ただひたすらに抱き込んでしまいたかった。その小さくて細い身体を衝動的に、けれど壊さないように大切に。風を受けて流れる空のように揺らめく碧い瞳を見つめて、左手を伸ばしかけたその瞬間、俺の邪な思いを察したかのように崖上にまで余裕で届くくらい、大きく起床の合図の鐘が鳴り響く。

「…戻るか」
「うん…」

くそ。邪魔をされた。
そんな悔しい気持ちと同時に安堵のような感情も芽生えた。もしこのままルリに触れてしまっていれば、俺は暴走してしまっていたことだろう。そうなれば、ルリからの友達としての信頼も立場も失ってしまっていたかもしれない。それがひどく恐ろしいことのように思えて、俺はただひたすら、もとの『ルリの友達第一号』の俺のままであろうと平静を保った。

エレンとアルミンからルリの昔の話を聞いた後も、ただ平静を保とうとしていた。冷静に考えれば『ただの友達』である俺にルリの過去や現在をどうこうしようなど、勘違いも甚だしかったことに気が付いたのだ。

昔のルリは確かによく笑う子だったのかもしれない。どんな生活をしていたのか、どんな姿だったのか、どんな事を考えていたのか。それは俺の知り得ないもので、今後も俺が関われるものではない。知ったところでどうこうなど出来ないのだ。それと同じで、現在のルリをどうこうする権利なども今の俺は持ち合わせていない。何故笑わなくなったのか、何を考えているのか、今後どうするのか。そんな事さえ介入できる立場ではないのだ。

マルコは「別に良いじゃないか、友達なんだから」と、色々聞いても介入しても問題ないと笑ったが、俺にはそうは思えなかった。人にはそれぞれ自分だけの追い求める自由や思想というものが必ずあって、それは何人たりとも変えられるものではない。むしろ介入されることや触れられることを嫌がる人間だっている。現に俺自身がそうだからだ。自分の求める自由や思想には、親であろうが介入されたくない。俺は俺の求める自分でいたい。そう思ったから、ルリの『笑わなくなった』という事実に触れることを恐れた。

それでもやっぱり眠れなくて、朝も明ける前に宿舎から忍ぶように出て行ったエレンに静かに舌打ちをしながら、俺はその後を追ってしまった。実際はなんてこともない、エレンがルリに頼み込んで姿勢制御のコツを教えてもらいちょっとばかり成功したってだけの事実を見ただけだった。けれど、成功したエレンを見て少し逃げるようにその場を去ったルリがどうしても気になって仕方なくて、営庭をひたすら走るルリの背を見つめながら、俺も後を追うように走った。

ずっと地面の砂を見つめながら走るルリ。俺の事にも気付きやしない。何か思い塞ぐように、雑念を取り払うように、ずっと下を向いて走っている。その様子がどうしても自分を律している、責めているかのように見えて、酷く苛立ちを憶えた。

本当はエレンが姿勢制御を成功させて喜びたかったんじゃないか。笑いかけたかったんじゃないか。そんな風にも見て取れて、じゃあなんでそうしないんだと声を荒げてしまいそうだった。

ルリが俺の存在に気が付いた後でも、ひたすらモヤモヤと渦巻く嫌な感情が中々無くなってくれなくて、俺はルリを無視をするような態度を取ってしまった。何してんだろうな…わざわざ後を追って一緒に走ってまで無視って、餓鬼かよ俺は…自嘲しながら昨日のマルコの言葉を思い出す。

『僕は…もしもジャンが何かに思い悩んでいるかもしれないと思ったら、僕は迷うことなく君に声を掛けるよ。どうしたの?ってね。だって、それが友達だろ?』

そう言って笑ったマルコを思い出して、俺は漸くルリに視線を向けた。俺はマルコほど優しくもねぇし、出来ねぇ。でも俺なりに、ルリが何か悩んでいるなら寄り添ってやることくらいは出来るんじゃねぇかと思った。下ばかり向いているルリに上を向かせて、隣に立っていることくらいはしてやれるんじゃねぇかと。

