実際問題、こう暑いとドライヤーをかけるだけで汗だくだ。せっかく風呂に入ったのに、また汗まみれになったんじゃ意味がない。
ヒーローを事実上引退した今となっては、外見のイメージが多少変化してもたいして問題はないだろう。いっそのこと短髪にでもしてみようかと思いつつ、ミネラルウオーターを片手にリビングに戻った。
珍しく、杏奈はテレビ画面にくぎ付けだ。オールマイトは少々面白くない気分で、杏奈の視線の先を追う。
そんな熱い目で、いったい誰を見ているんだよ。線の細い美少年アイドルか、それともつるりとした肌のイケメン俳優か。
だが、オールマイトの予想に反して、画面に大きく映し出されていたのは、怪我が原因でタレントに転向した元プロヒーローだった。逞しい身体と素朴な笑顔で、彼は今でもそれなりに人気がある。
……そうではあるのだが、なんだかどうにも腑に落ちない。
「素敵……」
「え? 君、こういうタイプ好きだったっけ?」
うっとりとため息をつかれ、オールマイトは目を剥いた。
杏奈はたしか、マッチョな男は好きではないと言っていたはず。それなのに、いったいどういうことなのだろう。
「あっ、違うの。このご夫婦って本当に仲がいいでしょ。結婚してずいぶん経つのに、いつまでも愛情を持ち続けているのがほんとうに素敵だと思って」
慌てたように言った杏奈にそうかと答え、安堵の息をついた。
ワイプにうつっているのは、男の妻。この妻もヒーローだ。杏奈の言うとおり、このふたりは有名なおしどり夫婦。
ふむ、と思いつつ、オールマイトも画面に注視する。
どうやらこの番組は「大切なあの場所で待っています」という一枚のメモを元に、妻の居場所を探すというものらしい。
絶対ここだと自信満々に向かったのは、夫婦が初めて出会った場所。だが、そこに妻はいなかった。
その後も彼は、東京、名古屋、大阪、そして双方の母校である士傑高校と、さまざまな場所を汗だくで歩き回る。しかしそのどこにも妻はいない。彼は頭を抱えながらも、必死で妻の居場所を考える。
「意外とわからないものなんだね。お互いにとっての大切な場所に、こんなに大きなずれがあるなんて」
杏奈の言葉に、そうだな、と返しながら、オールマイトは密かに思う。
長年連れ添っていても、どんなに愛し合っていたとしても、意外とそんなものかもしれない。相手のことをわかったつもりでいても、全て知ることなどできはしない。
だがだからこそ、誰かに恋をし、人を愛することは尊い。
そして同時に、オールマイトは、自分と杏奈にとっての大切な思い出の場所はどこだろうか、と考えた。
自分にとっての思い出の場所と、杏奈にとっての思い出の場所。それはぴたりと合うだろうか。それともやはり、大きくずれてしまうのだろうか。
俄然興味が湧いてきた。試してみたい。
この番組と同じことをしたならば、杏奈はどこで待っていてくれるのだろう。
「なあ、杏奈」
「なあに?」
「これ、うちもやってみようか?」
すると杏奈は、ほんの少しだけためらいを見せた。
「でも俊典さん、忙しいでしょ?」
「最近はそうでもないんだよ」
今のところ、休みはカレンダー通りとなっている。もちろん、かつての平和の象徴としてメディアに顔を出さねばならないこともあるが、以前ほど多忙であるわけではない。
「楽しそうじゃないか。次の休みにでもやってみようよ」
「……」
「それまでに、君にとっての『大切なあの場所』を考えておいてくれ」
やや強引にそう告げると、不安そうな顔をしたまま、杏奈は静かにうなずいた。
***
そして日曜の朝がやってきた。
オールマイトの顔を杏奈は不安そうに見上げる。こうした表情を見るたびに、そんな顔をしなくてもいいんだと抱きしめたくなる。
「俊典さん」
「ン? なんだい?」
「『あの場所』がどこでも、ぜったい怒らない?」
「怒るわけないじゃないか。だってそこは、君にとっての大事な場所なんだろう?」
うん、とちいさく杏奈がうなずく。
