10話 揺れる朧月

 霞がかった夜空に、月がおぼろげな姿を見せていた。今にも霞の中に溶けてしまいそうな儚いその光はどこか切なく、杏奈の感傷を刺激する。
 あのひとは、きっとこんな月も好きだろう。きれいだねと笑いながら、今にも消え入りそうな儚い姿を愛でるだろう。あのひとはそんな、優しいひとだ。

 俊典の家に世話になり、早、半月が過ぎた。だがこの半月間、俊典は一度も杏奈を性的な意味で抱こうとはしない。
 抱きしめられて、愛の言葉をささやいてくれることはある。優しくキスをしてくれることもある。けれどこの家に来たその日から、俊典から与えられるキスが官能を含むまぬものになっていることに、杏奈は気づいていた。

 俊典が自分のことを愛してくれていることはわかっている。けれど、心の奥の深いところで、俊典は杏奈を赦してはいない。そんな気がした。
 女の過去を手放しで受け入れられる男はそうそういない。愛情があればなおさらに。

 相手のこころが見えない今の関係は、あの空に浮かぶおぼろげな月のようなものだ。綺麗だけれど、いつ闇の中に消えてしまってもおかしくはない、儚い月。

 ふうとため息をついたその時、携帯が鳴った。
 液晶画面のなかには、「今から帰るよ」との表示が光る。
 俊典はまめだ。学校を出る時に、彼は必ず連絡をくれる。大抵の場合、そこからきっちり30分で、家のチャイムが鳴らされる。

 俊典の帰宅時間に合わせて食事が出せるよう、杏奈は炊飯用の鍋に火をつけた。

***

「君も少し飲むかい?」

 尋ねる声に、杏奈は頷いた。
 風呂上り、珍しく俊典がワインを開けた。フルボトルではなくハーフボトルの白だった。

 フルートグラスに白いワインと透明なサイダーが注がれていく。背が高く細いグラスの中に揺蕩う淡い金色のお酒は、少し俊典に似ている。
 そこで杏奈は気がついた。二人でお酒を飲むのは、この家に来てからは初めてだ。

「どうぞ」
「ありがとう」

 目の前に差し出された美しいカクテルは、白ワインをサイダーで割ったスプリッツア―。アルコールに強くないと伝えたあの夜から、俊典は弱いお酒しか勧めてこない。
 俊典はやさしい。この優しさが杏奈はときおり怖くなる。

「そういえば、お酒を飲むのって久しぶり? あたしがここにきて初めてだよね」
「そうだね、ほんの少しなら大丈夫かと思ってさ」
「……やっぱり内臓によくないの?」
「ん。できれば飲まないほうがいいみたいだね……でもやっぱり完全にお酒がない生活もちょっと味気ないしね、たまにたしなむ程度なら許されてるよ」

 だからこれまで、家では飲まなかったのだろうか。
 でも……と杏奈は思った。
 キャビネットにはお酒をたしなむためのグラスが数多く収納されている。数種のワイングラスに、ウイスキー用と思われるショットグラスやロックグラス、果ては日本酒用のガラス製の猪口まで。

「家では飲まない割には、お酒のグラスがたくさんあるよね」
「いや、家で飲まないわけじゃないよ。ただアルコールが入ると、自制がきかなくなるだろ。だから最近は控えてた」
「自制? 自制ってどういうこと?」

 あっ、と俊典は顔を赤らめた。長い腕をわたわた動かしながら彼は続ける

「や、そうじゃなくて……なんでもないんだ。ウン。そうじゃない」
「自制って?」
 
 もう一度尋ねると、俊典は右手で顔を覆った。大きな手の隙間から見える肌の色は、見事なまでに赤く染まったままだった。

「……その……私が君に……イケナイことをしてしまわないようにとか……そういうことだよ」
「いけないこと?」
「たとえば私が君に性行為を強要したりしたら、君は困るだろう?」

