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巾着のような布袋の紐を引き絞り、流れるように肩に掛ける。数日前とは打って変わって小綺麗になった自室に掛けられた、赤いバツ印が何日にも渡って続いているカレンダーを見て、一人きりだと分かってはいても思わずグッと拳を握ってはニヤリと口角を上げる。 手を伸ばせば、きっとすぐに届いてしまう
…やっとだ。
待ちに待った今日この日。
やっと、俺はこの家を出ていける。
もう成長した体には小さく感じられるベッドや勉強机、陰気な空気が立ち込めるこの部屋とも、ようやくおさらば出来る。喜びに満ち溢れながら俺は自室のドアを軽快に閉めた。足取りはいつもの何倍も軽く、とんとんとリズミカルに階段を下りていくと、パタパタとダイニングから足音がしてハッとする。…クソっ、もう起きていやがったか…。ギリ、と歯を噛み締める。
「っ!アンタもう荷造りして…まだ出発には早いだろう!?」
階段の下で顔を覗かせたのは、予想どおりおせっかい極まりない俺のお袋だった。左手にはフライパン、右手にはフライ返しを持っていて、その姿がまたも俺の神経を逆撫でする。ようやくこの家を出れるっつうのに、少しでも引き留めようとする姿勢なんか見せやがって…せっかく晴れの日だってのに、なんでこう初っ端からイライラさせられなきゃならねぇんだ。
「早めに出るんだよ!!」
「こんな早朝に出てどうすんの!!」
「遅れるわけにはいかねぇだろうが!!」
「朝ごはんはどうすんの!!」
「いらねぇっつったろうが!昨日の晩によぉ!!」
早朝から近所に響くほどの怒鳴り合いを繰り広げたせいか、寝室にいた親父も焦って飛び出すような勢いでダイニングに顔を出す。いつもならここで「親のいう事を訊け」と怒鳴られるところ。このまま三つ巴のバトルになるかと思えば、親父は意外にも「行くって言うなら送り出そう」とお袋を説得させる。
親父の言葉に渋々頷いて納得した様子のお袋に拍子抜けするものの、出発時間は変えられないと思い、俺はその足で家の玄関ドアを開けて外へと踏み出す。その後を焦ったように親父とお袋も追いかけてきて、結局三日三晩考えた誰も知らない間に家を出る作戦は台無しとなり、家の前で壮大に見送られてしまった。
「ジャン、身体に気を付けるんだぞ」
「…他の皆さんと、ちゃんと仲良くするんだよ」
「チッ…るせぇ、分かってんだよ」
気恥ずかしさを隠すように舌打ちをし、もう一度少ない荷物を入れた布袋を右肩に掛け直しながら左手をポケットに入れる。一言だけ声を掛けてさえやれば満足するだろうと思い「じゃあな」と言葉を発したが、歩き出そうとする俺の左手を何かが引っ張った。
「ジャン坊、アンタは出来が悪いけど…あたしらはアンタが生きて帰ってきさえすればそれでいいんだよ。決して欲張らず、皆と仲良く過ごすんだよ」
いいね?と念押しするようなお袋の発言に、カッと一瞬で頭が沸騰したかのような感情が湧いてくる。腕に縋り付き、目元を潤ませるお袋の表情にグッとまた歯を噛みしめた。
「っ、うっせぇババア!!こんな日に説教タレんじゃねぇ!」
お袋の腕を乱暴に振り解き、俺は大声を上げた。
俺の可能性を信じちゃいねぇってか。俺はそんなに心配されるほど弱ぇように映ってるってことか。俺なんかは兵士になってもすぐに死んじまうと思ってるって事か。臓腑から沸々と湧く怒りが喉からせり上がり、思っていることが口から飛び出てきそうだったが、嘘でもそんなことは口に出したくなかった。
違う。俺は出来の悪いジャン坊なんかじゃねぇ。俺は誰よりも強くなって、誰よりも偉くなる男なんだ。兵士になった暁にはいくつもの功績を残し、歴史に名を残すほどの偉大な男に。こんな城壁都市なんかに収まるんじゃなくて、必ず王都にでっけぇ家を建てて、生涯優雅に暮らすんだ。そこには親の干渉も巨人の脅威もねぇ。あるのはただ、「自由」だ。
お袋の悲しそうな表情を見て見ぬ振りしながら、俺は「ふん」と鼻から息を吐いて二人に背を向け歩き出した。
手に入れてやる。憲兵になって。
内地での「快適」で「安全」な暮らしを、絶対に手に入れてやる。
847年。
俺は12歳を迎え、今日から『訓練兵団』に所属することになった。
扉を潜り、生家と故郷であるトロスト区を出てウォール・ローゼ内に入ると、そこに待機されていた馬車に乗る。およそ3時間で着くと言われ向かったのは『ウォール・ローゼ内南方駐屯訓練施設』だった。
