カタカタと風が窓を揺らす音で目を覚ました。今は明朝だろうか…とまだ薄暗い外をぼんやり眺めて何となくで時間を確認する。同じ宿舎の他の子たちはまだ眠っていて、どうしたもんかと考えた結果、わたしはもそりと布団をはぎ取り、凝り固まった身体をほぐす様に伸びをした後、静かに兵服に着替えた。朝ごはんの前にランニングでもして身体を起こそうと宿舎のドアを開けて外に出ると。

「…エレン?」

ドアのすぐ横の壁に背中を預けるように立っていた人物を見て思わず話しかける。翡翠色の目にわたしを映すと、彼はすぐに「あ」と声を出した。誰かを待っていたんだろうか。そういえば、彼はいつもミカサという人と一緒にいる気がする。そう思い「ミカサはまだ寝てるよ」と一言だけ伝え、営庭に向かおうと足を踏み出すと。

「お前を待ってたんだ!」

そう言ってエレンの手がわたしの左腕を捕まえる。わたしを待ってた…?その一言に頭がハテナだらけになって「なんで?」と言いながら首を傾げる。…はっ、マズイ。また何で?と単体で聞いてしまった。昨日ジャンに指摘されたことを思い出し、今度は「何でわたしを待ってたの?」と聞き直すと、エレンは少し言いずらそうに口をもごもごさせた後、頭を勢いよく下げて「頼む!」と大きめの声を出した。



「…立体起動の姿勢制御訓練を教えて欲しい?」
「あぁ、昨日ルリ上手かっただろ?」

宿舎前で大声を出されたらたまった物じゃないと思い、営庭に向かいながらエレンの「頼み」とやらの内容を改めて聞くと、彼は昨日の姿勢制御訓練で上手くいかなかったのを気に病んで、あれから何度も挑戦したが何度やっても上手くいかないんだそうだ。他の人にアドバイスを求めても真面目に返っては来なかったようで、今日の再テストに出来なければ『開拓地行き』になるのだそう。そんなのは嫌だ…と悔しそうに顔を歪めるエレン。

「何度やっても駄目なら無理だと思う」
「え。そんなこと言わずに教えてくれよ…」

わたしの一言に顔を青くしたエレンは「一生のお願いだから」と言いながら両手を顔の前で祈るように合わせる。一生のお願いってこういう時に使うものなのか。もう二度と使えなくなるけどいいのかな…そんなことを思いながら切羽詰まった顔のエレンを見てはあ、とため息をつく。

「…分かった、少しだけなら」
「っ、!ありがとうルリ!」

パッと花が咲いたように顔を綻ばせ、拳を握りながら笑ったエレンを連れてわたしは昨日の吊り上げ装置がそのままにしてある場所へと足を運んだ。

「っ!うぉ!」
「なんで逆さまになるの?」
「お…俺だって分かんねぇよ…っ」
「……もう一回」
「…っうわああぁ!…っぶねぇ、!」
「…………」

何度も何度も吊り上げては前方向にぐるんと逆さまになるエレン。姿勢制御のコツを教えて欲しいとは言われたものの、自分の体幹とかバランス感覚でしかないから言葉にするのはなかなか難しく、そもそも何故逆さまになるんだろうと腕を組んで思案していると、エレンはわたしが怒っていると思ったのか「悪い…」と明からさまにヘコんだ顔をしていた。

「前方向に倒れるなら、重心をもっと後ろにしたらいいんじゃない?」

今度は後ろに倒れるかもしれないけど…そう付け足しながら解決策を伝える。これでどうにかなるとは思えなかったが、何も言わないよりはマシだろう。わたしは前より後ろに倒れる方が怖いから嫌だけどね。そんなことを思いながらエレンを見ると、彼はその翡翠色を揺らしていた。

「やってみる!もう一回上げてくれ!」
「え?…はい」

もう一度立ち上がったエレンは吊り上げを要求してきた。…本気でやるつもりなのだろうか。そう思いながらもレバーを回しワイヤーを巻き取ると。

「!」

たったの3秒ほどだったけれど、エレンは上手く重心を取って立ったまま空中に留まった。そのまま後ろに倒れ頭をぶつけていたけれど、立てなくなるほどの衝撃ではなさそうだった。驚きながらエレンを見ると、エレンも目を丸くしてそのままわたしを見上げた。

