは大きく違っていた。
寿司屋というものは回るもので、一皿ワンコイン+税金であると思い込んでいた。だから財布にはそれなりの金額しか入っていない。
けれどあの寿司屋はボタンエビの値が一貫二千円もした。回る寿司屋なら、二十皿近く食べられる。
なにより怖いと思ったのは、値段が書いていない「時価」と書いてある札がいくつもあることだった。
自分の分は支払うつもりでいたけれど、杏奈の財布の中身はボタンエビ二貫ですべてふっとぶ。
そんな状況で好きな物を頼めと言われても、そんなの無理だ。
「私が出すから大丈夫だよ」と言われても、値段が値段だけに「そうですか」と好きな物を頼むわけにもいかない。
杏奈の様子から困っていることを察したのだろう。
結局、俊典が自分の注文をする時に同じものを二貫頼んで、一つを杏奈の方に回すという実にまどろっこしい形になってしまった。
高級寿司はきっと美味であったのだろうが、時価と書かれたマグロの価格が気になって、正直食べた気がしなかった。
それがこのバーに来るまでの流れだ。これで「下の部屋をとった」などと言われたら、大変断りにくくなる。
「どうしたんだい?」
低く落ち着いたバリトンが柔らかく尋ねてきた。杏奈は答える。ごまかすように笑いながら。
「……なにを頼んだらいいかわからなくて。ビールでもいい?」
「ビールが好きならそれでもいいけど?」
「うーん、ビールはにがいからちょっと苦手かも……でも頼んだのが強かったら困るかな」
「もしかして、あんまりお酒強くない?」
「……実はそう。すぐ酔っ払っちゃう」
「ビールの苦みが好きじゃないなら、カクテルがいいだろうね。柑橘系は大丈夫?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあアメリカンレモネードなんかいいんじゃないかな。レモネードの上に赤ワインをフロートさせたカクテルだ。アルコール度はたしか3パーセント程度だったと思う」
「じゃあ、それで」
俊典の勧めでオーダーしたアメリカンレモネードは、美しい酒だった。レモネードの黄色の上に、濃い赤紫色のワインが浮かぶ二層のカクテルだ。
乾杯とうながされ、二層に分かれたカクテルとウイスキーのグラスを互いに手にして、かちりと合わせる。
「綺麗……」
「カクテルは見た目が綺麗なものが多いよね。甘かったり果汁の味がしたりするからついつい飲みすぎてしまいがちだけど、中にはアルコール度の強いものもあるから気をつけたほうがいい。酔わせて悪いことをしようと考えるような輩もいるだろうしね」
「今のおじさんがそう、って可能性もあるかもね」
「ン、まあ、そういうこともできたね」
失礼なことを言ったにもかかわらず、俊典は鷹揚に肩をすくめただけだった。
「杏奈ちゃん、酒言葉って知ってる?」
「なあに、それ」
「花に花言葉があるように、カクテルには酒言葉ってものがあってね、アメリカンレモネードの酒言葉は『忘れられない』だよ。君と私の忘れられない夜に乾杯」
にこやかにそう告げられて、先ほども合わせたはずのグラスをもう一度合わせてしまった。
生ピアノが奏でる綺麗な旋律、綺麗な色のお酒、綺麗な夜景、キャンドルの炎、それに照らされ影をつくる彫りの深い顔だち。
ムード作りという点においては完璧だ。このひと、意外と口説き慣れているのかもしれない。
「おじさん、もしかしてあたしのこと口説いてる?」
「さあ、どうだろうね」
「口説き文句にしても、今のはちょっとクサくない?」
「かもね」
俊典はHAHAHA!とアメリカンのように笑う。
「先に言っておくけど、あたし、このあと下の部屋に行くつもりなんかないからね」
「私もそんなつもりはないよ」
またしてもさらりと返された。もしかしたらこのひとには、本当にそんな気はないのかもしれない。なんだか肩透かしを食らったような、残念なような、妙な気分だ。
「ところで君さ、クラシックとかって興味ある」
「あまり……」
「そうか……参ったな」
「なぜ?」
「クラシックコンサートのチケットをもらってさ、もし興味があるんなら一緒にどうかと思ったんだけど」
「……って……」
「ん?」
「だってそういうのって、その……着ていく服もちゃんとしてないとだめでしょ?ほら、あたしこんな格好の服しか持ってないからさ。きっと場違いだよ……今もちょっと、そうかもだけど……」
俊典の服装と自分のそれを見比べながら、杏奈は眉を下げた。
今日初めて気がついたことだが、俊典はお金持ちなのかもしれない。