 ふっと息をついて、俊典は顔からワイングラスに右手を移動させた。先ほどまでの慌てふためいた姿とはまた別人のように落ち着いて。

「アルコールが入ると、判断力が鈍るし我慢もしにくくなくなる。もちろん、君が嫌がる事はしないつもりでいるけど、用心するのに越したことはないからね」
「俊典さんはそんな風に思ってたの? あたしのこと抱きたいって」
「あたりまえじゃないか。前にも一度誘っただろ?」
「あの時は、あたしがあんなことしてるなんて俊典さん知らなかったから……ここに来てからは一度もそんなそぶりなかったし……誰とでも寝る汚い女とは寝たくないのかと……そう思ってた……」
「そんなわけないだろ!」

 思いのほか強い声に杏奈は思わず身を強張らせた。それに気づいたのだろう。俊典が、ごめん、と小さく呟いた。

「今の状況で私に求められたら、君は断りにくいだろ。だから言うのを控えてた。それだけだよ」

 そんなことまで気遣ってくれていたのか……目前のフルートグラスが涙ににじむ。
 本当に、このひとといるといつも泣いてばかりの辛気臭い女になってしまう。まるで前世紀の歌謡曲に出てくる女みたいに。

「君を気遣ったつもりだった。すまない、反対に傷つけていたのか」

 俊典の長い腕が、後ろから杏奈を包み込んだ。どきり、と心臓が跳ね上がる。耳元に注ぎ込まれたのは、艶を含んだ低い声。

「いいかい?」
「……うん……」

 そのままひょいと抱き上げられて、寝室まで運ばれた。
 同時に額に落とされた口づけは、触れるだけのものだ。それなのに俊典のくちびるが優しく触れた箇所が、燃えるように熱かった。

「なんか緊張するね」

 うんと頷きながら、杏奈は少し驚いていた。
 男のひとも緊張するんだ。
 女を前にした男は、皆自らの欲を吐き出すことだけしか考えられないのかと思っていた。

 杏奈はひとつ、大事なことを思い出して口をひらいた。

「あのっ、お願いがあるんだけど」
「なに? 避妊だったらちゃんとするよ」
「ありがとう……それもあるんだけど、実はあたし……その……アレ使わないとだめなの……」
「あれ?」
「不感症っていうのかな……よくわからないけど……その……潤滑剤使わないとできないんだよ……」
「……」
「俊典さんがだめとかそういうんじゃなくて……そういう体質みたいなの……だから手持ちのジェルを使ってもいい?」

 潤滑剤は客と寝る時にこっそり使っていたものだ。だからだろうか。手持ちの、と言った時、俊典は悲しそうな顔をした。

「あっ、あの……嫌ならいいんだ……変なこと言ってごめん……」
「いや、そうじゃない。もちろん使っても構わないよ。持っておいで。ただ最初からは使わないで、ダメだったら使う方向でもいいかい? とりあえずは私に任せてもらいたいんだ」
「あっ……あともうひとつ……」
「……なんだい?」
「あの……あたし、はじめてなんだ……だからあの……ヘンなことしたらそれはヘンだって教えてくれる?」
「エ?」
「もちろん、男と寝るのが初めてってことじゃなくて……その……好きな人とするのが初めてなんだ……だから……その……普通はどうするのかよくわかんなくて……」

 俊典の顔が再び曇った。余計なことを言っただろうか、重たい女と思われただろうか。

「……引いた?」
「いや。光栄だ。だったら尚更、私に任せてくれないか。君は私に合わせてくれればいいから」

 そう微笑んだ俊典の向こうで、霞に覆われた朧月が、なおいっそう儚く輝いていた。

***

 朧月の夜をきっかけに、俊典の腕の中で眠るのが日課になった。潤滑剤は、結局一度も使っていない。

 何人もの男が杏奈の上を通り過ぎて行った。それこそ数えきれないほど。
 男と身体を重ねることは、苦痛でしかなかった。
 だが杏奈は俊典に抱かれて初めて知った。好きな男に触れられるということが、どれほど甘美な悦びを女の体に与えるか。