「…っ見たか!?今の!!」
「…うん、見た」
「出来た!一瞬だったけど!!」
「………」
「っ〜〜!これで…!」

戦える!
地面に倒れたまま、大きな声で歓喜しているエレンを見ながらわたしはまたレバーを回してワイヤーを緩ませた。正直3秒くらいでどうにかなるとは思えなかったけど、彼にとっては少しだけでも『出来た』という事実が滅法嬉しいようで、その後もずっと拳を握りながら嬉しさを嚙みしめるように空を見上げていた。

「ありがとな!ルリ!」

…あぁ、やっぱり苦手だ。
エレンを見ていると色々と思い出してしまう。

モヤモヤと濃い霧が掛かっていくような気持ちを悟られないようにと、わたしは「じゃあね」と一言だけ告げると、まだ練習をしたそうにしていたエレンを残しランニングをしに向かった。特に追いかけてくることもないエレンに少しホッとしながら、ひたすら地面を見つめて雑念を取り払うように走る。

彼は…エレンは、今日の出来事をこの先どんな風に思い返すのだろうか。「出来ないかもしれない」と一度絶望の底に叩き落とされては、今度は「出来るかもしれない」と甘い汁を一口だけ飲まされ、一気に身体を浮遊させるように歓喜する。

夢というのは『麻薬』のようだと思う。摂取すればのめり込み、摂取できなければ深い悲しみと自己嫌悪で狂ってしまう。

エレンの「巨人を駆逐する」という思考はものすごく危険なものだ。普通は巨人は避けるものであり、戦うものではない。もし2年前のように有事が起こった時は話は別だが、普段から巨人と戦いたい人なんて普通はいない。彼はどこか『異常』なのだ。

例えばこのまま訓練兵団を卒業して、本当に調査兵団に入ったとしても、その危険性は変わらない。もしも巨人を倒すことが困難な状況になったとしても、彼はきっとこう思ってしまうだろう。

『絶対に、巨人を駆逐するんだ』と。

そうして命を投げうって彼は挑むのだ。どこまでも憎く駆逐すると誓った『巨人』に。しかし本当に実現できる力はなく、それはただの義勇になる。そうして命の灯を消していくのだ。残された者の気持ちなど欠片も考えずに。

『夢追い人』とはそういうものなのだ。
もしかしたらその最期のその瞬間に今日の事を思い出してしまうかもしれない。「今日も出来たんだ、きっと出来る」と。…あぁ、やっぱり教えなければ良かった。

わたしはこの手で『化物』を作り出してしまったかもしれない。

走りながら自分の掌を見つめていると、後ろから砂を蹴りながらわたしの後を追い走っている音が聞こえ、ハッと意識を浮上させる。


「…ジャン?」
「……いま気付いたのかよ」

エレンだったら嫌だな、と思いながら後ろを振り返ると、そこには色の薄い金髪と琥珀色があり、内心ホッと息をつく。しかしわたしが音に気が付いたのは大分遅かったようで「10分くらい前から居た」と言われてしまう。そんなに長い間わたしはボーっとしてたのか…と驚愕すると、ジャンは少し速度を上げてわたしの横に並んで走った。

しかし、どんなに見上げても琥珀色の瞳と目が合うことはなく、彼はずっと前を見つめて無言で走っていた。心なしか不機嫌そうに見えなくもない。…朝は苦手なタイプなんだろうか。低血圧だったりするのかも。少しだけ寂しさを感じたが、今は話しかけられたくなさそうなのでわたしもそっと視線を前に向ける。

さっきまでまだ薄暗かった空は段々と白んで来ていたけれど、まだまだ朝食の時間には早そうだと逡巡する。どうしようかな、時間までずっと走ってるのもしんどいし…でも宿舎に帰ってもうひと眠りしたら訓練に間に合わなくなるかもしれない。色々と考えながらまたチラリとジャンを見上げると。

「…ねぇジャン、どうしたの?」

さっきまで一切こっちを見なかったくせに、彼は今度はジッと鋭い琥珀色をこちらに向けていた。片方の眉を引き上げながら訝しげに。ジャンの真意がわからなくて思わず足を止めながらそう問うと、彼も足を止めて振り返る。


「…お前さ、なんか色々と溜め込んでんだろ」


彼は手を腰に当て、重心を身体の左側に傾けながらそんなことを言った。突然なんの脈絡もないことを言いだすジャンに驚き、困惑する。溜め込む…昨日のように頭の中で色々思ったことを考えてるんだろうって事かな。それともエレンの事でモヤモヤしてるって事かな…。結局どれも該当するような気がしてわたしは首を捻る。どう答えたらいいものなのか…まごまごと口を動かしていると、ジャンの大きなため息が聞こえてくる。呆れているのかな…視線だけジャンに向けると。

