「いいけど、ちゃんと前を見て走らないとまた転ぶぞ」
小さな子供のように駆けだした杏奈にいらえた、オールマイトの頬が緩んだ。
昨年の秋に調理師免許を取得した杏奈は、約束通りオールマイトの家から三駅先の定食屋に通っている。互いの仕事が休みになる月曜祝日は、こうして郊外に出かけることが多い。
子供時代に家族で出かけた経験のない杏奈は、テーマパークが好きだった。有名どころだけでなく、幼稚園児が遠足で行くようなフラワーパークや公園でも、連れていくととても喜ぶ。
本日おとずれたのは、どちらかといえば後者のタイプだ。広場に植物園が併設されただけの、親子連れが多い公園。
「俊典さん、早く乗ろ!」
池のほとりでボートの大きさを確認し、杏奈の乗りたがっていた足こぎボートではなく、昔ながらの手漕ぎボートを選んだ。
痩せてはいるが、二メートルを超すオールマイトの体重はそれなりに重い。長身痩躯が乗り込むと、手漕ぎボートが大きく揺れた。
「わあ、ボートって思っていたより揺れるんだね」
「私、無駄に大きいからね」
「大きいひとってカッコいいと思うよ。ぜんぜん無駄なんかじゃないよ」
「ありがとう」
オールマイトは心からの笑みをかえした。
どこに連れて行っても楽しい。何を食べても美味しいと言う。こんな痩せ衰えた姿すら、カッコいいよと褒めてくれる。
そんな杏奈といるだけで、心の底から癒される。
「それにしても池が凍ってなくて良かったな。凍っていたらボートには乗れなかった」
「あっ、そうだね。その場合はスケートとかできたのかな?」
「いや、このあたりで天然のリンクは難しいんじゃないかな」
答えながらゆっくりとボートを漕ぎ始めると、杏奈はまた嬉しそうな声を上げた。
「わあ、進んだ」
「そりゃあ、漕いでいるんだから進むさ」
凍ってはいないものの、冬の水場はたいへん寒い。だがオールマイトは寒さを感じないくらいあたたかな幸せを感じていた。
「この下に鯉がいるよ!」
「ここ、藻がすごい!」
見るものすべてが珍しいのか、杏奈は小さな子供のようにはしゃぎ続ける。
だが、急に何かに気づいたようすで、すまなさそうに頭をさげた。
「ごめん……俊典さんにばかり漕がせちゃって……疲れない?」
「大丈夫だよ。見ての通り痩せても枯れてもいるけれど、私はオールマイトだよ」
おどけたようにそう言うと、杏奈はほっとしたような顔をした。オールマイトは続ける。
「それに杏奈はスワンのボートに乗りたかったんだろ? こっちこそ謝らなくちゃだ。足がつかえてボートが漕げなかったなんて、笑い話にもなりゃしない」
「ううん、あたし俊典さんと一緒に乗れるならどのボートでもいい。だから今はすごく楽しいんだよ」
「君はどこに連れて行っても喜んでくれるから、私も嬉しいよ」
「だって……俊典さんの連れて行ってくれるところはホントにどこも楽しいんだもん。初めてのことばかりだし」
「ようし。じゃあ、これからも君の『初めての楽しい体験』は、すべて私がいただくぞ」
「え?」
「初めてボートに乗る相手が私なら、初めてコアラを一緒に見るのも私だ。イチゴ狩りも潮干狩りもキャンプも、君がしたことがないレジャーをぜんぶ経験させてやる」
杏奈は嬉しい、と答えてから、ふふっと笑った。
ああ、なんて可愛い私の白雪、とオールマイトは思う。
初めて会った時と変わらぬ、白い肌に赤い唇。目を伏せると、長くて黒いまつげが眼元に優雅な影をつくる。
『私の白雪姫』
オールマイトは臆面もなく、杏奈のことをたまにそう呼ぶ。
半年前まで、杏奈の頬にはたくさんのそばかすが散っていた。それが薄くなり始めたのはいつからだろう。
オールマイトがそれに気がついたのは、杏奈が調理師免許を取得した頃だった。
思春期を超えてもそばかすが消えない原因はいくつかある。
先天的なものもあるだろうし、紫外線によるものもある。栄養不足や睡眠不足、そしてストレスもその一因であるという説もある。
杏奈の場合、あの仕事によるストレスが大きな原因であったのではないかと、オールマイトは推察していた。
「なに?」
ずっと見つめていたからだろう、杏奈が不思議そうに首をかしげた。ゆっくりボートを漕ぎながら、オールマイトは答える。
「私の白雪姫があんまり可愛いから、見とれてたんだよ」
「もう、恥ずかしいこと言わないでよ。俊典さんの周りにはあたしなんかより綺麗なひとがいっぱいいるでしょ」
「いや、君が一番だ」
「もう!」
恥ずかしそうに顔を覆う杏奈の顔をじっと見つめた。幸せそうな笑顔を見るたび思うのだ。
