せっかくほころび始めた桜の花も、この寒さと雨には閉口していることだろう。花冷えのこんな夜は、古傷が痛む。
オールマイトはミッドナイトと共に、市内で最も大きな警察署を訪れていた。
ヒーロー科の授業で行われる大々的な戦闘訓練には、警察や消防の許可がいる。生徒の個性によっては、敷地内で爆発が起きたり火柱があがったりするためだ。
よって例年三月末日―すなわち本日―には、授業の年間予定表を近隣の警察と消防に提出することが定められていた。
どうしてこの組み合わせになってしまったのかと、オールマイトは内心でため息をつく。
自身が教員として正式な辞令を受けるのは、来月1日からである。だがオールマイトは、今月から事前研修という名目で業務に参加させてもらっていた。もちろん無償だ。
しかし同行者がマイクや相澤であったなら、こんな会話になることはなかっただろう。
官公庁周りが終了した途端、ミッドナイトは自らの支援する団体について語り始めたのだった。
「オールマイトさんが協賛してくれれば、企業側ももう少し協力的になってくれると思うんですよね」
「うん、まあ、その話はまた今度ね……ずいぶん遅くなっちゃったから、続きはまた明日聞かせてよ」
「ほんと、いま深刻なんですよ、うちの団体」
ミッドナイトは低所得の女性に対する支援を行うNPO団体の、協賛をしているという。
女性の貧困が深刻な社会問題の一つであることは事実だ。この個性時代に来て、それはますます顕著になっている気はする。
貧困からホームレスや性風俗に身を落とす女性もまた、少なくはない。
それはわかるのだが、簡単に承諾することは控えたかった。乞われるがまま知り合いの活動すべてに名を連ねたりしたら、身体が持たない。
話を変えようと、オールマイトはぐるりと周囲を見渡した。
ちょうどいいことに、エレベーターから二十代半ばから三十代前半の女性がぞろぞろと出てくる姿が目に付いた。露出の多い格好をした、化粧が濃くて派手な女たちだ。
「今日はずいぶんと派手な女性が多くないか?」
「ああ、今夜は風花通りで摘発があったみたいですね」
ミッドナイトが苦虫をかみつぶしたような顔をつくる。
風花通りと聞いて、なぜだか嫌な予感がした。背中を冷たい汗が伝ってゆく。
「摘発ってどういうことだい? あの辺りは確かに治安が悪いけど」
「オールマイトさん、ご存知ないんですか?」
「なにが?」
「彼女たちはフローラですよ」
「フローラ?」
「この表現、本当は嫌いなんです」
苦々しい顔のまま、ミッドナイトがふうと大きく溜息をついた。なぜだろう、妙に気分が落ち着かない。
「あの通りが風花通りと呼ばれる理由をご存知ですか?」
「いや、知らないな」
「風の花というのはアネモネのことです。アネモネの花言葉は『見捨てられる』です。先ほどお話した女性の貧困と重なってきますが、文字通り、あそこは世間から見捨てられた女性たちが夜な夜な立つ。そんな通りなんですよ」
「ちょっと待ってくれ、だからそのフローラっていうのはいったい……」
「俗語では立ちんぼともいいますね。春をひさぐ女性たちのことですよ」
「街娼か!」
ミッドナイトが無言でうなずく。
春をひさぐ、すなわち売春。
フローラは言わずと知れた春と花の女神だ。だがその春の女神が、いにしえでは娼婦の女神であったことを知る者は少ない。
ミッドナイトの話によると、ある見識人があの通りで春をひさぐ女性たちを『フローラ』と名付けたらしい。この通りを風花通りとつけたのも同じ人物であったという。
その見識人はずいぶん皮肉屋だったとみえる。
「街娼なんてものは、前世紀の遺物かと思っていたが……」
「風花通りは、近隣地域から集まった見捨てられた女性たちの巣窟です。無個性の女性も一定数います」
『無個性』という言葉がオールマイトの心に突き刺さる。
オールマイトの脳裏で、もっさりとした髪の少年の泣き顔が浮かんで消えた。その向こうにいるのは、図体ばかりが大きくて、それでも自分はヒーローになると目だけギラギラさせている金色の髪の少年だ。
それは過去の己の姿。
「学歴も資格も個性もないとなると、就業先にも恵まれにくく、低収入の仕事につくしかなくなります。個性があってもそれが際立っていなければやはり同じ。貧困の中で育った子供は、学歴や特殊技能を身につける機会すら与えられずに成長するんです。そして貧困を抱えたまま、また親になる……」
「……貧困の連鎖か」
「そうです。フローラの娘はたいていフローラになります。学ぶ機会も資金もないんです。他にすべがないと諦めきった彼女たちは、体を売るべく街角に立つんです」
「……」
「街角で身体を売ることは、決して楽な仕事ではありません。お金を支払われなかったり、暴力を振るわれることもあるようです」
ミッドナイトの言わんとしていることはよくわかっていた。
大抵の風俗業は、ヴィランやそれに近い組織が仕切っている。労働条件が劣悪な場合もあるが、それでも客の暴力からは身を守れ、ピンハネはされるが給与の未払いはまずない。
けれど街娼はすべてが個人交渉だ。誰からも搾取されないが、誰の庇護も受けられない。
「……で、君の言っていた団体は、そのフローラたちのことも支援しているってわけか」
「そうです。体を売らなくても自立していけるようにするのが、最終的な目標です」
オールマイトは肩をすくめる。それにしても、この重苦しい気分はなんだ。
「確かに、それには資金が必要だね」
「はい」
「しかしああして摘発された女性たちはどうなるんだ? そんな事情じゃまた同じことの繰り返しだろ」