「ちょっと付いて来い」
「え、?」

そう言ったジャンはわたしの腕をグッと掴み、そのまま背中を向けて歩き出した。わたしは訳も分からないまま、只々ジャンの大きな背中を見つめながらジャンの歩くスピードに合わせて歩くことしか出来ない。営庭を抜け、森に入り、ガサガサと草を掻き分けながら進む。

ジャン?どうしたの?どこへ行くの?何度か問いかけたが「いいから」という言葉しか返ってこない。仕舞いには何か坂のような急勾配なところをしばらく歩かされて、何度か足が滑り落ちそうになる。その度にジャンに引っ張り上げられて、何が何だか分からないうちにどこかへ到着した。足を止めたジャンの背中を見つめながら、切れた息を整えていると、ジャンは振り向きながら「こっちまで来い」と言う。

「わっ、ここ…崖?」
「立体起動訓練の時に使う崖だってよ」
「へぇ…」

ジャンの傍まで近寄ると、足元には途切れた地面。その先には、つい先ほど通ってきた森が遥か下に見える。普段私たちが歩いている地面はここから約50メートルほど下にあって、吹きすさぶ風に思わず足が竦む。これからこんな崖を登ったりする訓練をしなくてはいけないのか…それに兵士になったらこんな高い場所から飛び降りたりしないといけない。「…こわい」純粋にそう口に出すと、ジャンはまたため息をついた。

「ルリ」
「…なに?」
「お前、下向きすぎだ」
「……え?」

腕を組みながらそう言ったジャンの琥珀色を見つめると、彼は顎でわたしが見るべき方向を指し示す。そっと視線を移すと、そこには幻想的な景色が広がっていた。

「……っ、」

青くなりかけている空と
色濃いオレンジ色が満遍なく混ざっていて
ピンク色の雲の先では

眩しいほどの、朝日が昇るところだった。

わたし達が立っている崖は壁を想定してある高さがあり、疑似的に壁に登ったような位置付けにあった。少し先にはウォール・ローゼの壁上、そしてもっとその先には、影のせいで真っ黒になっているウォール・マリアの壁が見える。その壁の一部から段々と強く光るオレンジ色。そしてそれは突然、姿を見せる。

「すごい…、」

遠く見えるウォール・マリアの壁の先から薄っすらと見えていた朝日の光。ゆっくりとゆっくりと昇っているようで、それは段々と線ではなく球体になっていく。炎の如くすべてを焼き付けるような色に目を細めながらも、わたしはその景色から目が離せなかった。

普段壁の中の地面に立っていると、直接陽の光が当たり始めるのは9時から10時頃。その頃には太陽は白く燦々と眩しく輝いていて、肉眼で見るのも避けるほどだ。…だけど、この朝日は違う。優しい光に包まれていて、心を優しく撫でるような、そんな暖かい気持ちになった。


「…綺麗……」


今まで見たどんな景色より美しくて、時間も忘れてその様子を眺めていると、ジャンは「たまには前とか上見んのも悪くねぇだろ」と笑って言うので、わたしはすぐさま強く頷いた。

「ルリ、お前昔はよく笑ってたんだって?」
「昔って?」
「…あー、ほら。シガンシナにいた時…」

崖に足を放り出すように座り込んだジャンを真似して、わたしもその横に座る。少し位置が低くなっても朝日はまだ柔らかい光を保ちながらわたしたちを照らしていて、ジャンの瞳の琥珀色も深みを増したように見えた。なんでその事を知ってるのかと聞くと、昨日宿舎に帰った後、アルミンとエレンがわたしの昔の話をしていたらしい。少し憂鬱な気分になりながらもしっかりと頷くと、ジャンは「なんで今は笑わなくなったのか」と少し不服そうに言った。

「昔の自分はあんまり好きじゃない…」
「…?どういう意味だよ」

両手を地面につけて、足をプラプラと揺らしながらそう答えたけれど、我ながら意図の伝わりにくい言葉を選んでしまったと自覚する。困惑しているであろうジャンは首を傾げながらじっくりと思案した後、やっぱり分からないとでも言うかのように肩を竦めた。

恐らくエレンやアルミンが話したわたしのシガンシナ区時代の話は『シガンシナの天使』とかいう奇妙な名前で呼ばれていた頃の話だろう。確かにジャンの言う通り、その頃はずっと笑っていた。誰に会ってもニコニコニコニコ、何もなくてもニコニコニコニコ。一人でいる時ですら、笑顔を絶やさないようにしていた。