ああ本当に、この子を助け出せてよかったと。
「公園の中もぜんぶ回ったし、ボートから降りたらこの近辺を少しドライブしようか」
「えっ……でも……俊典さん、疲れてない?」
「ぜんぜん」
軽くウインクしながらそういらえると、杏奈は白い花がひらくように、やわらかく笑った。
***
車窓を過ぎていく景色は、和やかな田園風景だ。大都市である市内ではなかなかお目にかかれない、のどかな光景。
整備された公園の代わりに広がる畑や田んぼ。連立するビルの代わりに見えるのは、山々の稜線。
たしかこのあたりには、古民家を改築した宿があったはずだ。美味しい郷土料理を出してくれる素朴な民宿。次の休みにでも泊まりに来ようか。
杏奈はきっと喜ぶだろう。
「俊典さん見て、あっちの山の上、雪がたくさん残ってる」
「あっちに吊り橋が見えるよ。この間の吊り橋とどっちが揺れるかなぁ。あれ、怖かったよね」
杏奈はドライブの経験もなかった。
そんな杏奈と車で出かける時は、できるだけ高速道路を使わず一般道を通ることにしている。途中、杏奈が喜びそうなものに出会った時、立ち寄ることができるように。
「ねえ、俊典さん。あれなに?」
杏奈の声に視線をずらすと、そこでは珍しい光景が繰り広げられていた。
何が植えてあるのかわからない、土ばかりの畑。
その広い畑の中を、数人が横一列に並んで少しずつ前方へと移動している。
道路の端に車を止め、オールマイトは眼を細めた。
「降りて見てみるかい?」
「うん!」
車から降りるなり、杏奈が「寒っ!」とコートの前をかきあわせた。陽が落ち始めているからだろう、先ほどよりもぐっと気温が落ちている。
一度外したマフラーをそれぞれ巻き直し、どちらからともなく寄り添った。
「あれ……なにしてるんだろうね」
「ああ、あれはたぶん、麦踏みだ」
眼前で繰り広げられているのは早春の麦踏み。晩秋から春にかけて行われる、麦の若芽を足で踏みつけていく作業だ。
「話に聞いたことはあったが、見るのは私も初めてだ」
「麦踏み? 踏むの? 麦を? わざわざ?」
「麦は踏まれれば踏まれるほど、強く逞しくなるらしいからね。ああして新芽を踏んでいくことで、根張りをよくして麦の成長を促す……と何かの本で読んだな」
「ふうん……踏まれたら……麦も痛いだろうにね」
杏奈は少し悲しそうな顔をした。
「かわいそうだね。麦だって踏まれてまで強くなりたくはないだろうに。優しく育てられて、弱いままの方がいいかもしれないよ……そのままじゃ商品にならないのかもしれないけど……人間の勝手で踏まれる麦はかわいそうだ」
杏奈は自分の人生と麦を同化しているに違いない。
いま踏みつけられている麦は、確かにかつての杏奈そのものだ。
「うーん。でも踏んで強くしておかないと、今度は病気にやられちゃったりするんじゃないかな。詳しいことはわからないけど」
「ああそうか、そういうことなんだね」
納得したようにうなずきながらも、杏奈はまだ悲しげだった。
オールマイトは思う。
杏奈、君はきっと、踏まれずとも心根の美しい女性になったことだろう。
けれど数々の悲しみを経験したからこそ、おそらく今の君がある。
あれほどの苦難のなかにあっても、前を見つめてまっすぐに生きようとしていた君は、強くたくましく伸びようとする、麦の新芽のようだった。
「暖かくなったら、また見に来ようか。近くに美味しい郷土料理を出す民宿もあるし」
「え?」
「春にはきっと、ここら一面が緑の麦畑になっているはずだ。きっと壮観だろうな。甘やかされた温室育ちの花よりも、踏まれて育った麦の方が美しく見えることもあるからね」
杏奈は何も答えずに、下を向いてオールマイトのダウンジャケットの裾を握りしめた。
オールマイトも、そのまま杏奈の肩を引き寄せる。
今踏まれているあの麦は、きっと、太陽に向かってまっすぐ伸びていくことだろう。光を受けて輝く、見事な緑の穂をつけることだろう。
「杏奈。君のことは私が守るよ」
やっぱり何も答えずに、杏奈はオールマイトにしがみつく。
言葉などいらない。
艱難辛苦を乗り越えて、それでもまっすぐに生きようとした、この娘がただひたすらに愛しかった。
もう二度と、何者にも君を踏みつけさせやしない。なにがあっても離さない。
杏奈の髪をくしゃりと撫でて、オールマイトは心ひそかにそう誓う。
2016.2.5
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