糸師冴
※凛の話と同じ女
糸師冴にとって女は特別だった。
幼い頃から傍でサッカーを見続け、ネットを揺らすボールに感嘆の声をあげ。
誰が打ったとかそんなことミリも気にせず、ただただ美しいゴールが好きな変人で、ずっと傍にいると信じた女だった。
凛と訣別を決めた日。
名前の眼がやたら乾いているように見えて、冬風が心に吹き込んだようだった。
あの時のことをふと思い出す。
女の祖母がなくなったと聞いて、後から一緒に国外へ連れて行くべきだったか、変な期待を捨てさせるためにこれが正解だったのか冴は今でも正解がわからない。
ただ、なんとなしに日本を離れる前に女の顔を見たくなって。
顔を見たら去ろうと思った。
誓って彼女の生活を壊そうなんて考えていなかった。
扉を開けるその時まで。
名前の家の鍵は三つある。名前のもの、糸師母に何かあった時用にと渡しているもの。そして
あと一つは名前、凛と冴しか知らない、いつでも遊びに来ていいからと嬉しそうに名前が隠した一つだ。
こういうところは変わらないと扉を開けた時、玄関の惨状に冴はゾッとした。
脱ぎ散らかした名前の靴──いや、脱ぎ散らかしたというには向きがおかしい。まるで強盗でも押し入って蹴散らしたような靴。恐らく名前のカバンであろうものがぶちまけてある。名前は糸師兄弟のために、というより美しいサッカーのためにあらゆるものを吸収するような貪欲な女で、乱雑とは無縁の女だった。
いつも部屋は美しく無駄なものはない。
たまに兄弟の家に遊びに来ては部屋の片付けをすることもあった。
名前がこんなことをするはずがない。何かあったに違いないと急ぎ足で名前の部屋に向かった。
今日ばかりは広い名前の祖母の家を憎く思った。入り口から客間を過ぎて、廊下を渡った離れ。そこに名前の部屋があった。
「り、ん?もう、帰って、きたの?」
名前のその姿に冴は胃の中にマグマが沸いているような、そんな感覚があった。
手首と腰回りの青痣、身体中にある赤い痣。
下着姿でベッドの縁に座ってぼうっとしている名前はどう見ても様子がおかしかった。
平然と宙を見て何も考えていないような名前に、スペインに連れて行くべきだったと死ぬほど後悔した。
「あれ、冴くんだ。どうしたの、ここに来るなんて久しぶりだね」
キョトンとする名前に焼き切れそうな脳を必死で回転させながら服を着せる。
服の趣味も、少し大人っぽくなっただけで変わっていない。服をしまう場所も相変わらず変わっていなくて、名前の様子だけがいつもと違った。
「お前も、一緒にスペインに来るか」
冴の震えた声に疑問を持ちながら、名前はいつもの返事を冴にする。
「ダメだよ、凛の許可がないもん」
「んなモンはいらねえ、お前が行きたければそれだけでいい」
「うーん、スペインって楽しい?」
「お前の好きな美しいゴールってやつが山ほど見れる」
「わ、それはいいなあ」
子供のように笑う名前に、なぜそうなったか聞くどころではなくなってしまった。
早くここからコイツを連れ出さないと。明日の便までに支度をしなければならない。
チケットなら今すぐ連絡すれば間に合うはずだ。母には後からSNSで連絡すればいい。保護者である祖母がいなくなった今、名前の決定権は名前にある。
「行くぞ」
「はぁい」
あの時と何も変わっていない返事に、ちぐはぐの見た目。あの時連れて行く選択をしなかったのは過ちだったと冴は怒りで身体を震わせた。
スペインに、冴についていったところで名前の環境は殆ど変わらなかった。
自由にしていいとは言われたが、ろくに話せない中一度外に出たときに死にかけた(お前は危機感が足りないと冴にこんこんと叱られた)。結局外に出てもできることなんて限られていて。
オフシーズンに帰ってきた冴の身の回りの世話ぐらいしかすることはなかった。
穏やかな日常が好きだったし、凛のように無理に求めてくることもない。
ただ、ふと思ったのだ。このままじゃ冴に恋人ができないかもしれないと。
だから、あれだけ渋っていた外出を試みようと名前は再び外へ出た。
通りを少し外れて、街角を彩る花屋。
さらにまっすぐ徒歩三分。念入りに調べたカフェがそこにあった。
「あれ、初めて見る人だね」
「初めまして。近くに住んでいるんだけど、なかなか近くを巡る機会がなくて」
「それは勿体無いことしたね、この店はここらで一番のカフェなのに」
「これからきっとたくさん通うことになると思うの」