今日から約3年間、兵士としてここで厳しい訓練を受け「適正なし」と判断されれば生家に戻るか開拓地行き。しかし成果をあげ、成績上位10名以内に入れば晴れて「憲兵団」に所属する権利が得られる。
蟻のようにぞろぞろと施設に集まってきたのは、大体が俺と同じような12歳を迎え兵士に志願したおよそ数百人。年齢はバラバラとはいえ「12歳を超え生産者に回るのは臆病者だ」という世論もあり、圧力に屈し仕方なく志願したものもいるようで、その表情は各々違って見えた。
重苦しい顔をしている者、既に泣き出しそうな者、楽観的に笑っている者、呑気に欠伸をしている者。そのどれもが緊張感の欠片もなく「あぁ、こういうヤツらから脱落していくんだな」とほくそ笑む。既に心構えで勝っていると言っても過言ではなく、この場所で結果を出せない自分自身などは全くもって想像できなかった。
しかし中には俺と同じように高い志を持ってここに集まったヤツらもいるようで、まるで既に戦地を潜り抜けてきたと言わんばかりの表情をしている何人かの顔を見て、気が抜けるような場所ではない訳だ、と再び自分を奮い立たせる。
兵舎に荷物を置くと、支給された隊服に着替える。両腕と背中に2本の剣を交差させた『訓練兵団』のエンブレムが縫いつけられたジャケットに、ストレッチ素材の白いパンツ、膝丈まであるロングミリタリーブーツ。
「着替えたら集合せよ」と言われたのはこの訓練施設でも一番広い営庭。なにもない砂地に到着した順番で何列かに分けて並ばされる。粗方訓練兵が集まったところで、これから行われる入団式の軽い説明と敬礼の仕方を教わる。
「心臓を捧げよ」
そのセリフと共に左手は背中に。右手は拳を作り甲は地面へ向けながら左胸に付ける。1日に何回もする敬礼だからと前置きされながら、しっかり覚えるようにと釘を刺される。こんな誰でも知ってるような敬礼、誰が間違えんだよ。そう心の中で悪態をつきながら、堅苦しいのと事務的な流れ作業に既に飽きはじめ、くあ、と欠伸を口の中で嚙み殺した。
あーあ、退屈だぜ。さっさと本格的な訓練しようや。
そんなことを思っていると。
「注目!!」
空気を引き裂くような声が営庭に響き、ハッと意識が浮上する。さっき教わった通りの敬礼をザッ、と瞬時に披露する周りに少し出遅れながら、俺も右腕を左胸に置いた。しかしすぐに「休め!」という声も響き渡り、その憶えたての敬礼は披露する間もあまりなかった。
「訓練兵団教官、キース・シャーディスだ」
地を鳴らすような低い声で現れたのはスキンヘッドで髭を蓄えた強面のおっさんだった。俺たちと同じように両手を背中で組んで立っているだけなのに、威圧的な雰囲気が緊張感をもたらした。その身を包んでいる上官用の丈の長い訓練兵団のジャケットのせいなのか。それとも…
「…あれが訓練兵団の鬼教官か……」
どこかからかぼそりと呟くように聞こえたその声に心の中で同調する。ごくりと唾を嚥下すると、教官は大きく息を吸っては、今度は空間を裂くような鋭い声で怒号のような声を飛ばした。
「これよりお前ら豚共の性根をたたき直す!質疑には必ず応答するように!!」
びりびりと全身に痺れるような感覚を覚える。前列の誰かが一瞬ふらっとバランスを崩し片足を後ろに一歩引いたことで、人は声だけで他人の身体を本当に揺らすことが出来るのだと認識する。…悪くねぇ。さっきまでの事務的で退屈な流れ作業よりかはこっちのほうがいくらか刺激的だ。緊張感すら飲み込んで、俺は優秀な兵士になってやる。
背中に組んだ両手をギュッと握りしめて、砂を蹴るようにこちらへ歩き進んでくる教官の様子を伺っては、背中が丸まらないように背骨を真っ直ぐに伸ばした。
「貴様は何者だ!」
「シガンシナ区出身!アルミン・アルレルトです!」
「そうか!馬鹿みてぇな名前だな!親がつけたのか!」
「祖父がつけてくれました!!」
「アルレルト!貴様は何しに此処に来た!」
「人類の勝利の役に立つためです!!」
「それは素晴らしいな!貴様には巨人のエサにでもなってもらおう!」
いったい何が始まるのかと様子見をしていると、教官は一人の訓練兵の前で足を止め、出自と志願理由を問う。しかし何かにつけて否定から入る姿に、これは「質疑応答」なんて崇高なものではないと確信した。
言葉の暴力である。
真っ向から人生や人間性を否定することで何を得ようとしているのかは俺には分からなかったが、ここで反抗なんてしようもんなら一気に開拓地送りだという事は想像に容易かった。ザリザリと砂を踏みしめる音が自分に近づいてくると、その足が俺の前でピタリと止まる様子を見て、唾を嚥下する。
