「先生おはようございまーす」
「皆おはよう、新学期も頑張ろうね」

普段は校門付近での挨拶運動なんてない雄英だが、入学式ともなれば話は別だ。この広大な敷地を有する雄英高校では新入生で迷子になってしまうなんて全く珍しくないらしい。その対策としてせめて初日くらいは挨拶運動という名の道案内に駆り出されている。

「あれ!夏海先生がいる!」
「いるよー!おはよう通形くん」

彼が近づいてきていることは分かっていた。何せこの背丈に輝かしい髪色だ、遠くからでもすぐに見つけられる。これは私が彼を特別視しているだとかそういうことではなくて、あくまでも一般論というものだ。
しかし成長盛りの男の子というものはすごい。まだ知り合って一年も経っていないというのに身体の大きさというか、厚みというか。出会った時とは比べ物にならないほどだ。私とて成人女性の平均的な身長はあるのだけど──と思いながら彼を見ていると自分との体格差に性別の壁を感じずにはいられなくて、じわりと滲み出てきた感情に気づかないふりをしようと目線を横にずらした。

「ほら環も!」
「……おはようございます……」
「おはよう天喰くん。元気ないね、体調悪いの?」
「渡瀬先生、俺なんかに気を遣わなくて大丈夫です」

通形の幼い頃からの友人だというこの天喰環という生徒。今までに何度も教室で顔を合わせているし、放課後通形とアメリカのヒーロー雑誌を読む時もたまに来てくれるから他の生徒よりは距離が近くなってもおかしくはないはずなのだが、中々どうして彼は私に気を許してはくれない。

「あっ環も始業式が楽しみで寝れなかった?うんうんわかる!」
「ミリオ、違う」
「俺もさ、四月ってやっぱりわくわくするんだよね!色々始まりそうだし……それに体育祭まで後一ヶ月しかないからね、俺も頑張らないと!」
「眩しい……俺はそんなこと思ってない……」

まるで通形が発光しているかのように天喰は目を細めてただでさえ丸まっている背中を更に地面へと向ける。あまりに違う二人の様子が面白くて通りすがりに元気よく挨拶する他の生徒に応えながら笑みを抑えるのに必死だった。

「先生今日も雑誌持って行っていいですか?始業式の後って忙しい?」
「そんなことはないんだけど」

キラキラと目を輝かせる通形を見てすぐに頷くことはできなかった。彼にクリスマスプレゼントを貰ってからの私はどうもおかしい。あの時受け取った紙袋は小さくて、中に入っていたマカロンはとても軽かったけれど私の感情は日に日にその存在感を増している。そしてそれは、一生徒に抱くべきではない感情。そんなものを胸の内に秘めたまま、対象となる彼と狭い教室で二人になるなんて。

「よおダブリサマー!」

校舎の方から背中に投げかけられた大きな声は教育実習中の指導教員であり、真っ暗闇にいた私を引き上げてくれた人のもの。初めて顔を合わせたその日に感じた想いを──この人には感じた直後大切な人がいると知り五分と経たずに消え去ったけれど──今では生徒に向けているとは誰に知られるわけにもいかず、これ幸いとばかりに通形へ背を向けた。

「やめてくださいマイク先生。パワハラで訴えますよ」
「これが?パワハラ?ニックネームで呼んだだけじゃねえか」
「本人が嫌がるあだ名で呼ぶのはパワハラって言わないんですか?」
「つれないこと言うなよ、言われてく内に気にいる時もあるだろ?イレイザーがいい例だ!」

プレゼントマイクの二歩後ろには猫背気味のイレイザーが立っていた。今は私の後ろにいる通形と天喰のようだ。いつの時代にもこういうコンビは存在するのかもしれない。

「俺を引き合いに出すな。気に入ってない」
「相澤先生も新入生の道案内ですか?」
「……すると思うか?」
「いえ、ですよね」
「もう新入生は揃った。キリのいいところで入学式に向かえ」

