7話 花冷え

 安ホテルの窓から見える雨に濡れた街明かりは、それなりに幻想的だった。花冷えの雨は、桜の開花を遅らせる。
 空き室ありと書かれた発光ダイオードの看板に、冷たい雨粒が弾かれ砕けた。

「早くこっちにこいよ」

 背後からかけられたのは、男のいらだった声。
 そうだろう。時間制でお金をもらっているのだ。客は早々に行為にうつりたいに違いない。
 わかったよとはすっぱに杏奈は答えた。

 こんなことはなんでもない。いつものように、心を凍らせてしまえばすむことだ。
 だが今夜はそれができそうにないであろうことも、杏奈にはわかっていた。
 唇をかみしめながら服を脱ぎ、ベッドの端に腰掛ける。
 行為に入ろうと前をくつろげたその時、男が杏奈の唇を奪った。

「ちょっとやめてよ。あたしキスはNGだって言ったじゃん」
「うるせえな。買われた身分で偉そうに言ってんじゃねえよ」

 今日の客ははずれだ、と杏奈は思った。娼婦には何をしてもいいと思っているこういう輩が、客としてはもっともタチが悪いのだ。
 こんなとき、杏奈は自分の立場を思い知らされる。
 人から白い目で見られがちな性風俗産業において最下層の存在、それが自分たち街娼だと。
 けれど今夜は、もうどうなってしまってもかまわないと思った。

 あのひとに知られてしまった。

 なぜ俊典があの場にいたのかはわからない。だが、きっと瞬時に悟ったことだろう。杏奈がどんな種類の女であるのかを。

「おい、集中しろよ」

 男がぐいと杏奈の髪を引っ張り、力づくで上を向かせた。ふたたび強引に唇を奪われ、ぬるりとしたものが口腔内に侵入してくる。
 いやだ、と杏奈は思った。
 身体は売るけれど、心は売らない。唇だけはあのひとだけにしか許さない。
 そう思うのと同時に、男の舌に噛みついていた。

「こいつ!」

 男の怒声とともに、目の前に火花が散った。
 頬をはたかれたのだとわかるまで数秒かかった。
 反射的に男を強くにらみつけて、次の瞬間まずいと思った。男の顔が怒りに染まっていたからだ。

「なんだその眼は」

 もう一度顔に男の手が振り下ろされた。
 顔を殴られたら明日からの商売にさしつかえる。
 顔面を守ろうと両手で頭を抱え、身体を丸めた。こうすれば内臓も、そして大事な顔も守れる。
 杏奈が防御の姿勢を取ったことで、男はますます激高したようだった。
 振り下ろされる手が、掌から拳にかわった。
 肩に、背に、腕に、豪雨のように降り注ぐ狂気。
 だが次の瞬間男の動きがぴたりと止まった。興奮しきった男の拳を止めたのは、突然室内に響いた破壊音。

 なにが起きたのかわからないまま、視線だけを音のした方に向ける。
 入り口周辺が水蒸気のようなものに包まれていた。もうもうと立ち上る水蒸気の手前で、鉄製のドアが大きくひしゃげているのが見てとれた。
 薄れゆく靄の中から現れたのは、見間違いようもない金髪碧眼の長身だ。よく見ると靄はその痩身から生じているようすだった。

「俊典さん?」

 思わずその名が口から洩れた。
 それに応えず靴も脱がずにずかずかと室内に上り込んできた俊典は、上着を脱ぐとばさりと杏奈の上にかけた。

「なんだ、テメエ」

 男が俊典の胸ぐらをつかもうと手を伸ばす。だが男より俊典の方が速かった。伸ばされた手を捻り上げ、長身痩躯が抑制された声を上げた。

「去れ」
「なんだよこれ、美人局かよ」
「そうじゃない。そうじゃあないが、私がきさまを殴りつける前にここから立ち去れ。あの扉のようになりたいなら話は別だが」

 信じがたいことだが、あのドアを壊したのは状況から見て俊典だ。男もそれに気づいたのだろう。数度赤くなったり青くなったりを繰り返したのち、舌打ちをしながら逃げるように去って行った。