「綺麗」

朝日を見てそう呟いたルリは、瞳を揺らして感動しているようだった。今まで見た中で一番明るい顔をしていて、けれどやっぱり表情はあまり変わらなくて。もしもルリの心が少しとはいえ晴れていたとしても、それを表現できていないのはとても悲しいことのように思えたのだ。だから「寄り添うだけだ」と決めたのに、俺はつい昔の話をしてしまった。「何故笑わなくなったのか」と。気が付いた時にはもう言葉は音として出されてしまっていて、手遅れだったことで後には引けなくなっていた。実際はただの独りよがりな欲望だった。俺自身がルリの笑った顔を見てみたいと思っただけ。ルリの気持ちにも何にも配慮していない、ただの自己満足。「関係ない」と言われるかと身構えたが、案外ルリは昔の話をすらすらと話し出した。

昔の自分は自分じゃなかった。
そう告げるルリに俺はひどく安堵した。

何か辛いことがあって、傷付いて、今までの自分自身を曝け出せないのかと思っていた。けれどエレンやアルミンの見ていた昔のルリは本当の彼女ではなく、いま目の前にいる彼女が本当のルリなのだと、彼女の言葉で理解して、思わず頭を抱えた。

何を深読みしてんだよ。俺。
今まで俺が接してきたルリが本当の彼女なのだというのであれば、それで良かったと心の底から思った。「面白いことがないのに笑えるわけがない」と表情を崩さない彼女も、思っていることを口に出そうとして多少キツイことを言ってしまう彼女も。そのすべてが偽ったものや、本当の彼女を隠しているための蓋なんかじゃなく。すべてありのままだというのなら、本当に良かった。

俺の好きになったルリは、ちゃんとルリなんだな。

そう思えば一気に心が晴れる。何をぐずぐずモヤモヤと考えていたんだろうかと馬鹿らしくもなってくる。マルコ、お前ってすげぇ奴だな。なんも気にする必要なかったんだな。ルリだってその気ならルリらしくぶつかって来てくれる。彼女に『嫌われる』ということが恐ろしくて正常な判断を下せない俺に、大切なことを教えてくれた友人に俺は感謝の気持ちを超えて尊敬の念すら抱き、これからは俺も俺らしくルリにぶつかって行こうと認識を改めた。



「まぁ、ぶつかり方も下手すると『どしたん?話聞こか?男』にもなる可能性があるから気を付けてね」

午前中もう一度姿勢制御訓練を行ってルリの「おかげ」で制御成功したエレンを取り囲む輪が出来ている食堂で昼食中、俺はマルコに事のあらましを話しながら感謝していると、マルコは突然そう言った。

「んだよ、せっかく人が感謝したっつーのに」
「ハハ、ごめんごめん。」

そう言いながらあんまり悪いと思っていなさそうなマルコに小さく舌打ちをした。前言撤回だ。コイツは俺を面白がっている。そう逡巡すると、マルコは「でも、ルリってそういう男惹きつけやすそうだから気を付けた方がいいよ」と苦笑しながら言った。

確かに一見、ルリ自身の背景に影があるようにも見える。実際シガンシナ区出身で、巨人に襲撃され故郷を追われて、もう戻ることも出来ない。友達も少なく和気あいあいとしているところもあまり見られないから、その隙のようなものに付け入ろうとする人間は少なからずいるのだ。現にルリは見目の麗しさだけで男どもの視線を吸い取るように奪っている。孤独で影のある美人というものは、悪い男の格好の餌食である。しかし。

「分かってねぇなマルコ、ルリは素直に捻くれてる上に毒舌だ」

そんな男が寄ってきたところで、ルリは「なんで話をしたいの」「別にどうもしてない」の一言で撃退するに決まってる。何故なら俺の時がそうだったからだ。俺が得意げに踏ん反り返ってそう言うと、マルコは可笑しそうに笑って「はいはい」とパンを齧った。

「…わたしの話してる」
「あ、ルリ」
「……馬鹿にしてた?」
「してねぇって」

ようやく配膳列から抜け出したのかトレーを持って俺の隣に座るルリ。自分のいない間に自分の話で笑われていたことで「馬鹿にされている」とすぐに思考が展開されるのは明らかに捻くれ者の証拠だ。彼女自身が自認している性格に間違いはないことにまた笑うと、ルリは少しだけジトッと視線を俺に向け、スープを一口啜った。

あぁ、可愛いな…と思わず頬杖をついてルリの仕草すべてに夢中になる。垂れる髪を耳に掛ける仕草、何かを口にした後少しだけ唇を舐める仕草、飲み込むときに顎を少しだけ引く仕草。そのどれもが魅力的に見えて、衝動的な感情が湧いてくる。このままルリの頭をもみくちゃに撫でくり回して、少し嫌がるルリを両腕でかき抱いて、小さな身体をぎゅうぎゅうに締め付けたい。凶暴にも思える欲望が沸々と湧いてくるのを感じ取り、マズイと自制するように視線を移すと。

な…なんだ、と……!!
一つ隣のテーブルに座っていたある男が手に持っているパンに口も付けずにボーっとルリの事を見つめているのにいま初めて気が付いた。ヤツの目はとろんと潤みながら下がっており、頬は紅潮し、だらしなく口まで開いている。この顔は憶えがある。コイツ…!

