糸師凛
名前にとって糸師凛は憧れの男の子だった。
幼くして成人済みの女性の記憶をブチ込まれた名前は盛大に泣いた。
泣いて泣いて、首を括る思いで両親に本当のことを告げて、病院に連れていかれ名前は絶望した。
家族の絆なんてこれっぽっちもなかった。気狂い扱いされ、父母は自分を捨て、祖母に預けられた。
そりゃあ目に入れても痛くない娘が突然成人女性の魂が入ってると暴露したところでまともに信じる訳がないのに、その時の名前は混乱していたせいで全くその事実に気づかなかった。
祖母の家で死んだ目で過ごしていたある日、お隣さん兄弟がサッカーをしているところに出くわした。
名前にとってサッカーは好きなスポーツ以外の何者でもなかった。命をかけるほど一生懸命でもなければ無くなっては困るほどの熱意もなく。
それでも彼らのサッカーは、ボール捌きは今まで見ていた何よりも美しかった。
「ね、それどうやってるの?」
この時の選択が正しかったのかどうかはいまになってもわからない。
名前は見事にサッカーにハマった。いや、正式に言えばサッカーをする糸師兄弟にハマった。
自分も彼らのようにボールを操れないかと試行錯誤したときもあったが、早々に諦めサポートという道を選んだ。
本当に幼少の子供であればサッカーを諦めるなんて出来なかっただろうが、中身はいい大人であったのでそれ以外で彼らを側で見る方法はあると知っていた。
ネットや書店で人体について調べながら、ツテを使って知り合いにサポートの方法を学んだりした。
恋なんて生ぬるいものではなく、名前にとって糸師兄弟と過ごすことは自身の存在価値と、美しさの1パーツになる唯一の手段だと信じて止まなかった。
「二人が世界選手になったら、私は二人のサポートができたら嬉しいなあ」
紛れもなく本心だった。ただその言葉には"許される限り”という文言は抜けていたが。
名前はわかっていた。きっと二人は甘っちょろい日本代表なんかで妥協する人間じゃない。
いつかは置いて行かれる。
だからそれまで、タイムリミットが来るまで出来る限りサポートしたい、それが名前の願いだった。
置いていかれるその時まで、彼らの傍にいて、それから…
「消えろ凛、俺の人生にもうお前はいらない」
それを聞いて名前は遂に終わりが来たんだと察した。
世界を、広い海を見て。こんなぬるま湯に望んだものがないと気がついて。
いよいよお役御免だ。彼らのお陰でサポーターとしての技術は着々と身についていった。身体のメンテナンスに食事管理、事務職のあれやこれまで、学ぶことは名前にとって苦ではなかった。
二人に見放されても、食べていける技術は身についている。
「あーあ、ここまでかぁ」
長く夢に浸って居たかったがそう上手くはいかないらしい。
世話になった祖母はいなくなり、唯一の繋がりだった兄弟とも別れがきた。
いよいよ一人になることを受け入れなければと冬空を見上げたときだった。
「は、何言ってんだよ」
「私の夢も終わったなって。もう要らなくなっちゃったんだなあ」
淡々と、なんてことないように見えるよう告げる。彼らにひっついて生きる意味を見出して。これ以上生きる意味を探すのは少しシンドイけれど、これも自分の業だと思っていた。全ては名前の魂を喰った時から始まった業だった。
「兄貴が居なくなったらハイ終わりって?許されると思ってんのか」
「許すも何も、私が勝手に寄生してただけだもん。これ以上迷惑は掛けられないし」
そういって冬空から凛に目線を写した時。名前は死ぬほど後悔した。
「お前も俺を置いて行くつもりか?」
深淵がこちらを見ている。
「いっ、た」
あの後、凛にいくらそうじゃない、自身にそばにいる資格がないのだと説明をしても聞く耳を持たなかった。
祖母のいなくなった閑散とした部屋で凛に迫られ、逃げる術なんてなかった。
逃げようと思っても、あの怨みがましいターコイズブルーがこちらを覗いている。
力で押さえつけられてたせいで両手首にはクッキリ跡がついている。
凛が強化指定選手に選ばれて、少しだけ猶予ができたと安処したのがバレたのか、身体のあらゆるところにいつも以上に赤い痣が出来ている。
