香りも物音もキッチンからだ。
なにごとかと身体を起こしかけ、ああ、杏奈かと息をついた。
オールマイトの家はダイニングとリビングは広い一間になっているが、キッチンはその奥にある独立した作りだ。
そのため何をしているか見えないが、音だけはダイレクトに流れてくる。
朝食でも準備してくれているのだろうか。
本当に律儀な子だと思う。
オールマイトは物音を立てないように立ち上がり、カーテンの隙間から空を見やった。目の前に広がるのは、昨夜までの雨が嘘のような茜色の朝焼けだった。
凍てつく雨に打たれ続けるような杏奈の今までの人生を思うと、オールマイトはどうしようもない気持ちになる。
これからはそんな思いはさせない。自分があの幸薄い娘の居場所をつくろう。その上に雨が降るなら、それから守る傘になろう。
もう二度と杏奈が、あんな思いをすることのないように。
昨夜、雨の中を走り去った杏奈の後を、必死で追った。
***
凍てつく雨の降りしきる中を、オールマイトは駆けていた。まるで冬に戻ってしまったような、凍りつくような冷たい雨だ。
急激な温度変化に耐えかね、走りながら血を吐いた。数人がぎょっとして振り返ったが、そんなのかまっていられなかった。
たどり着いた風花通りには、ミッドナイトの言った通り多くの女性たちが立っていた。
まだ夜は冷えるというのに、露出の多い格好をして挑発的に男を誘う女たち。
「君たち、杏奈という名の女性を知らないだろうか。頬にそばかすのある色の白い若い子だ」
けれどそれに応える声はなかった。
「その女よりあたしの方が具合がいいよ。試してみなよ」
「いいや、だったらあたしの方がいいよ。お兄さん、天国に連れて行ってあげるよ」
いくつもあがる誘いの声と、自分に向かって伸ばされる腕。
腕をからめてきた女からは、安香水と微かなアルコールの匂いがした。
「あんた、杏奈のなんだい?」
街路灯の下にいた長身の女が、そう声をかけてきた。
オールマイトはその声に覚えがあった。警察署で杏奈に「その男、あんたのヒモかい?」と声をかけた女だ。絡まる腕をさりげなく振りほどき、オールマイトは答えた。
「恋人だ」
「は! 聞いてあきれるね、自分の女にこんな仕事させて、そんなことよく言えたもんだ」
「居場所をさがしている」
「ココの女たちは、みんな多かれ少なかれそれぞれ事情をかかえてるもんだ。普通の男が中途半端な覚悟であたしたちみたいな女に手を出すと、痛い目に合うよ」
「杏奈の抱えている事情がなにかはわからない。だが私はそれごと彼女を受け入れるつもりだ」
「ふん」
女の薄茶色の瞳とオールマイトの青い瞳が絡む。少しの間にらみ合い、女がふいに目を逸らした。
「……あの子はたいてい二丁目のクイーンってラブホを利用してるよ。看板照明の一部が欠けた、しけたホテルさ」
「ありがとう」
オールマイトは女に礼を告げてまた走り出した。
女の言っていた看板の文字が欠けたラブホテルは、幸いすぐに見つかった。
フロント係に金を渡して、杏奈の入った部屋を聞き出した。若くて色の白い整った顔の街娼だと言っただけで、フロント係はすぐに杏奈だと気づいたようすだった。
客の情報を金で安易に漏らすような底辺のホテルを、そのフロント係に覚えられるほど使用してきたのかと思うと、オールマイトの胸はますます痛んだ。
***
そっとカーテンをあけて、オールマイトはぐるりと首を回した。
太陽光を浴びながらぐっと大きく伸びをすると、いたるところの関節がぱきぽきと鳴る。ソファで寝るにはやはり自分は大きすぎるなとひとりごち、台所に向かった。
先ほどから流れてくる朝餉の香りに、ないはずの胃袋が刺激されていた。
「おはよう、いい匂いだね」
「あの、朝ごはんをと思って……勝手に冷蔵庫の物を使ってしまって、ごめんなさい」