さっきまでの俺じゃねぇか…ッ!

ルリに見惚れながらぐちゃぐちゃにしたいと呆れるような思考をしていた時の俺は、この男と同じような表情をしていた自覚があった。つまり、いまあの男はさっきまでの俺と同じ事を考えているに違いない。もみくちゃに撫でまわして、かき抱いて、ぎゅうぎゅうにして…。ルリがパンを齧り、ペロリと唇を舐めるのと同時に、ヤツも同じように「ペロリ」と唇を舐めた。

コイツ…ッ!!!!ルリとのキッッスを想像してやがる…ッ!!!!!!!

どうせルリは自分で変な男を撃退するんだろうが、俺は邪な気持ちでルリを見る男が俺以外にも存在するのがどうしても許せなかった。苛立ちを通り越して殺意すら憶え、咄嗟に立ち上がり、ヤツの視界からルリを遮るように掌を壁のように差し出す。するとヤツと目が合い、これまでにないほどの憎しみを込めて睨めば、男はおずおずと視線を逸らす。

「…?なにしてるの?」
「まぁ、ある種のマーキングだよ」
「??」

マルコとルリの会話を聞きながら椅子に座り直し、大きくため息を吐いた。もしも今後、俺の居ないところで今みたいにルリが邪な男に視姦されたらどうしよう。想像上ですらルリを慰み者にされるのは嫌なのに、場合によっては一人でいることで想像を増長させ、実際に危険な目に遭ったらどうする。相手は男で、ルリは小柄で細く、力もないだろう。抵抗する間もなく…なんてことになったら…そう考えたら全身の血がさあっと引いていくのが分かった。

「ルリ…お前…」
「?」
「もっと友達作れ」

切実に思った。俺が傍にいてやれない時にルリの傍に誰かしら信用できる奴がいてくれたら…と。マルコも居るが、一人じゃどうも心許ない。もっと大勢が必要だ。小さなルリを取り囲むくらい、もっと大勢が。ルリも言っていた。ほんとうはもっと友達が欲しいんだと。ならば利害は一致する。ルリに今一番必要なのは友達作りだ。

「で…でも、どうやって…」
「なんでもいいから話すんだよ」
「なんでもって何を…」
「マルコとは出来たじゃねぇか」
「でもそれはジャンが一緒にいたからで…」
「なら今だ」

捲し立てるような勢いで「今だ」「いま友達を作れ」と言うと、戸惑ったように視線を動かすルリ。俺はその場に居た人間に目を付けると、持っていたパンを半分割った。

「オイ芋女」
「芋女て!サシャ・ブラウスです!」
「何でもいい、パン半分やるから座れ」
「えっ!?いいんですか!?」

持っていた半分のパンを差し出すと、サシャは目を輝かせて速攻ルリの隣に座った。パンを放り投げてやると、まるで獣みたいに口でキャッチする。…人選ミスったか?いや、でも友達になるならルリと同性の女の方がいいに決まってる。これ以上ライバルを増やすわけにはいかないからな。そう思いながらルリを見ると、彼女はこの状況に困惑しながらも俺を見た。揺れる碧を見つめながらフッと笑って少し頷くと、ルリは意を決したように顔をサシャの方へと向けた。

「あ、と…サシャ」
「っ!天使様!」
「…人間です…ルリ・オークラ」
「ルリですね!よろしくどうぞ!」
「あの…よければ、わたしのパンも食べる?」
「えっ!?またもや貰っていいんですか?!」
「うん…こんなには食べられないから」
「ありがとうございます!!ルリ!」
「う、うん」

どうやらルリは以前のサシャとの絡みも憶えていたようで、コイツが「メシをよく食うヤツ」という記憶はあったらしい。自分のパンを3分の2くらい捥ぎ取ると、そのまま多い方を渡していた。その多さにサシャは感動していたようで、貰ったパンを天に掲げては大切に大切に食べていた。

