噛みちぎるのもやっとな固いパンを齧りながら、目の前に置かれた味の薄いスープの上澄みを見つめた。少し冷めてしまっているからなのか、ところどころに浮いている小さな油の塊に、スプーンを運ぶ手が止まる。

食欲が湧かない。

ウォール・ローゼ南西部にある開拓地から馬車に乗り、1日と少しの旅を終えて、わたしは今日訓練兵団に入団した。入団初日という事もあり、特に目立って何かがあったわけじゃない。敬礼の仕方を教わったり、入団式をしたり、施設の使い方や明日からの訓練の説明を受けたりと、実に事務的な事が多かった。

本格的な訓練は明日以降から開始する事になっていて、今日はもう私服に着替え、食堂で夕食を取っている。しかしゆっくり食事…とは行かないようで、これから3年間この訓練施設で生活を共にすることになる同期も大勢この空間に集まっては自己紹介をしたり友達を作ろうと、各々気が合いそうな人間を見つけては話しかけに回っている。

開拓地でよく世話を焼いてくれたおばさんは「強くなりたいなら良好な人間関係を築きなさい」とも言っていたし、本当はみんなのように誰かと関係を築こうとした方がいいのは分かっている。分かってはいるけれど、何だか気が乗らない。わざわざ誰かから話しかけられる事も特になかったことが功を奏して、わたしはざわざわと喧騒的な空間で背中を丸めるように気配を消しながら、明日からの過酷な訓練を乗り切れるように無理やりスープを掬ったスプーンに口を付けた。

気乗りしない、食欲がない原因には心当たりがあった。それはわたしの座っているテーブルのすぐ隣のテーブルで盛り上がるように繰り広げられている『2年前のあの日』の話だった。


約100年間巨人の脅威から守られ続けていた3重の壁は、2年前に破壊された。突如現れた50メートルの壁の高さを優に超える『超大型巨人』そして体当たりだけで簡単に扉を破壊出来てしまう『鎧の巨人』によって、シガンシナ区、ウォール・マリアは陥落した。

当時その被害を目の当たりにした人間にとっては思い出したくもない悪夢そのもの。しかし何も知らない者にとってはただの興味のある話のネタにしかならず、嬉々として「どのくらい大きいのか」「どんな顔をしていたのか」などと、シガンシナ区出身だという人に責め立てるようにいくつも質問している。仕舞いには「普通の巨人はどんなだったか」という馬鹿げた質問まで飛び出し、質問攻めにあっていた彼は嘔吐えずくように口を押さえスプーンをカラン、と落とした。

しん、と静まり返る食堂に不快感を覚え、わたしもトレーにカタン、とスプーンを置いた。

仕方ない。彼らは巨人の姿を見たことがないのだから。仕方ないとはいえ、配慮のないその行動に苛立ちを憶える。こんな危機感も緊張感もない人間たちと、果たして仲良くなるなんてことが出来るのだろうか。…いや、その必要性も今はすでに感じていない。夕刻終了の合図の鐘が鳴り響く前に、宿舎に戻って早く寝よう。そう思いながら残ったパンとスープをそのままにトレーを片付けようと手を添えると。


「調査兵団に入って…巨人を駆逐してやる!」


食堂内に響き渡るように聞こえてきたその声にわたしはピタリと動きを止め、さっきまで質問攻めに遭って青い顔をしていた彼に視線を移した。巨人など実際大したことはない。立体起動装置を使いこなせるようになればあんなのは敵じゃないと豪語するように彼は言った。不敵に笑いながら、固いパンを噛みちぎる。そんな彼にわたしと同じテーブルについている人は「正気か?」と問い、不穏な空気が漂う。

「お前は確か、憲兵団に入って楽したいんだったっけ?」
「俺は正直者なんでね、心底怯えながら勇敢気取ってやがるやつよりよっぽどさわやかだと思うがな」
「っ、そりゃ俺のことか」