「お母さんがね、そうしなさいって」

物心ついた時には母は口癖のように「ずっと笑っていなさい」と言っていた。そうすれば必ず幸せが舞い込んでくるから。誰かに優しくしてもらえるから。誰かに好いてもらえるから。誰かに助けてもらえるから。笑顔でいればいるだけ嬉しいことや楽しいことが自分の身に起こるんだってそう言っていたから、それを信じて言いつけを守ってきた。

でも心の奥底ではこう思ってもいた。
「楽しくもないのに、馬鹿みたい」って。

実際幸せだったかと聞かれればそうでもなかったし、優しくしてもらえたかは微妙なところ。好かれたかは友達がいなかったことで言わずもがなだし、助けてもらえたかと言われればそんな事もなかった。

けれどあの時は親のいう事の方が正しいんだって自分に言い聞かせて、結局自分のやりたいようにはしなかったし、出来なかった。親は常に近くに居て、目の届くところに居なさいって行動も制限されていたし、そうするしかなかった。

「あの時のわたしは、わたしじゃなかった」

本当のわたしは陰気で、捻くれていて、人と上手く付き合うことも出来ない不完全な、そんな人間だ。天使なんて完璧なものじゃなくて、弱い人間。すぐに嫌なことから逃げようとする人間。今ここにいる、朝日を見て感動してもどうやって顔や身体で表現すればいいか分からないわたし。本当は友達が欲しくて、でもどうすればいいか分からなくて、ジャンに頼りきっている、今のわたし。

「いまのわたしが、本当のわたし」

わたしは『天使』なんかじゃなくて、弱くてもいいから普通の『人間』で居たい。

だからわたしはもう面白いことがないと笑わないし、人に過剰に優しくもしない。自分の気持ちに素直でありたい。だから無駄には笑わない。そう言い終わると、この高い高い崖の上で沈黙が生まれる。

き、嫌われただろうか…。
我ながら重苦しい話をしてしまったと逡巡する。いま話したことに嘘や偽りはない。わたしは本当に昔の自分より、今の自分の方が幾ばくか好きで居られている。ありのままの自分でいたいと願っているのは自分自身だけれど、他人にそれを理解して貰えるかどうかは別だ。ジャンも「何で笑わないのか」と聞いてきたくらいだし、本当はジャンも「少しは笑えよ」と思っているのかもしれない。こんな表情筋が死んでいて常に無表情の人間とは友達でいたくないと思っているのかも…。そしたらちょっと…いや、だいぶ傷つく。

顳顬こめかみあたりに冷や汗をかきながらぐるぐると頭の中で考えていると、横にいたジャンが突然後ろへバタンと倒れたものだから、びくりと肩が跳ねる。彼は崖下に投げ出していた足をそのままに、仰向けに寝転がっている。両手で顔を隠しているためその表情は見えなかったが、突然の事で仰天してしまい「ジャ、ジャン?」と声を掛けながらその表情を伺うようにずりずりと這いずって近寄る。まさか話が重すぎて倒れてしまったのかと思ったが、すぐに腹部がリズミカルに動き出し、笑い声も聞こえてきたことでホッと安心する。

「ハハッ、なんだよ…俺はてっきり…」

お前…自分を偽って隠してんのかと…
風に乗ってどこかへ消えていきそうなほどか細い声を出したジャンはそのまま髪をかき上げるようにして両手の力を抜いた。笑っているような、安心しているような。そんな優しく柔らかくなったジャンの表情を見つめていたら、その琥珀色と目が合った。…あぁ、さっきも思ったけれど、ジャンの瞳って…そんなことを考えていると、徐に右腕をガシと大きな手で掴まれた。

「今のお前が、ルリだってことだな?」

ジャンの言葉に静かに頷くと、彼は目を細めて笑った。
「なら、良かった」…と。

開拓地でも「もっと笑えばいいのに」と何度も言われてきた。これが自分なんだと伝えても、なかなか引き下がる人はいなかった。何とかわたしを笑わせようとしてくる人もいたし、無理矢理顔を引っ張られたこともある。その度に「笑わないと価値がない」と言われているようで、わたしのなりたい自分は必要とすらされないのだろうかと思い悩んだ日もあった。

しかし今日、わたしは出会ってしまった。
わたし自身を認めて、それでいいと肯定してくれる人に。

ドクドクと心臓が煩くて、喉の奥がきゅうと鳴る。なんだか全身が熱くなってきて、熱に浮かされている時のようだ。食い入るように彼の瞳を見つめながら、ふわふわとする頭で考える。

あぁ、朝日の色だーーと。

それは、すべての始まりを指し示す光