 しあわせだ、と杏奈は思う。
 だがそれと同時に、とてつもない不安が押し寄せてきてそれに押しつぶされそうになることがある。
 幸せであることがこんなにも怖いなんて、守られるということがこんなにも不安なものだなんて、冷たい雨に打たれ続けていたころには思いもしなかった。

 得てしまった幸せを、失うことがとても怖い。

「それなのに……どうしよう……」

 杏奈は綺麗に洗われ乾燥まで済んだ食器を食洗機から出しながら、先ほどのやり取りを思い出していた。ぽかぽかとした日差しのはいるダイニングで、朝食を食べ終えた俊典は静かにこう言ったのだ。

「ご馳走様。君の作るご飯は本当に美味しいよ。いいお嫁さんになるだろうな」

 このひとは何を言っているのだろう、と正直思った。お嫁さんというのは真っ当な暮らしをしてきた人しかなれないものなのに。

「お嫁さんだなんて……」
「ああ、今の子はそういう感じじゃないのかな。料理上手の女性イコールいいお嫁さんだなんて、おじさんの古い考えか」
「そうじゃなくって、あんなことをしてた女、もらってくれる人なんかいないよ」
「私はもらう気まんまんだけど? 君さえよければ」

 驚いて、食器を片づけようとしていた手がぴたりと止まった。

「え?」
「ン。そのままの意味だけど。まあ君は若いからね。今すぐにとは言わないよ」
「そんな……むりだよ」
「無理かい?」
「だってあたしみたいな女……」
「そういう言い方はやめなさい。君は私の大事なひとなんだから」
「それだけじゃないよ。あたしばかだから……」
「私は君をばかだなんて思ったことはないけどな。君は美しい音楽を美しいと思える感性を持った、綺麗な心の女性だよ」
「でもあたし、前も言ったけど高校も出てないし、個性もとりえもないんだよ」
「君には個性なんかなくたって、いいところがたくさんあるよ。それに学歴がすべてじゃない。でももしも君がそれを気にしているのなら、通信制や定時制の高校に通うという手もある。いいかい。七十歳を過ぎて大学に入った人だっている。やり直せない人生がないのと同じように、学ぼうとする気持ちに手遅れなんてないんだ。私はそれをいくらでも手助けするよ」

 どう返していいかわからなかった。冷たい雨に打たれ続けてきたからだろうか、手の中から溢れてしまうほどのあたたかな幸せをどうしていいかわからない。
 わかっているのは、自分がそれを失うことを異常に恐れているということ、それだけだ。

「さっきも言ったように、君はまだ若いから今すぐにとは言わない。ただ、いずれそうなれたらいいと私が思っていることだけ、知っておいてくれないか」

 俊典はそう優しい声音で告げ、静かに席を立った。

 それが、つい先ほどの出来事だ。
 あれはどう考えてもプロポーズだ、と杏奈はため息をつく。
 強固なセキュリティだけでなく、プールやバー、一戸に一台ずつのエレベータまで完備された高級マンションに住めるような人が、街娼だった女に求婚する。
 これ以上ないシンデレラストーリーだ。

 それなのに、ただひたすらに怖かった。

 自己肯定感のない杏奈にとって、自らの価値が肯定されることすら恐れの対象であったのかもしれない。
 俊典がどんなに優しくしてくれても、どんなに認めてくれたとしても、杏奈は自分に自信が持てない。自分を支える芯のようなものがないからだ。

 どうしたらいいのだろう。これからのことをどう考えていったらいいのだろう。

 杏奈はその白い面に困惑と憂いを浮かべ、ただ立ち尽くした。その姿は霞がかった空で朗々とした美しさをたたえていた、あの夜の朧月にとても似ていた。


2015.12.6
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月とうさぎ