月曜の夜だからだろうか。俊典はいつものカーゴパンツではなく、高級感があるストライプのスーツを身につけていた。左手にさりげなく巻かれている時計は、王冠のマークの高価そうな代物だ。
高級ホテルのバーに、大型量販店のジーンズとタートルで来るしかなかった杏奈とは違う。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫だと思うよ。ただジーンズよりスカートの方がいいかもね」
「安物のワンピースとかでも大丈夫かな」
「問題ないと思うよ」
「……じゃあ……あたし行ってみようかな……曲とかあんまり知らないけど」
「本当かい? それは嬉しいな」
屈託ない笑顔を返され、きゅんと心臓が締め付けられた。
俊典はこういう笑い方をたまにする。子供のような邪気のない笑み。
それを可愛いと思うと同時に、まずいと思う気持ちがまた半分。複雑な想いは、まるで二層に分かれたアメリカンレモネードのようだ。
杏奈は思う。どんどん俊典のペースにはまっていると。
今夜どうこうするつもりはないようだが、徐々に距離を詰められていることはとても感じる。
何がまずいって、それが不快ではないことが一番まずい。
アメリカンレモネードが存外に美味しくて、続けて三杯も飲んでしまった。立ち上がった時に、足元が少しふらついた。
大丈夫かい、と支えられた肩が熱く感じた。大丈夫です、と慌てて離れる。
「少し酔ってしまったみたいだね。そろそろ帰ろう。家まで送るよ」
柔らかい声でそう告げられて杏奈は焦った。
強引にあがり込まれたりしたら面倒なことになるだろう。家を知られて、後々押しかけられたりするのもやっぱり困る。
「大丈夫だよ」
「駄目だよ。君の家、風花通りの近くだろ? 夜のあの界隈は少し危険だからね。君になにかあったりしたら大変だ」
「平気だよ」
「君をひとりで返すのは嫌なんだ。家を知られたくないのなら、ごく近くまででいいから。私に君を送らせてくれないか」
思わず、唇をきゅっとかみしめた。そうしないと我慢できそうになかったからだ。顔を見られないように下を向いて、杏奈は小さくうなずいた。
***
「あの、あたしんち……ここだから」
古い木造アパートの前で、杏奈は足をとめた。
結局、家の前まで来てしまった。離れがたくて、別れがたくて。
しんしんと冷えた真冬の夜は凍てつく寒さだ。けれどこのひとと歩いたこのひとときは、なぜかとても温かかった。
酔いどれ男の怒声と酒場女の涙にまみれたこの薄汚れた街ですら、なぜかとても綺麗に見える。
「じゃあ、私はこれで」
そのまま踵を返した俊典の後を見送っていたら、急に泣きたい気分になった。
あんな男もいるんだ。
美味しいものを食べさせてくれて、素敵なバーでお酒を飲んで、家の前まで送ってくれてそれなのに触れようともしないなんて。
唇をかみしめながら錆びた鉄階段を駆け上がって、自室の部屋の扉を開ける。
「なにかあったら大変だ……だってさ……」
玄関の扉を閉じ、ロックをかけた瞬間、我慢していた涙がぼろぼろ出てきた。
「すきになったりしちゃ、だめだよ」
涙とともに毀れた本音。
靴を脱ぐことも忘れて、杏奈はその場に座り込んだ。
「あのひととあたしじゃ住んでる世界が違いすぎるよ」
時価と書かれた札が下がる寿司屋、外資系の高級ホテル、最上階のバーラウンジ、クラシックのコンサート。杏奈には縁がなかったものばかりだ。
どうしよう、涙がとまらない。そんなもの、とうの昔に枯れたと思っていたのに。
好きになってはいけないのに。
名前を呼ばずにおじさんと呼んでいたのも、自分の中で一線を引く、そのためだったのに。
それでもやっぱり、また会いたい。
本当は、定食屋で会っているときから気づいていた。あの人と会える金曜が来るのを楽しみにしていた自分に。
今日だって、手持ちの服の中から、一番スタイルが良く見えるデザインのものを選んだ。
オフの日にはしないはずの化粧をしたり、気合が入りすぎているかと落としたり、それでもノーメイクだとおかしいかと、もう一度粉だけはたいてみたり。
相反する気持ちは二層に分かれたアメリカンレモネードのように甘酸っぱくはなく、苦くてなかなか飲み込めそうにない。
玄関の三和土でうずくまったまま、杏奈はしばらくの間泣き続けた。
それは底冷えのする、一月の、とても寒い夜のことだった。
2015.10.28
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