「詳しくはわからないけど……怪我がなくても怖かった気持ちって残っちゃうし」

これが電話でなく彼女自身が目の前にいてくれたらよかったのに。そうしたら今どんな表情をしているのかが見れた。彼女の声が憂いを帯びている理由が、従姉妹が事件に巻き込まれた不安によるものなのか、はたまた全く別の何かがそうさせているのか判断する材料を得られていたはずだ。
プロヒーローとして活躍している以上、目を背けたくなるような事態に立ち会うことだってあっただろう。それに巻き込まれてきた一般人も見てきたはず。何か嫌なことでも思い出してしまっているのだろうか。

「……まどかさん」

どうしたのか、と声を掛けようとした。何か悩んでるなら相談に乗りたい。年下であることは事実だが自分を頼ってほしいという気持ちがある一方で、こんな考えこそがまさに年下らしいと気づいてしまって口にしかけた言葉を飲み込んだ。

「──……なんか変な音してる」

「あっ鍋!」という明らかに焦りを含んだ声を聞いて思わず笑いそうになった。仕事中にこんな声は聞いたことがない。鍋から異音ということは夕食の支度か何かだろうか。
電話口に戻ってくるのを待つ間、家で料理をする彼女の姿を想像しようとしてみたけれど私服すらもろくに見たことがないのにうまく思い描けるわけもなく。自分もそろそろ食事をとって家でゆっくりするかと方向転換した瞬間、警察からの着信が入った。酔っ払いが個性を暴走させているから確保してほしいとのこと。いい大人が何をしているんだと小さなため息を吐いて両方の電話を切った。

「……ホークス?どうしたの?」

思えば電話するのはいつも自分からで──仕事を依頼する側なのだから当然ではあるのだが──いつだって『どうしたの』もしくは『何かあったの』と声をかけられている。おかげで何かないと電話をかけてはいけないのだと刷り込まれ、仕事の用件以外で何か理由をこじつけられないかと考えを巡らせる羽目になっているなんて彼女は知りもしないのだろう。

「どうってわけじゃないけど、さっき警察から応援要請あって電話勝手に切ったからさ」

用件は伝えたのだから後は詳細をメールで送れば済む話だったのに、気がついたら彼女にもう一度電話をかけていた。我ながら苦しい言い訳だと感じたが幸いにも疑いを持たれることはなく、ありがたいような、何とも思われてなさそうなのが悲しいような不思議な感情で胸がいっぱいになっていく。

「まどかさんの方は?何かあったんじゃないの?」

異音も気になったが本当は彼女の様子がおかしかったことについて聞きたかった。どっちとも取れる聞き方をしたのは単に勇気のなさによるものだ。個人的な話をしてもいい関係かどうか、自信が持てなかったから。
軽薄な言葉でからかってみれば笑ったり怒ったり反応を返してくれるあたり、嫌われてはいないと思う。人に合わせる術に長けているおかげで仕事以外の所謂世間話というようなやつだって無難にできているはずだ。それでも、自分が動けば彼女が遠ざかってしまうような気がして。

「……はあ」

電話の途中でもう一度聞くチャンスを得たものの、それを行使することはなかった。十分そこらの通話時間と通話終了の文字を表示している携帯に向かって自然とため息が出ていた。
年下というウィークポイントをなくすことはどうしたって不可能だ。だから少しでも対等に見られるべくある程度距離が縮んだと感じてからは敬語を使うこともやめたし、彼女が可愛いと評していた博多弁も封印した。
そんなことをしても拒まれるのが怖くて勇気は湧いてくるわけでもないし、一歩踏み出す覚悟も持てやしない。目下のところ外面を取り繕っただけだ。大体、自分の中にあるこの感情の名前だって、明確にはわかっていない。わかりたくない、という言葉の方が正しいかもしれないが。

「わー、すごい人……メディアもたくさん……」
「まどかさん雄英の体育祭は初めて?」
「体育祭どころか雄英に来るのも初めて。テレビでしか見てなかったから本当にあるんだなあって感じ」

二週間が経つのはあっという間だった。雄英の最寄駅で待ち合わせた彼女はいつも通りのコスチューム──ヒーローにしてはあまりにも主張がなさ過ぎるデザインだ──を着用し、今までと変わらぬ表情と態度で接してくる。
二、三言葉を交わして空元気ではないのだと確認したからあの夜のことは口にしなかった。大したことがなかったのか、自分で元気になったのか、あるいは近しい誰かに相談をして解決したのか。彼女が元気ならそれで十分なはずなのに、一番最後の選択肢でなければいいなと願う自分が年相応に思えて嫌になった。