「いや、構わないよ。朝から味噌汁の香りがするっていうのはいいね。ありがとう」
驚いたことに、杏奈はご飯を鍋で炊いたようだった。いまどき、鍋で米を炊ける若い娘がいるなんて。
用意してくれた朝食に箸をつけ、オールマイトは再び驚く。
「……うまい……魚もお浸しも味噌汁もご飯も、ぜんぶ美味しい。君、料理上手だったんだな」
「ありがとう」
ぱあっと花が咲くように杏奈が微笑んだ。
昨夜、一度も見られなかった笑顔だ。もっともっと笑ってほしい。そのためには、何をしたらいいだろう。
そんなオールマイトの思いに気づいているのかいないのか、杏奈は続ける。
「昔ね、とても美味しい定食屋さんで働いていたことがあるんだ」
「もしかして、サバ味噌のあの店かい?」
「うん。そこで大将と女将さんに少し教わったの」
「なるほど、だからこんなに美味いのか。君が料理上手とわかったところでひとつ提案があるんだけど、聞いてくれるかい?」
「なに?」
「風花通りのアパートは、このままひきはらったらどうかな」
「え?」
「見ての通り、我が家は一人で暮らすには少し広すぎるんだ。だから一緒に住まないか? もちろん君が嫌がるような真似はしないよ」
「でも……」
「ただで世話になるのは気が引けるというのなら、私のためにこうして食事を作ってくれないか」
それでも、杏奈は浮かない顔だった。
嫌なのだろうか。借金以外にも何か事情があるのだろうか。
だがそれでも、絶対にあの街には帰さない。帰したくないとオールマイトは思った。
「私はこれから仕事に行くから、そのあいだゆっくり考えておいて。今日は残業なしで帰れるんじゃないかと思うんだ。それから、弁護士の先生に来てもらえるよう手配しておく。借金関係の書類があるだろうから、午後までにそれだけ用意しておいて」
反論の余地を与えないよう一息でそう告げて、これは合いカギ、とカードキーを渡した。
「俊典さんは、あたしがこの家にある金目のものを持って逃げちゃうとか考えないの? それでもいいの?」
「あー、それは困るなぁ」
「それだけ?」
「そうだな、とても悲しいよ」
「困るとか悲しいとかじゃなくて、あたしがそうすると思わないの?」
自身がオールマイトだとわかってしまいそうな物は、昨夜杏奈が風呂に入っている間にすべて納戸にぶち込んで、ロックをかけた。
だが俊典名義の通帳などの貴重品はそのままだ。引き出しの中をあされば、きっとすぐに見つかるだろう。けれど、そこは全く心配していなかった。
「うん、君はそんなことはしない」
「なんでそんなことが言えるの?」
「本当にそうするつもりの人間は、そんなことをわざわざたずねたりしないからさ」
ハイ、この話題もう終わり、と杏奈の頭を一撫でして立ち上がる。
もう少しこうしていたいが、そろそろ支度をしないと間に合わない。生徒たちはまだ春休み中だが職員は違う。本日付で雄英の教師としての正式な辞令が下りるのだ。そんな大事な日に遅刻する訳にはいかない。
不意にいたずら心が湧いてきて、オールマイトは口角を上げた。
「ああ、そうだな。じゃあ悪いことができないように魔法をかけてしまおうか」
え? と顔を上げた杏奈の額に口づけを落とす。
「頼むからいい子でいてくれよ、ハニー」
自分に出せる精一杯の甘い声でささやくと、白いはずの肌を真っ赤に染めて、杏奈はこくりと頷いた。
***
帰宅したとたん、うまそうな匂いが鼻腔に飛び込んできた。
明かりのついた部屋はそれだけで暖かそうに見える。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
「ご飯とお風呂、どっち先にする?」
「んー、お腹がすいたからご飯かな」
新婚夫婦のようなやり取りに、少しむず痒いような、照れ臭いような気持ちで返事をした。
「俊典さん、なにが好きかわからなかったから、サバ味噌にしちゃったんだ」