そう言うが早いかイレイザーは校舎へと戻っていく。一年生のクラスを受け持つ忙しい最中、わざわざ声をかけに来てもらったことに感謝を述べて頷いた。

「わかりました」
「あとナツの歓迎会な、今日いつもの居酒屋でやるから空けとけよ!」

天啓かと思った。「はーい!ごちそうさまです!」元気に返事をしてみたものの、安堵している自分と残念に思う自分がいる。

「通形くん、ごめんそういうわけだから……」
「いいよ!今年はたくさん夏海先生に会えるから!でも居酒屋で歓迎会かー、夏海先生も大人って感じですね!」
「感じっていうか、これでも二人より大人なんだけど?」

自分の発言がそっくりそのままブーメランと同じように跳ね返ってくる。私は成人していて、正式にはまだとはいえ教師という立場で、「もちろんわかってますよね!」笑顔を見せる通形ミリオは未成年で、この高校の生徒で。想いを抱くことそのものが罪とまでは言わないけれど、このまま放置していけば私はきっと彼を一人の生徒としてではなく、一人の男性として見てしまう。そうなってはいけない。それだけは避けなくては。

「でも先生」
「ん?」
「サマーは夏海先生だからだろうけど、ダブリって?」
「……私の個性にちなんだあだ名かな?イレイザーヘッドみたいな」
「なるほど!プレゼントマイクはユーモアがありますよね!」

まさか失恋して大学に行けなくなってしまい留年したことを意味するダブリと、プレゼントマイクがDJを務める深夜のラジオ番組に人生相談を送った時のペンネームを組み合わせて揶揄うネタにされている、なんてことを説明できるわけもなく。苦し紛れの説明だったが通形は納得してくれたようで肩に入っていた力が抜けた。

「ミリオ、俺達もそろそろ行こう。遅刻する」
「ごめんごめん、初日から遅刻なんて笑えないよね」

「じゃあまた!」左右に大きく手を振りながら走り去る通形と、走る時でさえ背筋を正さない天喰を見送っているとやはりプレゼントマイク達が重なる。
もしあの時の私を救けてくれたヒーローがプレゼントマイクでなく、ルミリオンだったなら。私はあんなにもあっさりと気持ちを捨てることはできていただろうか。こんなことを考えている時点で彼を特別視していることに疑いの余地など存在しないのだが、どうしても認めたくはなくて彼らの背中から自分の足元へと目を向けた。

「おー来た来た今日の主役!南先生にはシメをお願いしてるからな、乾杯のスピーチ頼むぜナツ先生!」
「えーっと、普段から山田先生のパワハラを受けている渡瀬夏海です。また一年こちらでお世話になります、よろしくお願いします!乾杯!」

教師陣が乾杯という声と共にジョッキやグラスがぶつかり合う軽やかな音が聞こえる。何やらヒーロー科の一年では入学初日から色々あったようだが、イレイザーヘッドもブラドキングもこの場に来ているということはさして大きな問題ではなかったのか。とはいえ忙しい年度始めにこんな機会を作ってくれてありがたいな、と思う気持ちは開始から三十分くらいで霧散してしまった。

「ダブリサマーちゃん、これ飲んでみて?」
「ミッドナイト先生までそんな悪ノリ……先生お手製のカクテルは山田先生が飲みたがってましたよ。今日もそれが楽しみだって職員室で言ってましたし最初の一口は譲ります」

普段話す機会の多いプレゼントマイクとは離れた席に座っているが、それが逆にミッドナイトが作った酒だけで作られたわけでもなさそうな──何ならグラスの底にはお通しで出された大根が見え隠れしている──ハンドメイドカクテルを飲まなくて済む理由になった。一分後にはプレゼントマイクの口を掴んでカクテルを注ぐミッドナイトが見れることだろう。