言い合いが始まりそうな雰囲気を察したように夕飯終了の合図の鐘が施設に鳴り響き、続々と皆トレーを片付け始める。さっきまで言い合いをしていた二人もどうやら和解したようで、それぞれ特に難色を残すことなく下膳列に並んだのを見て、わたしもトレーを持って下膳のついでに『彼』に近寄った。


「どうやって?」


今日初めて出した声を、わたしは「巨人を駆逐する」と宣言した彼にぶつけた。

周囲の視線が注がれているなか、わたしの少し高い場所に位置する二つの翡翠色を食い入るように見つめると、彼のそれは驚いたように見開かれた。続けざまに「どうやって駆逐するの?」と問うと、言い淀みながら彼は口を開いた。

「…ど、どうやってって……」
「どうやって実現させるの?」
「そ、そんなん…決まってんだろ」

立体起動装置を使って…。
そう答える彼に、質問の意図が伝わっていないことを理解し若干の苛立ちを憶える。

壁が築かれた約100年前に、壁外人類は絶滅し壁の外は巨人が大勢蔓延っている。しかし人類は巨人に勝とうと何度も何度も戦ってきた。優秀な兵士は今までにも何人もいて、その人たちも一様に戦い続けてきた。巨人と戦う唯一の方法である『立体起動装置』を使って。ではその結果、巨人が減ったか?

否。人類は何度も何年も戦い続けてきて、未だに巨人を絶滅させられていないのだ。どんなに優秀な兵士も、どんなに優秀な参謀も、巨人を滅亡させることは未だかつて不可能だった。なのに、そんな人類にとって夢物語に近い希望を、今日兵団に入団したばかりの彼は「可能」だと言った。

純粋に気になった。彼はどうやって、どんな方法を用いて、どんな風に、巨人を駆逐するのか。本当は怯えながらも勇敢を気取るように豪語するからには、きっと彼はものすごい方法を考えているのだろうと。しかし、わたしの思っていた回答は得られなかった。

まぁ、いい。これから時間はたっぷりある。訓練課程を過ごすうちに、彼の技量もきっと確認できるだろう。

「…きっと何か、特別な力を持ってるんだね」

トレーニングをものすごくしてきたとか、頭が良くてとんでもない方法を考えられるとか、立体起動術がものすごく上手とか。何でもいい。本当に「巨人を駆逐できる」と本人が確信しているその力を発揮してくれる日が、きっとどこかにあるんだろう。

「楽しみにしてる」

わたしはそう言い終えると、自分の持っていたトレーを下膳籠に入れた。未だ動きを見せず固まっている彼に背を向けて歩き出した。さぁ、明日は訓練だ。早く寝よう。そう思いながら、宿舎に戻る。


しかし、思っていたよりも早く。
彼の技量を見定める機会はやって来た。

「何をやってるエレン・イェーガー!上体を起こせ!」

翌日、教官に呼ばれた順番に柱に括りつけられたワイヤーにベルトを装着し、空中に浮かんでバランスを取るという立体起動術の適正を見極める姿勢制御訓練で、彼…エレン・イェーガーは逆さまになっていた。

例えバランスを崩したとはいえ、この装置の設計上すぐにバランスを取り直して状態を起こすことは可能だ。しかしエレンは上体を起こすことも難しいようで、程なくして巻き取られていたワイヤーを緩ませ、地上に下ろされた。立体起動が上手く使えないのであれば、兵士になどなれない。有事の際に人類が巨人と戦うことが出来る唯一の装置がこの立体起動装置だからだ。この姿勢制御が出来ない以上、兵士の道を諦めてまた開拓地へと戻るしかない。

巨人を駆逐する。自分にはそれが出来る。と宣言していた彼が逆さまになるくらいだ。もしかしたら自分が想定していた以上にこの姿勢制御は難しいのかもしれない。

「次!ルリ・オークラ!」

教官に名前を呼ばれ、たくさんの視線を浴びながら装置のワイヤーにベルトを括りつけては空中に浮かぶ。少し緊張したが、実際に浮かんでみてものすごく驚いた。全身の力を抜いた状態でも、一切揺れることも震えることもなく何の難易度も感じられない状況に少々困惑した。試しにブランコのようにゆらゆらと揺れてみても上体が倒れてしまうこともない。…これは、逆さまになる方が逆に難しいのではないだろうか。「姿勢もよくブレが一切ないな」と教官から好評と合格を貰い、わたしはすぐに地面に下ろされる。