「ホークスは何度も来てるの?」
「特別講師で去年一回呼ばれたくらいかな。若いプロが社会に出た現状を話しにくるアレ」
「そっか、雄英はホークス呼んだんだ。いい例だもんね?こう見えて」
「……まどかさんには俺ってどう見えてんの?」

警備と称して雄英の敷地内を歩きながらたい焼きを齧る彼女は「どうって……」と呟きながらも再びたい焼きを口にした。微かにカスタードの甘い香りが漂ってくる。「ホークスもこれ食べればいいのに。美味しいよ?」と俺への評価よりその手の中にある甘味の感想を先に伝えられた。こちらはどんな言葉が返ってくるのか身構えているというのに。

「すごいのは前提として、親しみやすいかな。いい意味で」
「親しみやすい、ねえ」
「だって、例えばオールマイトとかエンデヴァーってすごすぎて雲の上の人って感じするじゃない。私達プロヒーローから見たってさ。でもホークスはそうじゃないっていうか……伝わる?」
「……」

その評価はどうなんだ。ヒーローとしては悪くないものだが、一人の異性としてならその親しみやすさは良くもあり、悪くもある。いや、ともあれ自分の現在位置を知れたことは少なからず収穫と言えるだろう。
「まあホークスも私には十分雲の上の人だね」と彼女がこちらを見ることなく呟いた。それはプロヒーローとして言っているのか、彼女個人としてのことを言っているのか。

「にしてもヒーローの数もすごいね。それこそテレビで見てる人も多いし」
「俺もここまで集めてるとは……」

来客数と同じだけ、もしくはそれ以上のヒーローが歩き回っているこの状況は雄英の警戒度合いと共にヒーロー飽和社会の縮図を見ているかのようだった。多種多様の個性や外見、それに合わせた様々なコスチューム。すれ違い様に数人のそれを見て、隣を歩く彼女にふと視線を戻す。

「何?たい焼きならもう食べちゃったけど……」

確かに彼女の手の中にはもうそれらはないが別にそんなことはどうでもよかった。

「まどかさんのコスチュームってさ」
「はい」
「……いやなんでもない」

こんな事を彼女に言って何になるのだろうか。そう思って視線を逸らし、道ゆく人々に怪しい動きはないかと観察の目を向けると──言い出した自分が悪いと言えばそれまでなのだが──隣からは不満そうな声が聞こえてきた。

「気になるから言ってよ、コスチュームがどうしたの?」
「なんていうか、結構シンプルだよね」

昨今のプロヒーローは男女共にあまり肌の露出を気にしないきらいがある。勿論個性使用上の利便性というものが理由、もしくは建前として存在するが、芸能活動や人気投票が給料の一部として存在する以上は外見を売りにするのは当然の流れで。それらに比べるとやはり彼女のコスチュームは最近の流れには逆行していると感じていた。

「地味ってこと?」
「そういう意味じゃなく」

くるくると手首を回しながら自身のコスチューム姿を確認する彼女は足首までのロングパンツに上半身を長袖のジャケットで防備し完全に露出を消している。それなりに付き合いはある方だと自負しているが、私服なんて博多の仕事終わりに一度食事の際に見ただけで、ほとんどコスチューム姿しか知らなかったものだから先日の雑誌記事で見た彼女の私服は予想外だった。てっきり仕事の時のように露出はできるだけ避けているのかと思っていたのだ。

「私服とは結構……違うなって」

そんな予想に反してあの時カメラに撮られていた彼女はコスチューム姿とは異なり、髪も緩やかに巻かれ腕も脚も程よく露出した洋服を着ていた。だからそのギャップを改めて眼前で感じると言わずにはいられなくて。こんな事、一仕事相手に言ってどうするともっと早く気づくべきだったが。

「んーまあ、有名な人達はコスチュームも宣伝になるんだろうけど私は実用的ならそれで……でも私そんなに私服でホークスに会ってないよね?」
「ああいや、この前の雑誌で。謎のスタイリッシュ美女って書かれてた」
「あーあれは……いつもあんな格好ってわけじゃ……あの時は突然呼ばれたしジーニストさんだったからまあいっかって思って」

彼女は決まりが悪そうに視線をあらぬ方向に向けながら小さな声で、そして早口で呟いた。『ジーニストさんだからいい』というのはどういう意味なのか。彼はよくて、自分はダメということだろうか。気を許されていないのかもしれないが、ではベストジーニスト相手なら許しているということなのか。春の暖かな空気に包まれているはずなのに胸の中には靄がかかっていく。
「ホークス!少しよろしいでしょうか」まだ聞きたいことはあったのに雄英の体育祭を取材しにきていたらしいメディアが声をかけてくる。