ご飯をよそいながら杏奈が笑う。
夕餉はサバの味噌煮とひじきの煮つけとブロッコリーのおかか和え、それにミョウガの浅漬けだった。汁物は豚汁だ。
こじゃれた料理を好むことがあっても、結局のところ、男はこういったおふくろの味に弱いものだ。平和の象徴などと言われていても、その辺りはオールマイトも普通の男とかわらない。
「美味しいね。あの店のサバ味噌と同じ味がする」
「大将にはまだまだかなわないよ。でも口にあったならよかった」
愛しい、とオールマイトは思った。
おかえりと迎えてくれる人がいる。
テーブルに並ぶのは愛情のこもった温かくて美味しい料理。
こんなに幸せなことがあるだろうか。
ヒーローは孤独であるべきと、こうした平凡な幸せに背を向けて生きてきたけれど。
「弁護士さん、来てくれたよ」
「へえ、どうだった?」
嬉しそうに告げた杏奈にオールマイトは笑んでいらえる。担当弁護士から報告は受けていたが、そこは方便。黙っているにしくはない。
弁護士には謝礼のことも含め、話をつけておいたのだ。
顧問弁護士との契約はあくまでもオールマイトが結んだものだ。だから無料相談の対象はオールマイトとその家族に限られる。
つまり杏奈の件には相談料が発生するのだ。だが、オールマイトは一言も嘘はついていない。
『顧問弁護士がいるから大丈夫』と言っただけだ。ただそこに『費用は私が払う』という言葉を意図的に付け加えなかった、それだけだ。
「うん……俊典さんが言った通りだった。あたしお金を払い過ぎてたんだって。法律にのっとって払い過ぎたぶんを計算してもらったら、借りたお金が帳消しになっただけじゃなく、少しもどってくるみたい」
「そうか、それは良かった」
「すべての処理が終わったらまた連絡くれるって……俊典さん、ありがとう」
よかったなと言ったその時、オールマイトは部屋の隅に見慣れない大きなバッグが置いてあることに気がついた。きっと杏奈のものだろう。
「ところで、朝に話したこと、考えてくれた?」
「うん……先のことが決まるまでお世話になってもいい?」
「もちろんだよ。こんなに美味しいご飯が食べられるなら、ずっといて欲しいくらいだ」
ありがと、と小さく杏奈は呟いた。
だが今夜はもう一つ、難関が待っている。
「あの……あたしが今日はリビングで寝るよ」
やっぱりそうきたか、とオールマイトは思った。
変に律儀なこの子は、そう言うだろうとわかっていた。
かといって、一緒に寝ないかという言葉をかけるには、まだ時期尚早であり、かつ不謹慎であるような気もする。
たった一つの真実が、オールマイトの中にある想いを微妙に変えてしまっていた。
それは心変わりからくるものではなく、『遠慮』という名の変化だった。
「リビングで寝るのは私だよ」
「そうはいかないよ。ここは俊典さんの家なのに」
「だめだ。女性をソファで寝かせるわけにはいかない。明日には布団を一組用意するから、今夜は寝室で寝てくれないか」
「でも……」
「杏奈、私がそうして欲しいんだ。私はね、君がここに来てくれただけで嬉しいんだよ」
オールマイトはテーブルの上の白い手に、自分の骨ばったそれを重ねた。杏奈の頬が朱に染まる。
不思議なものだ。さんざん唇を重ねてきたのに、手のひらと甲を重ねるだけで、こんなに胸が苦しくなるなんて。
知りたくなかった真実を目の当たりにして遠慮はしても、杏奈に対する愛しさは変わらなかった。否、反対に増している。そんな気がする。
杏奈の上に雨が降るなら、それから守る傘になる。その上に春の陽だまりのような日々が訪れるまで。
そう思いながら「愛しているよ」と囁くと、杏奈はほろりと涙をこぼした。
2015.12.2
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