あれから凛に言われるがまま、通信制の専門学校に通うことになって(通うといっても年に数回だ)、家で勉強やゲームをして。外出は凛がいないと許されなかったし、凛がいるときに勉強やゲームは許されなかった。
ストレッチをしている凛のすぐそばで料理を作って。凛の気が済むまで好きにさせて。
どうも強化指定選手というのは合宿のようなもので(外の情報は見せてくれないのでよく知らないが)自由が手に入ると思った。
凛は知らないのだ、祖母がいなくなった今、どこにも行けやしないし多少なりとも彼の支えになれれば良いと情が湧いていることも。
逃げる場所なんてないから縛る必要だって無いのに、なぜこんなことをするのかわからないが、満足するまで付き合うのも寄生していた責任かな、と時計を見る。
もうすぐ出発の時間だ。
「凛!」
糸師ママに誘われて、U-20日本代表と青い監獄の試合を観に来た。
糸師ママは私にとって"母さん"みたいなもので、私たちの歪な関係も知らない。
冴くんと凛が違うチームで戦うことに心臓がえぐられる思いで会場に向かっていたけど、実際試合が始まるとなんてことなかった。
なあんだ、やっぱり方向性が違ってもサッカー好きなところは変わってないじゃん。
二人とも必死でボールを奪い合っちゃって。いつもそこには私はいない。
安心と、少しの虚無が襲ってきて。
気を抜いたせいか、凛を呼んでしまった。
基本的に外出は許されていない。
その事を思い出して顔を真っ青にしたが、遅かった。
凛は滅茶苦茶キレているし、冴くんはまん丸な目でこっちを見た。
というか
この距離で声って聞こえるのかな。これって凛が帰ってきたら冗談じゃなく半殺しにされるカモ。
結果はすぐに出た。
あまりの痛々しさにさすがの凛も悪いと思ったのかもしれない。
二週間のオフをもらってきたと言い、滅茶苦茶にされた初日。
痛すぎて死にそうになって、ご飯すら食べてなくて意識を飛ばした名前に焦った凛を見て、久し振りに名前は笑った。
三人で過ごしたあの頃にちょっと戻ったような、そんな気がして。
「ね、有名人。私キミと二人で東京デートしたいな」
こんなことを言ったのは初めてだった。
いつも後ろめたさを抱えてお願いなんてできなかった。
関係性っていうのは思ったより単純だったのかもしれない。
「わ、わ、見て凛!」
「んだよ、見てるって」
「超かわいい!ポテッコカフェだって!!ね、いこ、行こう!」
はしゃぐ名前を見て、こんなに落ち着きのない女だったかと凛は考えた。
昔から大人びていて、あまりはしゃいでるのを見たことがない。
唯一あるとすればゴールのネットを揺らした時、「いまのゴールすっごい美しかった!!やっぱり二人ともすごい!」と抱きついた時くらいだろうか。
凛は祖母がいなくなって、名前が自分に情が湧いて離れなれないことを知っている。
だからこそ見放されないことを知った上で囲っていたが、サッカーではなく自分と出かけることではしゃぐ名前を見て、案外こういうのも悪くないなと思った。
まぁ、たまに出かける程度であとはいつも通りになるだろうが。
「あ、れ、ねえ、あれって」
「なんだ?」
思いに耽っていると、名前が向かいのカフェを指差した。
そこにいる面子は嫌という程顔を合わせ、美しいサッカーに狂っている名前には絶対会わせたくない青い監獄の住人たちだった。
「あれ、凛!?」
「え、何カノジョ?」
「彼女も美人とか世の中可笑しいだろ」
そのまま歩みを止めず、むしろ競歩で人混みを掻き分けていく。
挨拶をしなければと思った名前の手を引っ張ってグイグイと進んでいく凛。
脚のリーチ的に普通に追いつけるわけがなく、小走りで息を切らす自分におかしくなって名前は笑い出した。
本当にあの頃に戻ったみたい。
こうやって、凛の活躍を見守って。たまにお出かけをしているだけできっと幸せだと名前は思った。
名前はまさか海外進出に自分を連れて行くとも思っていなかったしそこでも囲われるとは想像すらしていなかった。
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