ふぅ、と人知れずため息をついた。
なんだ。エレンは巨人を駆逐できるほどの力を持った特別な人間なのかと思っていたのに、ただの『夢追い人』だったのか。そんなことを思いながら、先ほどのエレンの惨状を見るまでは湧いていた彼への好奇心が一気に消え失せていくのを感じた。訓練前はその技量を確認しようとエレン・イェーガーを食い入るように見ていたが、その後何人かの吊り上げが続き訓練が終わっても、わたしは一切彼の動向を目で追わないようになっていた。



「っなぁ、アンタ!」

訓練が終わり、その後の座学が行われる教室へ向かおうと教本を持って休憩時間に廊下を歩いていると、後ろから誰かに呼び止められ、右腕を軽く後ろに引かれる。

振り向くとそこにはわたしの身長よりも大きい男の人が少し息を切らしながら立っていて、話した憶えもないことから「この人は誰なんだろう」と少し首を傾げた。しかし、わたしの顔を食い入るように向けられる琥珀色には憶えがあり、それはすぐに解決する。

「…あぁ、教官に頭突きされてた人」
「っ、ジャン・キルシュタインだ!」

確か昨日の入団式で「憲兵団に入りたい」と言って教官に思いきり頭突きされ、地面にへたり込んだ人だ、と思い出す。あのあと彼のいる列が後ろを振り向くと、解散が掛かるまでずっと高いところからわたしの顔を睨みつけていた人。

「…なに?ジャン」
「っ、!」

何を言われるんだろうと思いながらそう聞くと、ジャンはぐっと眉根を寄せながら押し黙る。窓から柔らかな陽が照らす暖かい廊下で、沈黙が流れる。…何も言わないという事は、何でもなかったということだ。そのまま踵を返して目的地まで向かおうと一歩を踏み出すと。

「い、一緒に教室に行かねぇか…?」

小さな声だったが、静かな廊下に響いたおかげで耳まで届いた。またジャンの立っているほうへ振り返ると、彼の頬が紅潮している事に気が付く。琥珀色は今度はわたしを見ずに窓の外へと向いており、わたしはまたその言葉に首を傾げる。

「どうして?」
「なっ、!」

何故、知り合って間もない人間と並んで教室に行きたいと思うのだろうか。その理由が知りたくてジャンへ問うと、彼は紅潮した頬をそのままに顔を歪めた。

「お前、昨日からそればっかりだな!何でだ!」
「…それって?」
「『どうして』『どうやって』ばかりだっつってんだよ!」

ああ。言われてみれば。
昨日から声を出したかと思えば、その真意を問う言葉ばかり言っていた気がする。自分の行動パターンを他人に指摘されたのは初めてで、今度は他人にその真意を問われている。声を荒げて怒っているようなジャンを見つめながら、確かにこれは急に答えるのは難しいな、と思案する。

「な?急には答えられねぇだろ?」
「うん、わたしが悪かった。ごめん」
「…っ、別に分かればいいけどよ」

頭を掻きながらそう言ったジャンに、今度からあまり軽率に「どうして」と聞かないようにしようと心に留める。ポケットに片手を入れながら教科書を抱え直した彼は「行くぞ」とわたしに声を掛けて歩き出した。あ…結局教室へは一緒に行くんだ…と、わたしは少し億劫な気持ちを抱えながら彼の背中を追うように歩いた。

「…あー、名前は」
「ルリ・オークラ」

一番乗りで教室に着き、わたしが窓際の一番後ろの席を陣取ると、二人掛けの机の隣にはジャンが座る。席も一緒にするのか…と気持ちが重くなるのを感じるが、彼は我関せずといったようにわたしの名前を聞いてくる。名前も知らないわたしに何故こうも話しかけに来るんだと思いながらも、さっき「何故」とは聞かないと決めたばかりだったから、彼には聞けず仕舞いだった。