「貴様は何者だ!!」
「トロスト区出身!ジャン・キルシュタインです!」
すぐに左胸に右拳を当て敬礼をし、先ほど「声が小さい」と何度も叱責されていた訓練兵のように責め立てられないよう、自分の出せる最大限の声を張り上げて答える。近くで見ると教官の目元は彫りが深いのか落ち窪んでいるのか影が落ちていて、暗い闇の底からギラリとナイフのように光っており、得も言われぬ緊張感が足元からせり上がってきた。
「何のためにここに来た!」
てっきりさっきの奴みたいに名前すらも弄り回されるかと思ったが、意外とすんなり「何故ここに志願したのか」と理由を問われる。一瞬呆気に取られたものの、その理由はつい今日の早朝に決意を固め、心に深く誓ったものだ。俺はニッと口角を上げながらその質問に答える。
「憲兵団に入って、内地で暮らすためです」
そうだ。俺は鳥籠のように捕らわれたクソみたいな世界から抜け出して、内地での快適で安全な暮らしを得るためにここにやって来た。3年間という長い訓練課程を経て、必ずや成績上位10位以内に入り、憲兵団になってやる。絶対に。
改めて胸の奥深くまで決意を刻みなおし、これから迎える生活に胸を馳せる。自分の背中に2本の交差した剣ではなく、高貴なユニコーンのエンブレムが掲げられるのを想像しながら「そうか、貴様は内地に行きたいのか」という教官の声に「はい!」と大きく返事をする。
「ふんっ!!」
「っ!!」
次に起きたのは脳天を揺らすような衝撃。一瞬目の前が白くなって、何が起きたか理解する前に身体から力が抜け、気が付いたら地面に倒れこんでいた。教官のスキンヘッドが頭突きをかまして来たんだと理解すると、俺は左手で頭を抑え込む。
「オイ!誰が座っていいと言った!?こんなところでヘコたれる者が憲兵団になどなれるものか!!」
俺の決死の覚悟を一蹴する教官の声に、よろよろと覚束ない動きで身体を起こした。
くっそ…とんでもない石頭だな…頭割れたんじゃねぇかコレ…酷くじんじんと痛む頭とまるで眩暈がするかのように揺れる視界に、軽く脳震盪を起こしていることを自覚した。当の教官はもう気は済んだのか、「ふん」と鼻で息を吐くとそのまま他の訓練兵の方へと移り、言葉のナイフを次々と振り下ろし続けている。
非の打ちどころのない志願者には言葉で絶望を、敬礼が逆の者には物理的な屈辱を、何故か芋を食いだした馬鹿女には死を彷彿とさせる罰則を。繰り返される何の意味もないような行為に、こんな儀式一体いつまで続くんだ…と人知れずため息をつく。
「4列目後ろを向け!」
芋女のせいでぐちゃぐちゃになりかけた順番を立て直そうと教官は俺の並んでいる列を振り向かせた。通り終えた者に、新たに儀礼を通ることになる犠牲者を見せつけることで、意識が中だるみしないようにしているのだろう。全く悪趣味な連中だぜ…。そんなことを思いながら後ろを振り向くと、俺は自分の真後ろに並んでいた人物を始めて目に映すことになる。
「っ…、!」
まるで、春の風が吹き始めたような感覚だった。
陽の光を浴び透き通るような真っ白な肌
果実を彷彿とさせる色の濃いぷっくりとした唇
そしてその上には、どこまでも広い大空を彷彿とさせるような大きくて碧い瞳が、凛と真っ直ぐ前を見つめていた。
顔立ちは少し幼さが残っていて『綺麗』で『精悍』というよりは、『可憐』で『清楚』という言葉がよく似合っていた。零れ落ちそうな碧い瞳は少し垂れていて、目尻にある小さな黒子がとても印象的だった。しかしそのどれを置いても、一番に俺の胸を高鳴らせたのは。
指を通せば、その細さを実感させるように柔らかくすべり落ちそうな、黒曜石の如く艶やかに輝いている『黒髪』だった。
教官が目の前を通り過ぎた際にわずかに発生した空気の揺らぎで、肩ほどの長さで切り揃えられた毛先が揺れ、彼女自身の白くて細い首を優しく撫でる。碧い双眼は教官の背を一瞬追うようにきょろりと横に流れた後、気が付いたように少し上を向いて、どきりと俺の心臓が跳ねる。
巡り合ってしまったーー。
2つの碧に俺の見開かれた目が映っているのが見えて、全身に熱がこもり、身体に電流が走ったかのような感覚に陥った。彼女の姿かたちは、かつて俺が親の目を盗んで自室にこもり紙に描いてきた「将来俺と人生を共にする理想の女性像」そのままであることに気が付き、本能で「この人だ」と直感した。
快適で安全で自由な暮らし。
俺の求めるすべての理想が、すぐそこに。