「君も、私が当てられなくても怒らないでくれよな」
「怒ったりするわけないよ」
「そういうことだ。君も私も怒らない。それでいいかい?」
頭をぽん、とたたくと杏奈が笑った。
白い花のような笑顔だった。そばかすだらけの私の白雪――そう言いかけて、オールマイトはふと気がついた。
杏奈の頬に散っていたそばかすが、ずいぶんと薄くなっている。いつからだろう。今までぜんぜん気がつかなかった。
「俊典さん」
「ああ、ごめん。なんだい?」
「時間を決めさせてもらってもいい? まだ暑いでしょ。熱中症になったりしたら大変だから」
「わかった。じゃあ三……いや、二時間して会えなかったら終了だ」
時間を短くしたのは、三時間と言おうとした瞬間、杏奈の顔が不安に歪んだからだ。
杏奈とは、まだそんなに遠出をしたことがない。行ったことのある場所をすべてめぐったとしても、二時間あれば楽勝だろう。
しかし杏奈も心配性だな、と心の中でため息をついた。
番組で東京都と士傑を往復していたヒーローに比べれば、場所の範囲は狭いのに、なにを心配しているのかわからない。
「じゃあ、君が先に出て。十分ほどしたら私も出るから」
「うん」
杏奈はグレーのスニーカーの紐をきゅっと結んで、玄関の扉をあけた。
***
九月の頭の日中は、まだまだ残暑が厳しい。
じりじりと太陽光に後頭部を焼かれながら、日傘とまではいかなくてもせめて帽子をかぶってくればよかったと、心の中でひとりごちた。
だが目的の場所はもうすぐだ。
オールマイトが見当をつけていたのは、駅前の南口公園。星降るような枝垂れ梅の樹の下で、ふたりは初めてキスをした。
きっと、杏奈はあそこにいるはずだ。
この角を曲がれば、杏奈がベンチに座る姿が見えてくる……はず。
ところが、そこに杏奈はいなかった。
「あれ、違ったか……」
自信満々でいた予想が外れ、思わず声が漏れてしまった。
念の為にと公園内を一周ぐるりと回ってみたが、杏奈の姿は見つからなかった。
本日の満月枝垂れは、今にも落ちてきそうな可憐な花ではなく、もさもさとした緑色の葉をつけている。
日よけとしてはあれでいいのかもしれないが、そろそろ選定した方がいいんじゃないのか。そんなどうでもいい感想を抱いて、オールマイトは公園を後にした。
「じゃあ、きっとあそこかな」
あの場所は、いわばふたりの原点だ。
次なる目的地は、杏奈と初めて出会った定食屋だ。風花通りの狭い店だが、味はいい。杏奈はきっと、そこにいるに違いない。
ところが、そこもはずれだった。
いったん駅に戻り、待ち合わせに使っていた金時計の前を通った。寿司屋やホテルのバーにも足を延ばし、コンサートホールにも足を延ばした。最後に向かったのは、杏奈の職場のすぐ近くにある神社だ。そのいずれにも杏奈の姿はない。
九月の神社は夏祭りの時とはまた違う雰囲気だった。木々が生い茂り、蝉の鳴き声がやけにうるさい。
響き渡る蝉の声は、体感温度を二度ほど上げる。
もうお手上げだ。ギブアップ。
空気を飲み込まないよう気をつけつつ、ペットボトルの飲料を一気飲みして、オールマイトは大きくため息をついた。
どこだ。いったい杏奈はどこにいる。
あの番組では、他にもいろいろなカップルの思い出の場所を紹介していた。
たとえば、夕日と朝日が同じ場所から観られるベンチ、旧財閥邸跡地にある薔薇園、肉眼で天の川が観られる山頂、上野恩賜公園の池。
だから同じように、オールマイトもふたりで行ったことのある場所ばかりに目をつけた。ほとんど廻ったつもりだが、杏奈はどこにもいない。ふたりで出かけた場所に、もう覚えがない。
杏奈にとっての大切な場所とは、いったいどこだ。
その瞬間、携帯が鳴った。これは杏奈からの着信だ。
慌てて時計を眺めると、別れてからきっちり二時間が経過していた。
「まいったな」
思わず本音がこぼれ出た。
自分からやってみようなどと言ってみたのにここまで大きく外すとは、これでは面目丸つぶれだ。