「ルリか、よろしくな」
「うん」
「さっきの姿勢制御訓練、上手かったよな」
「ありがとう」
「何かやってたのか?トレーニングとか」
「まぁ色々と…」
「…そ、か………」

次々に投げられる質問に一つ一つ返していると、ジャンが突然黙り、さっきの廊下の時のように沈黙が走る。しかしジャンが何故こんなにもわたしに絡んでくるのか理由は分かったような気がする。さっきの立体起動の姿勢制御訓練でわたしが上手く出来たことに興味を持ったらしい。わたし以外にブレや震えもない人といえば、サシャ・ブラウスという人とミカサ・アッカーマンという人だけだったし、もしかしたら彼はもっと立体起動術を勉強して上達したいだけなのかもしれない。人に何かを教えるのは苦手だが、満足して構われないようになってくれた方がわたしの気が楽かもしれない。だったらわたしが独学で勉強した技術を彼に教えるのもアリか…。
そんなことを思いながら、おもむろに口を開こうとすると隣から盛大なため息が聞こえてきて、視線をジャンの方向へと向けた。

「…ルリ、お前さては人と関わるのが苦手だな?」

机に肘を置き、頬杖をつきながら呆れたとでも言うような表情をしたジャンは鋭い琥珀をわたしへと向けてくる。その言葉にわたしは思うところがあり、動きを止めながらジャンの顔を見つめ返した。

わたしはどうやら「何故」と問いかけることはあるが、その他の言葉のキャッチボールが全くできていないのだそうだ。他は押し黙ってじっとどこかを見つめているか、相手から話しかけてくれるのを待っているか、話しかけられても必要最低限しか返さないか。

確かに昨日の夕飯時、食堂でみんなが話しかけ合っているなかでも、わたしは誰かに話しかけてもらうのを待っていた気がする。出身が違う事で「理解できない人達」とラベリングして、関わる必要性のなさを正当化していたことも自覚する。その行動はすべて「人と関わることが苦手」だったからなのだろうか。

「分からない…友達とか居なかったし、」
「居なかった?一人もか?」
「……飼ってた犬が友達だった」

昔からわたしの友達と呼べるのは母がどこかからか拾ってきた犬の「フィエロ」だけだった。草地を駆けまわったり山に遊びに行ったり川へ行くときも必ず父か母のどちらかとフィエロが一緒にいた。特段不自由もなかったし寂しい思いもしなかったから、人間の友達の必要性を感じていなかったのもわたしの人嫌いの要因の一つなのかもしれない。

そんなことを話すと、ジャンは噴き出したように笑ったので「馬鹿にされている」と思い俯くと、若干まだ笑いながらも「悪ぃ悪ぃ」と頬杖を解いた。

「じゃあルリ、俺はお前の『友達』第一号だ」
「…ジャンが友達?」
「おぅ、そんで新しい友達の作り方も教えてやる」
「……本当?」
「ッハハ!まぁ、任せろよ」

未だに自ら進んで友達を作ろうという気にはならなかったが、何だか陽の光を浴びて笑っているジャンの顔が眩しくて。昨日自らを「俺は正直者なんだ」と評した裏表のなさそうな彼がそう言ってくれているなら、彼に教えを乞うのも悪くはないことのように思えた。

じゃあ…よろしく。そう言って彼に手を差し出すと、少し戸惑ったように動きを止めた後、ジャンは「…おう」と小さく言葉を吐きながらわたしの手を握り返した。その手がひどく温かくて、むかし母と手を繋いだことを思い出す。しかしその手は柔らかさなどは全くなく、大きくて骨ばった感触がして心臓が少しだけ跳ね上がった。

それが何故なのか理由は分からなかったが、また「何故」とジャンに聞けば今度こそ呆れ果ててしまいそうで少し怖くなり、わたしはその意味を知ることもなく、その熱のようなものをそっと胸にしまったのだった。

何かが起きそうな、そんな予感がした