「ルリは小食なんですか?」
「多分…今までこんなに沢山食べたことない」
「わたしには少ないくらいです!今までどんな生活してたんですか!?」

ルリの一言に驚愕したように口元にパン屑を付けながらそう聞くサシャに俺もマルコも同意した。小さくて細いからと言って、あまりにも毎食毎食食べる量が少なすぎると思っていたのだ。何故なのかは聞かなかったものの、その理由は大いに気になる。すると。

「開拓地では一日の配給が芋一個だったから…」

わたしのいた開拓地は土壌が悪かったのか中々野菜が育たなくて…その分成果がないからって食べられたのは一日一個の芋だけだったの。2年間続けてたら胃が小さくなってたみたいで、あんまり沢山たべると胃もたれするようになっちゃったから…

そんなとんでもない苦労話をするルリに俺らは思わず固まった。マルコが「開拓地ってそんなに過酷なの…?」と驚愕すると、ルリは「場所にもよるとは思うけど…」と話す。…こんな小さな身体で、一体どれだけ苦労してきたんだと思うと胸が震えた。目頭に上がってくる熱をひたすら堪えていると、すすり泣く声が聞こえてきた。

「ルリ…そんなにつらい経験してきたんですね…」

やっぱりパン返します…食べてください…とルリに貰ったパンをすすり泣きながら返そうとするサシャ。しかしルリは「ホントに食べられないから…食べて欲しい…!」と両手で突き返す。サシャの気持ちは手に取るように分かった。ルリに幸せになって貰いたい。心の底から笑ったり、喜んだり、泣いたり、怒ったりして欲しい。

…決めた。やっぱり俺はいつか絶対に憲兵団に入って、ルリについ目の前の皿をピカピカに完食させるほどのうまいモン食わせて、ぜってー笑顔にさせてやる。人知れず決意をし拳を握ると、ルリは「でも…」と話を続けた。

「マルコが…いつか町に招待してくれるって」

マルコの町では牛を飼ってて、招待するときには牛肉のステーキを食べさせてくれるって言ってたから…それだけは、楽しみ。そう言ってほんの僅かに表情を緩ませたルリの言葉に、思わず感動する。あまり量を食べられないルリが、友達の好意を受け取り「頑張って食べたい」と答えようとする姿に、いじらしいような何とも言えない擽ったい気持ちになり、思わずルリ…と小さく呟く。

「何ですかぁそれ!!わたしも!!行きたいです!!!」
「っびっくりした、」
「鹿肉や猪肉は食べたことがありますが、牛肉は食べたことがありませんッ!!!」

食堂内に響き渡る大声でサシャが叫び、すぐ隣にいたルリはびくりと大きく肩を揺らした。何度も「わたしも招待して下さい」とマルコに頼み込むサシャの顔はまるでエサを目の間に置かれて待てをさせられている野犬のようなギラつきがあった。

「んだよ、面白そうな話じゃねぇか」
「ユミル!聞いてください!牛肉!」
「当然あたしらも招待してくれるよな?」
「ちょっとユミル!」
「いいじゃねぇか。人数は多い方がいいだろ」

サシャの叫び声で寄ってきたのはサシャとよくつるんでいるユミルとクリスタ。ニヤニヤと笑いながら近づいてきたかと思えば、奴らもマルコに「招待しろ」とまるで脅迫めいた誘い文句で詰め寄る。諫めようとするクリスタの声も効かないようで、ユミルはニッと口端を上げてルリを見る。

「な?ルリはどう思う?」

そう問われたルリはジッとユミルを見つめる。

いつか、ルリが沢山の人間に囲まれて楽しそうに笑う。そんな日がきっと来る。その光景を俺は一番近くで見ていたい。それは明日のことかもしれないし、ずっとずっと先の話かもしれない。でも、ルリの行く先に居たいと願うのであれば、俺も努力を怠らないように、どこまでもルリの求める「頼れるジャン」で居よう。そう決意した。

トン、とルリの肩に触れると、彼女の碧が俺を映す。その瞳の中にいる俺は笑っていて、すぐにルリは視線をユミルに戻す。

「行きたい、みんなで!」

そう言ったルリにマルコはルリにそう言われてしまったらもう仕方ないなと言いながら、にっこりとみんなに笑い返す。

「みんなで行こう。きっと」

いつかその町の空を碧が映すことを願って

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