「ええ、ですから警察も摘発とは名ばかりで、厳重注意だけにとどめて帰しているのが現状です。公的支援やうちの団体のパンフレットもその時に渡してもらっているんですが、訪ねてきてくれる子はあまりいません」
「なるほどね。ちゃんと見てもいないんだろうな」
たぶん、とミッドナイトが唇を噛む。
「強烈な影響力がある人物が協賛してくれば、企業だけでなくマスコミの扱いも変わってきますし、マスコミに取り上げられれば彼女たちの目にもつきやすくなる。……だからオールマイトさんのお名前をお借りしたいんです」
「そうか。少し考えさせてくれ」
しかし、どうして自分はこの話題にこんなにくいついているのだろう。
『風花通り』その名が出てきた瞬間から、喉の奥に飲み下せない何かが引っかかっている。
治安の悪い地域で暮らし、週に一度の外食を楽しみにしているつつましやかな娘。
脛の青あざ。
明るいはずの娘が時折見せる、怯えた表情。
杏奈は近所の弁当工場で働いていると言っていた。
たいていの工場は変動制のシフトをとる。いくら本人が希望したとはいえ、常に夜勤などまずありえない。
そうだ、はじめからおかしいと気づいていた。
だが事情があるのだろうと、気づいていないふりをした。探られて痛い腹があるのは、自分もまた同じだからと。
心臓が早鐘のように鳴り響く。手のひらにびっしょりと嫌な汗をかいていた。
「オールマイトさんはフローラたちの値段をご存知ですか。彼女たちの相場はだいたい二時間二万ほどです。ホテル代を払ってしまえば、手元には一万五千円ほどしか残らない」
「身体を売って一万五千円か……」
「見てください。あんな若い子まで……」
次のエレベーターからぞろぞろと降りてきたのは、先ほどの集団より一回りほど若い、十代半ばから二十そこそこといった年齢の女性たちだった。
次の瞬間、オールマイトは反射的に駆けだした。
少女と呼んでもおかしくない年齢の娼婦たち。その中に見知った顔がいたからだ。
「杏奈!」
低く叫ぶと、怯えた顔で杏奈が振り返った。
常とは違うその姿。だがこの娘をオールマイトが見まごうはずもない。
そばかすがわからないほど厚く塗られたファンデーション。眼元を縁どる太めのアイライン。胸元が大きく開いた上着と、下着が見えてしまいそうなくらい短いスカート。
前世紀の映画を観ているようだ、とオールマイトは思った。
古き良き時代の名画の中に出てくる年若い娼婦は、たいていこんな格好をしていたはずだ。
現実を受け止めかねているオールマイトの上を、揶揄するような声が覆いかぶさってきた。
「杏奈、その男、あんたのヒモかい?」
若い女たちの一群から発された声だった。
杏奈はそれには応じず、こちらに震える瞳を向けている。だがその震えが、怯えた表情が、うっすらと水分を含んだ膜を張る瞳が、すべてを露呈してしまっていた。
「何故……?」
「……俊典……さん……」
「なぜだ?」
オールマイトはもう一度訪ねた。
杏奈は震えたまま声もない。
その腕をつかまなければ、とオールマイトは思った。この怯えようであれば、きっと杏奈はここから逃げ出してしまう。ここでしっかり捕まえておかなければ、話を聞くこともできなくなるかもしれない。
だが、伸ばせば届くはずの腕を伸ばすことができない。
と、杏奈が弾かれたように駆け出した。
オールマイトはそれを追うことすらできず、呆然と立ち尽くしていた。
ヒーローたるもの、常に冷静であれ。
オールマイトは自分にそう言い聞かせ、かつ実践してきたつもりだった。
なのになんということだろう。自分は今、かつてないほど動揺している。
そして数秒の動揺のあとオールマイトを襲ったのは、どうしようもない怒りだった。
今まで、大切にしてきたつもりだった。
関係を深めようとすると、必ず表情をこわばらせる杏奈。
男女のことに慣れていないのだろうと、単純にそう思い込んでいた。
だからそれなりに大事にしてきた。すくなくとも自分はそのつもりだった。
それだけに猛烈に腹が立っていた。
「どれほどの間抜けだ、私は」
許せないのは自分自身だ。杏奈の苦しみに気づいてやることができなかった。
予兆はいくつもあったというのに。
杏奈は何度か、それを言おうとしてきたのではなかったか。
あのコンサートに彼女が着てきたワンピースは、あの公園で奢られた缶コーヒーは、彼女が自分の身体を売って稼いだ金で買ったものだったのだ。
自分の馬鹿さ加減に吐き気がし、軽く頭を振る。と、背後から声がかけられた。ミッドナイトだ。
「お知り合いでしたか」
「ああ。恋人だ」
おいおい、頼むからそんな目で見てくれるなと、オールマイトが嘆息する。
そうだ。いま一番哀しいのは、きっと自分じゃない。
「……これからどうなさるおつもりですか」
「どうもなにも……話し合うつもりだよ」
「でしたら、早く追いかけたほうがいいですよ。彼女たちは一晩に何度もあの通りに立ちます。保釈されたその日も変わりません」
「この冷たい雨の中をか……」
「ええ。それがあの通りで生きるということなんです」
オールマイトは拳を握りしめ、顔を上げた。
武装するかのように施された厚化粧は、見ていてとてもつらかった。
キスしようとしただけで身を強張らせた娘が、行きずりの男に身体を売る。それはどれだけの苦痛であることか。
そんなことはもう絶対にさせない。そんな想いはもう二度とさせない。
オールマイトはミッドナイトに別れを告げて、雨の街の中へと駆けだした。
2015.11.18
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