「服を着なさい」

 こちらに背を向けて俊典が言った。

 急いで服を着ると、力強い腕に手首を掴まれた。それは痛くはなかったが、この細い身体のどこにそんな力がと驚くほどの膂力だった。

 俊典はフロントで休憩料とドアの修理費を黒いカードを使って支払い、タクシーを呼んだ。

 タクシー内でも、俊典は杏奈に話しかけてはこなかった。
 無言のまま、携帯を操作する長い指。
 車の外は、変わらず降り続く冷たい雨。

 どこに連絡しているのだろう。
 どこへ連れて行くつもりなのだろう。
 そこで何をするつもりなのだろう。
 俊典は何故あのホテルに来たのか。
 何故ホテルの場所がわかったのか。

 たくさん聞きたいことがあった。だが杏奈は疑問を口にすることができない。

 真実を知り、そしてどう感じているのか。それを俊典の口から聞かされるのが怖かった。

***

 連れていかれた先は、市内、いや県内でも有数の高級住宅地だった。
 地上四階建て、低層階のマンションだ。規模はそう大きくはない。だがロビー内に足を踏み入れて驚いた。中央に高級ホテルのようなフロントが設置され、そこに二人のコンシェルジュがいる。
 それだけではなく、二階以上の各部屋それぞれにエレベーターが用意されているようだった。何重ものセキュリティに守られた、セレブ向けの集合住宅。それが現実にあるなんて。そんなものはドラマや映画の中の、夢物語だと思っていたのに。

 俊典の部屋に入った途端にアラーム音が鳴り渡り、杏奈は思わず身構えた。「お風呂が沸きました」と続いた音声に、身体の力がふっと抜ける。
 さきほどタクシーの中で俊典が携帯を操作していたのは、このためだったのだろう。

「まず、お風呂に入っておいで」
「あ……あたし……そんなつもりでここにきたんじゃないからね」
「いいから入ってきなさい」

 強い声に杏奈はびくりとした。
 おそらく俊典も、他の男がそうしてきたように自分を扱うことだろう。
 恋人扱いしてもらえた今までとは、きっと違う。まるで古びたぼろ雑巾のように、路傍に転がる石ころのように扱われるのだ。

 案内されるがままに浴室へ向かい、服を脱いだ。

 杏奈の心の中には、未だに冷たい雨が降っている。
 バスタブの湯はこんなにも温かいのに。心だけがしんと冷えていた。
 俊典がここにつくまで無言だったのは、おそらく怒っているからだろう。
 先ほどあんなに強い声を上げたのは、おそらく怒っているからだろう。

 このあと、あのひとはやっぱり自分を抱くのだろうか。
 汚れた娼婦と見くだしながら。

***

 髪を乾かし、用意されていた着替えに袖を通して、俊典のいるリビングの扉を開けた。
 そこで迎えてくれた長身痩躯は、予想外にもとても穏やかな表情をしていた。
 座るように促され、大きな革張りのソファに腰掛ける。
 目の前のローテーブルに置かれた温かいレモネードを、杏奈はぼんやりと眺めた。

「まずね、あの仕事はもうやめなさい。事情があるなら相談に乗るから」

 かけられた言葉に、杏奈は己の耳を疑った。目の前の景色がじわりと滲み、大きくゆらぐ。

「……事情なんかないよ。楽して稼げる仕事だからやっただけ。金さえもらえればあたしはなんでもするんだ」
「そうか」
「あんたに近づいたのも、金持ちそうだったからだよ」
「そうかい」
「あんた、ばかなの? どうして怒らないのさ」
「それはね、今君が言っていることが嘘だとわかっているからだよ」

 杏奈は言葉に詰まった。真実を言い当てられたからだ。あんな仕事、好きでしてきたはずがない。けれどほかに方法がみつからなかった。どうしていいのかわからなかった。

「……どうして嘘だなんて言えるのさ」
「ン、ただなんとなく」
「……あたしはね、金さえもらえれば誰とだって寝るし、どんなプレイだってするんだ。あんたの周りにいるお綺麗な女たちとは違うんだよ」
「違わない」
「……ちがうよ……」
「違わない。だから聞かせてくれないか。なぜ君が街角に立たなければならなくなったか」