「うまく躱したな」
「ミッドナイト先生と飲むのはこれで二度目なので……」

隣に座るのは乾杯の一杯以外は熱いお茶を啜っているイレイザーヘッドだ。この後も業務が残っているとかで学校に戻らなくてはいけないらしい。私も晴れて雄英の教員となれたらそういう日々が待っているのだろう。『教師になったら朝から飲むなんてほぼ無理だからな』私にそう語った張本人はミッドナイトにより見事にノックアウトされてしまっているけれど。

「……今朝校門にいた三年生」
「えっ?」
「よく目をかけてるよな」
「あ、ええ、まあ……」

アルコールなどまだビール二杯しか摂取していないのにどくりと心臓が鳴った。あまり関わりのなかったイレイザーヘッドに指摘されるほど私は彼と親しくしていて、そして今、私はそれに背徳感を覚えている。

「愛読書が同じで。Justiceってアメリカのヒーロー雑誌あるじゃないですか?私もあの子もあれを購読してて、でも全部英語で書いてあるから一人じゃあまり読めないらしいんですよ。だから時間が空いた時には──」
「渡瀬」

トン、とイレイザーヘッドの持っている湯飲みと机とがぶつかる音。それが私の口を閉じるスイッチだったかのように、さながら彼の個性で力を抹消された人のように、私の声は出なくなった。

「聞かれてないことまで話さなくていい」
「……はい」
「言い訳に聞こえるぞ」

日本屈指の高校が誇る教師陣とは思えぬ飲みっぷりと騒ぎようで、他の誰一人として私とイレイザーヘッドの会話を気に留める人はいなかった。私が必死に自己弁護していることも、ボロを出す前に止めてくれたイレイザーヘッドのことも、全て彼らの騒ぎ声に揉み消されてしまう。
「うまいな」少し前に机に届いていたゲソの塩焼きを食べながらイレイザーヘッドが呟く。彼は私に何を聞くつもりだったのだろう。もしかしたらただの会話のきっかけというだけだったのかも。私が勝手に墓穴を掘り、それに勘づいた彼が制止してくれたとか。

「……あの」
「どうした」
「一つもらってもいいですか?」
「今日の主役が何遠慮してんだ。俺はそろそろ学校に戻る」
「あっはい……ありがとうございました」
「何がだ」
「……いえ、来ていただいたので」
「明日からも頑張れよ」

財布から二枚ほど札を取り出して湯飲みの下に敷き、イレイザーヘッドは店から出て行った。「足りなかったらあいつに出させろ」そう言い残して。
明日からも私は雄英で働くし、『よく目をかけてる』あの子と何度となく会うことだろう。今更彼を遠ざけることは難しい。『夏海先生だけなんだ、授業以外でヒーローになるための勉強を手伝ってくれた先生』そう言って嬉しそうに笑った彼からの信頼を、私個人の感情で裏切りたくはない。
あと一年経てば彼はプロヒーローとして世にその名を知らしめ、溢れんばかりの多くの人々を救けることだろう。私はあと一年だけ、そうなるための手伝いをする。教師という職業はそういうものだ。そうでなくてはならないのだ。
三杯目に選んだハイボールを勢いよく飲んだ。いつもよりずっと苦味が増している気がした。

「あれ、相澤先生もう行っちゃったんですか……」

離れた席にいたはずの司書が残念そうな声で呟きながらその空いた席に腰掛けた。一年留年している私と同い年の彼女は今年から雄英の司書を務めるのだと今朝の朝礼で聞いたばかりだ。

「マイク先生に聞きました。私達同い年だって。改めまして司書の南ひなたです、よろしくお願いします」
「渡瀬夏海です。今年いっぱい校務補助してるので何か人手がいる時は声かけてくださいね」
「本当ですか?じゃあ本の入れ替えとか手伝いお願いしちゃうかも……まあでも仕事の話は明日からにしましょ!今日はせっかくだから色んな話したいです」

朗らかに笑う彼女につられて私もまた頬が緩む。彼女の言う通り今日は雄英の職員だということも、生徒に対して人には言えぬ想いを抱きかけているということも忘れてしまえ。明日からは生徒からの信頼に応えられるように、今日はお酒の力を少し借りておこう。




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