思っていたより素敵なところだと、名前は久しぶりの冒険に胸を躍らせた。
「今日もカフェに行くのか?」
「うん、最近店員さんと仲良くなって。とっても親切にしてくれてる。冴くんのファンだって
言ってたよ」
「そ、今日は午前中の予定が終わればフリーだから迎えに行く」
「え、いいよ、悪いし…ちゃんと時間になったら帰るよ?」
「言うこと聞けるだろ」
「出た、冴くんのわがまま」
お互い軽口を言い合えるくらいは前のように過ごせていて。
あの時のことは無かったかのように時が流れていく。結局あの時の話をしようとしても名前が不思議そうな顔をするだけだったので冴は諦めた。
名前の二人をサポートするという夢は潰えたが、冴の近くで居続ける事には変わりないので本人が満足そうならそれでいいと好きにさせている。
やけにそこのカフェに通っていることが気になったが、気の会う友人を何人か作っておくのは悪くない。
ただどんな人間か一度くらい顔合わせしたっていいだろうと、名前と合流することにした。
まさかその日に名前が求愛されているなんて冴は考えにも及ばなかった。
「でね、これ君に似合うと思って」
「わ、ありがとう!こんな素敵なプレゼント貰えるなんて。前ももらったばかりだったのに」
「君はいつも素敵だからどんなアクセサリーだって似合うだろ?」
「でも貰ってばかりで悪いし…何か欲しいものないの?」
「君の心を少しいただけるだけで十分さ!」
「随分謙虚なこと」
笑う二人を見て冴はとんでもなく胸糞悪くなった。
名前が出かけていたのは男との逢引のためだった。名前は自分のものだと信じて止まなかったのに、ありえない光景が目前に広がっている。
その時冴には名前を連れて帰ることしか頭になかった。
「チップに代金、これはプレゼントの分だ」
「ワッ、びっくりした!もしかして君サエだろ!?僕君のファンなんだ!」
「そりゃあどうも。ファンなら恋人に手を出すことなんてしないよな?」
「えっ、ただの同居人って彼女は言ってたけど。恋人だったの!?」
素早い言葉の応酬に名前はチンプンカンプンだった。いつも彼は自分のペースに合わせてゆっくり喋ってくれていたし、所々の単語は拾えてもネイティブの話がわかるほどまでは慣れていなかった。
よくわからないまま冴に腕を引っ張られる。
「冴くんまって、彼にプレゼントのお礼しなくちゃ」
「俺の恋人だから手を出すなと釘を刺した。これ以上何がいる?」
「そ、そんなこと言ったら冴くんに恋人できないじゃん!!」
プツンと何かが切れるような音がした。幻聴かもしれないが、冴の顔は今までにない無表情である。
ここまで表情筋死んでるのは珍しいなと思っていると、無理やり顎を捕らえられ、それはそれは深いキスをされた。
「んっ、んぁ、ふぅ、んっ」
耳を塞がれているせいで生々しい音が脳に響く。
冴はサッカーと共にいらんことも覚えたなと名前は息も絶え絶えで思った。そもそもこっちは彼の為に恋人を作ろうとしたのに、無駄足だったことを後々知らされた。
「ね、待って、さえくっ」
「お前を思ってここに住ませてるのに、とんだ裏切りだと思わないか、なあ?」
サッカーのために鍛えた体は軽々と名前をベッドに放り投げた。
こんな展開聞いてない、そもそも冴くんのためを思ってやったのに!そんな声は出ず無理やり封じられることとなった。
そしてやっぱり考えてた通り冴はサッカー以外の"いらんこと"をしっかり覚えていたようだ。気持ちよくて、息も絶え絶えな名前に微笑んだ冴はこれ以上ない上機嫌に見えた。
「凛のこともあったから遠慮してたけどもういいよな?十分良くなってるみたいだし」
「冴くんのばか!!変態!!」
「変態?随分なこった」
ひっくり返された名前は顔を真っ青にした。これ以上されると本当に死んでしまう。どうにかして逃げないと。
「ねえもう無理って言って、」
「変態だもんなあ、こんなんじゃ満足できねえわ」
「あっ、ごめんっなさい!ね、冴くんは変態じゃな、いから、もうや、めっ」
「自分が言ったことは責任持たないと。名前もそう思うだろ」
気がつけば名前は湯船の中で微睡んでいた。
自分のことが好きならサッサと言うべきじゃないかと悶々としていたのは少しの間。
まさかカフェも一人で買い物も禁止され、常に監視下に置かれて夜は喉を枯らすまで虐められ。そんな生活が待っているとはつゆとも知らなかった。
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