 レモネードの入ったマグカップが、まるで水中にあるかのようにたわんで揺れた。
 それはカップのせいではなく、自分の瞳に膜が張っているせいだと気づいた時、杏奈の心は決壊した。

「……借金があるの……」

 それは母親が二十歳になったばかりの杏奈を連帯保証人にして作った借金だった。そして母は男と逃げた。
 借主が蒸発した場合、借金は連帯保証人にふりかかる。たとえ親兄弟であっても、安易に保証人になってはならないとよく言われるのはそのためだ。
 借金の総額は百五十万円だった。大した収入もなかった杏奈は、その返済のために街角に立った。
 そのうえ、母親が借金をした業者が悪かった。俗にいう高利貸しだ。利子がべらぼうに高くて、どれだけ頑張って返しても、借金は減るどころか逆に増えるいっぽうだった。

 箍が外れてしまったようにすべてをぶちまけて、杏奈は顔を上げた。いくらなんでも、ここまで話せば引くだろう。二百万近い大金だ。他人のためにどうこうできる額じゃない。
 ところが返ってきたのは、先ほどと変わらぬ穏やかな笑みだった。

「その借金ね、たぶんなんとかなる。今までに払った総額は、元金を大きく超えているんだろ?」
「でも……借用書を見るとぜんぜん減ってないんだよ。増えてるんだ」
「ン、大丈夫だと思うよ。たぶん過払い請求をすればチャラになる。払った額によっては、いくらか手元に返ってくるんじゃないかな」
「えっ? どういうこと?」
「過払い請求っていってね、払い過ぎたお金が返ってくるシステムがあるんだ。自己破産とは違ってブラックリストに乗ることもないよ。明日そういうことに詳しい弁護士を呼ぶから、相談してごらん」
「弁護士費用ってすごく高いんでしょ。あたしそんなの払えないよ」
「ああ、私には顧問弁護士がいるから大丈夫だよ。毎月決まった額を支払うことで、いろんな案件を見てもらえることになってるんだ。だから心配いらない」

 顧問弁護士、そんなものを個人で雇える人間が社会的にどれほどの位置にいるのか、杏奈にもわかる。
 それほどの人が、どうして自分にここまでしてくれるのだろうか。この人の優しさにすがって、本当にいいのだろうか。

「いいか、杏奈。やり直しの効かない人生なんてないんだ。自分の進んだ道が間違っていたとわかったら、そこからやり直せばすむことだ」

 惑っていた杏奈の頭を、大きな手がくしゃりと撫でた。

「今日はもう疲れただろう。それを飲んだらもう寝てしまいなさい。一番奥の部屋が寝室だ。一応鍵もついてるから、不安だったら閉めて寝て」

 そう告げられて驚いた。
 このひとは自分を抱くつもりはないのだ。それどころか、不安だったら鍵をかけろと。お金さえもらえれば、相手を選ばず身体を開いてきた、そんな女に。

「俊典さんは……どこで寝るの?」
「私はリビングで寝るよ」
「だ……だめだよ。あたしがそっちで寝るよ。ここは俊典さんの家なんだし」
「いや、君はとても疲れている。今日はベッドで寝なさい。リネン類は新しいものに替えてあるから」

 ね、とまた微笑まれ、また目の前の景色が大きく歪んだ。

 生まれてからずっと、花冷えの凍てつく雨に打たれるような日々だった。
 人から笑われ、軽蔑されて生きてきた。
 フローラになる前はあばずれの娘だと。フローラになった後は最下層の娼婦だと。
 このひとは罪作りだ。そんな女にこんなに優しくしたりして。

 さめないうちにと促され、俊典が用意してくれたレモネードを一口飲んだ。
 それは初めて俊典と飲んだカクテルとよく似た、甘くて酸っぱい味がした。


2015.11.22

<注>過払い請求とは利息制限法と出資法それぞれが定めた上限金利のずれ、いわゆる「利息のグレーゾーン」から生まれた「払い過ぎた利息」を取り戻すための手続きです。
借金をなかったことにするシステムではございません。
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月とうさぎ