「もしもし」
携帯から流れてくるのは、不安そうな杏奈の声。
「ゴメン、タイムオーバーだ。今からそっちに行くよ。君、いまどこにいるんだい?」
「……ナイショ……」
「内緒って、教えてくれよ。頼むから」
だが、杏奈はなかなか居場所を言おうとしなかった。オールマイトが見当違いの場所ばかり探していたことで、すねているのだろうか。
「当てられなくてすまない」
「違うの……当たらなくっても仕方ないの。それに、最初に怒らないって約束したじゃない」
「ああ。そうだった」
ならば、なぜ言いたくないのだろう。そんなにも奇抜な場所だったのだろうか。
それでも杏奈が言いたくないなら、今はそれを尊重した方がいい。気にはなるが、電話で杏奈の本音を引き出すことは、おそらく無理だ。
「……じゃあ、お互い家に向かおうか。それならいいかい?」
うん、と返答があり、じゃあそうしよう、とかえして通話を切った。
***
「君、どこにいたの?」
家に着くなりそうたずねたオールマイトに対し、杏奈は気まずそうに眼をそらした。
「教えてくれないか……わかってあげられなくて悪かったから」
「……あのね……」
それでも杏奈は言いにくそうに下をむいた。そこで、ああと気がついた。きっと杏奈は怖いのだ。
つらい人生を送ってきた子だ。いくら怒らないと言われても、長年にわたって刻まれた男に対する不信の念は、自分の意思でコントロールできるものではないだろう。
だから極力優しい声で、杏奈に告げた。
「約束しただろ? 私は絶対怒ったりしないって」
「うん……」
「だから教えて?」
「……ここ」
「え? ココ? ここって、もしかしてこの家ってこと?」
うん、と申し訳なさげに杏奈がつぶやいた。
家か、確かにその発想はなかったよ。
「……ごめんなさい。いろいろ考えたんだけど、やっぱりここかなって思ったの」
「この部屋がかい?」
杏奈がしずかに首を振る。
「あのね、あたしにとっての『あの場所』は俊典さんなの。あんな生活をしていたあたしに、幸せを教えてくれたのは俊典さんだから」
恥ずかしそうに、それでも確固たる声色で杏奈は続ける。
「だから俊典さんのいるところが、あたしの一番大事な、思い出の場所」
「……」
「あの……ごめん……やっぱりおこった?」
「まさか」
そうだ、怒ったりなんかするものか。君にとって一番大事な場所が自分だなんて、こんなに嬉しい話はない。
「あの……こういうのってやっぱり重い?」
杏奈が不安そうにこちらを見上げた。おいおい、あんまりナメないでくれないか、とオールマイトは心の中で呟く。
ちょっと前まで世界を支える柱であり続けた男だぜ。君一人に寄りかかられるくらい、屁でもない。
「重いはずないじゃないか。そんな風に思ってもらえて、とても嬉しいよ」
「ほんと?」
「本当さ」
ほっとしたように杏奈が息をついた。
ああ、とオールマイトはまた思う。
杏奈。君の上に雨が降るなら、それから守る傘になる。だから少しずつでいい。少しずつ、知っていってほしいのだ。
すべての人には尊重される権利があるということを。
「杏奈」
「なに?」
きっと杏奈は、あまり出歩いたことがないだろう。だからこれからは、そんな経験をふたりでたくさんしていこう。
この際だ。いっそ車も買ってしまおう。そのまま砂浜を走れそうな、大きな四輪駆動車がいい。
明日、もし定時で上がれたら、ちょっと車を見てこよう。気に入ったものがあれば、その場で買ってしまってもいい。
新しい車を見た杏奈は、どんな顔をするだろうか。
「ここを拠点に、たくさん思い出を作っていこうな」
そう耳元でささやくと、杏奈は白いかんばせを花のようにほころばせ、そして小さくうなずいた。
2017.3.21
2017春コミにて頒布した既刊につけた、おまけのお話です。
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