「私先行ってるね」

囲まれる前にするりと輪を抜け出しながら彼女が言った。今のところ何一つトラブルらしいトラブルは起きていない。自分達の他にも山ほどプロヒーローがいるのだしそう大きな問題など起きないだろう──と思うものの、厳重な警備を突破した敵にこの雄英は狙われている。

「道塞がないように。取材なら皆さんこっち来てくださーい」

万が一彼女の手に負えない事態が発生した時に後悔したくない。気づかれないように取材陣をまとめて移動させながら剛翼を形成している羽根一枚で彼女を追わせた。

「先日の陸橋崩落事件ではホークスの迅速な対応で死者ゼロとのことでしたがその辺りいかがですか?」
「あれは地元のプロヒーロー皆が救助にあたったからですよ。事務所同士の連携が取れてたと思います」
「すみませんこちらからもよろしいでしょうか?」

最初は一社だったはずが次から次へと飛んでくるありきたりな質問に無難な回答を返し四、五分経った頃だろうか、選手宣誓のアナウンスが聞こえてメディアも取材を切り上げ会場へと走って行った。
そう待たせてはいないはずだがこの人出では上から探した方が早い。目視で確認できる程度の高さまで浮上すると数百メートル程先に彼女──コスチューム品評会のようなこの場では逆に目立ってさえいる──を見つけ空中から近寄ると会話が聞こえてきた。

「いいですよ。来週なら空いてます」
「あー助かった!ほんと持つべきものはいい後輩だよ」
「便利で使い勝手のいい、後輩でしょ」
「もうそんな事思ってないって。じゃあ俺もう行くから──ホークス……?」

見知らぬ男と楽しそうに話す彼女に声を掛けて邪魔することもできず手持ち無沙汰に見ていたら男の方と目が合った。知らない顔だ。静岡周辺のプロヒーローだろうか。

「あ、終わったんだ。お疲れ様」
「え?お前ホークスと知り合い?」

彼女をお前と呼べる間柄というわけか。癪に触るが自分こそこの男をとやかく言えるほどの関係性ではない。初対面だというのに自己紹介もせず頭のてっぺんから爪先まで何度も見てくる不躾な相手にくらい多少何かを言っても許されそうだが、彼女の知り合いともなると下手なことを言うのは得策ではないと十秒とかからず判断した。

「仕事で何度か呼んでもらえて」
「あー派遣でか。お前事務所辞めてうまくやったよなあ。ホークスに呼んでもらえるとか……役得じゃん」
「別に、私は先輩みたいにミーハーじゃないので」

男の言葉そのものを切って捨てるようなその言い方に彼女の性格が如実に表れている。「それじゃ、来週の詳細はメールしてください」ドアをゆっくりと、しかしピタリと閉め切ったように告げた彼女に了承の返事をする以外の隙はなかったようで、男も早々に立ち去っていった。
仕事の付き合いしかないとはいえ、今の男よりは気を許されているようだ。先程感じたざわつきが少しずつ収まっていく。

「ごめん遠慮のない人だからじろじろ見ちゃって」
「慣れてるから平気。あの人は……最初の事務所の?」
「そう。悪い人じゃないんだけどね」
「悪い人じゃない、って大体難ありって意味だよね」
「……間違っちゃないかな」

ふふ、と彼女が小さく笑った。いつからだろう、彼女のこういう顔を見たいと願うようになり、仕事中のコスチューム姿のプロヒーローではなく、一個人としての私服を着た久保まどかに会いたいと思うようになったのは。

「あ、さっきの話なんだけど」
「さっきの?」
「私からホークスがどう見えてるか」
「ああ、うん」
「親しみやすいも嘘じゃないけど、安心するっていうか……ホークスが来るとホッとする、が正しいかな?今まさにそうだったから」

それはきっとあまり好ましくない相手と話している時に戻ってきたから生じた感情だろうとわかっているのに、否定する言葉が出てこない。語彙の数は豊富だという自負だってあるのに。
これが恋をするということなのか。相手の発する何の気もない言葉一つ一つが胸を鷲掴みにしたり、耳の奥からその言葉が消えていかないこの現象が恋という感情によるものなら──疑いようもなく、俺は彼女に恋をしている。

「新年度だからヒーロー特集も多いもんね。さっきも囲まれてたし『こういうヒーローになります!』みたいな所信表明も必要なんでしょ?私の一意見、使ってくれていいよ」

今鏡で自分の顔を見ることができたらさぞ複雑な顔をしていることだろう。そんなつもりで聞いたわけじゃない、とため息を吐きたい気持ちと、意味はどうあれ彼女から良い評価をもらえた幸せな感情が入り乱れているような、そんな顔になっているに違いない。「あ、沙耶だ」従姉妹をモニター越しに見ている彼女にはこの感情も、表情も、何一つ気づかれていないだろうけど。




back / top