叔母から電話があったのはヒーロー免許を更新してそう日が経っていない時だった。

「ちょっと待って、落ち着いて、沙耶がどうしたんですか?」

日によってはまだ肌寒い日が続いていて、一人であの水炊きを再現してやろうかなどとスーパーでレシピを見ながら材料をカゴに入れている時、久しぶりに叔母から電話があった。
電話口では混乱していたから中々要領を得なかったけれど、雄英で事件が起きてそれに従姉妹である沙耶が巻き込まれたとのこと。会計をしながら「とりあえずすぐ行きます」と返してレジ袋へ適当に突っ込んで急いで叔母の家を訪ねた。

「まどかちゃんいらっしゃい」
「沙耶、元気そう……だね」

鳴らしたインターフォンを受けてドアを開けたのは叔母ではなく事件に巻き込まれたという張本人。叔母の電話では雄英で何かあったらしいという話だったが見た感じそんな様子は少しもなく、拍子抜けしてしまった。「入って入って」と促されるままにスリッパへ履き替えてリビングに通されたが、歩く素振りにもおかしなところはない。

「雄英で事件に巻き込まれたって聞いたけど本当なの?」
「うん、授業中に敵連合っていうのが入ってきて……みんな事情聴取受けたんだけど、その間に学校からお母さんに連絡があったからまどかちゃんに電話しちゃって」
「叔母さんは?」
「私が帰ってくるまでずっと緊張してたみたいで今は部屋でゆっくりしてる。呼んだくせにごめんね」

沙耶の視線が上を示した。娘が無事に帰ってきたことで緊張の糸が切れたというわけか。一人娘がヒーローを目指すというだけでも心穏やかではないだろうに、入学早々危ない目にあったと知れば倒れもするだろう。叔母さんはいつだって子供を大事に思っていたのだから。

「ううん、別にそれは。怪我とかは?」
「ちょっと切ったりはしたけどほとんどないよ。焦凍くんが守ってくれたから」
「そう、ならよかった」

許嫁のようなそうでないような関係の二人が今後どうなるのかは置いておいて、沙耶自身は轟焦凍が好きなようだし雄英に進むきっかけになった人と同じクラスなら頼もしいことこの上ない。雄英に侵入できるような個性を持った敵を退けたのはきっと教師だろうが、エンデヴァーの息子ともなればそれ相応の実力もあることだろう。

「授業中ってことは轟くんとは同じクラスだったんだ。どんなクラスなの?」
「二十人くらいなんだけどね──」

事情聴取を受けたということはそれなりに大きな事件だったはずだ。しかしあまり詳しく聞いて思い出させるよりは、日常に戻してあげたくて沙耶が淹れてくれたお茶を飲みながら一時間以上は学校や友人の話を聞いた。高校生活が始まったばかりでさぞ楽しいのだろう、沙耶の表情がそれを如実に表している。

「私達以外にも同じ中学から上がってきた子いたんだけど、そんなの関係なしに皆仲良くなってるんだ。すごいいいクラスだと思う!」

ちらりと壁時計に目をやれば夜ご飯を食べ始めていてもおかしくない時間。もっとゆっくりしたい気持ちもあるが明日の準備も含め色々とやることがある。叔母も起きてきて挨拶を済ませたからそろそろお暇しようとソファーから立ち上がった。

「まどかちゃんせっかくだからご飯食べて行かない?お母さんが作るよって」
「んー、そうしたいけど……色々買っちゃったから消費しなきゃ」
「あ、それやっぱり」

ガサリ、とスーパーの袋を持ち上げて見せれば中で何かが揺れた。鶏肉は保冷剤も入れてあるし今から帰って仕込めば問題ないだろう。鍋物は適当に具を入れるだけで食べられるという一人暮らしには大変ありがたい料理なのだ。従姉妹一家との食事はもちろん嬉しいけれど、明日からはまた違う事務所に呼ばれている身としては今日の内に終わらせておきたい。

「そう、今日の夜ご飯の準備。明日から名古屋に行くから今日作り置きしておきたいんだ」
「全国飛び回ってるんだもんね。この前は博多じゃなかった?前に会った時も博多行くって聞いたことあるけど……そんなに凶悪犯が多くて大変な地区なの?」

玄関で靴を履くために沙耶へ背を向けていてよかった。一瞬表情が固まるのが自分でもわかったからだ。沙耶が聞いているのは仕事の話なのに、私の頭の中で再生されたのはその後のことだったから。
博多での仕事は全くと言っていいほど毎回『大変』ではない。ホークスがほぼ全て解決するから私やサイドキックはそれの後処理だったり、なんてことない手助けだったりするからだ。きちんと休みを取らせる事務所の方針があるのか、その穴埋めで呼ばれることが多いだけでむしろ他の地区で呼ばれた時の方が『大変』である。

「博多も名古屋も都心だから確かに犯罪率は高いかな……でもそんな危ないところでもないし機会があれば行ってみて。特に博多は沙耶みたいにヒーロー志望の子にはいい勉強になると思うよ」

プロヒーローを目指すのならば彼の仕事を一度見ておくのは参考になると思う。これは贔屓目などなしに恐らくプロヒーロー全員が口を揃えるだろう。あの移動速度を真似しろというわけではなく、視野を広く持って人の助けになりながら民間人とも触れ合いを放棄しないという在り方は学べる要素が多すぎるのだ。

「まどかちゃんが言うなら夏休みとか行ってみようかなあ」
「いいと思うよ。じゃあ私そろそろ……あ、体育祭見に行くから頑張りなね」
「うん!」

雄英といえば有名なイベントはいくつかあるがその最たるものが体育祭だ。プロヒーローは有望な生徒をスカウトするべく体育祭を活用していて、私はといえば事務所もないしそういった意味では特に用はないけれど従姉妹が出るとなれば話は別だ。例年に違わずプラチナチケットと化すだろう入場券を手に入れなければ。今まで何度か顔を出している事務所に頭を下げれば手に入るだろうか。

『事件のこととか、それ以外のことでも誰かに何か話したいってなったら聞くから遠慮しないでね。とりあえずゆっくり休んで』

何を見たのか、どんな体験をしたのかは聞いてないし聞き出す気もない。ただ目に見える擦り傷一つなくても知らず知らず心に傷を負ってしまうことはある。そしてそれが大きくなって生活に支障をきたすことを私は知っている。肉体的損傷と精神的なそれが必ずしも比例するわけではないとプロとして学んできた。
雄英の教師陣はきっとできる限りの対応をするだろうし、あの子には両親もついているが、同じ立場として私が何かの役に立てたらと思ってメッセージを送った。

『ありがとう。今のところは大丈夫。お仕事気をつけてね』

沙耶からの返事を確認する頃にはもう家も目の前に迫っていた。予定よりはだいぶ遅くなってしまったから少し急がないと。
誰もいない部屋の電気をつけ、昆布と水を鍋に放り込んで火にかけた後、手帳を取り出す。大きめの事務所なら雄英の体育祭へツテはある可能性が高いなとアタリをつけていると携帯が鳴った。

「ホークスどうしたの?何かあった?」
「まどかさん今電話いい?」
「うん、大丈夫」

手帳を置いて一度鍋を見に行くとまだ湯気も出ていなかった。しばらくは大丈夫だろうとキッチンから出てリビングに置いているソファーに腰を落ち着かせ、ホークスの次の言葉を待った。

「さっき雄英から体育祭の警備依頼が来た。事務所から何人か出してくれるとありがたいって言われてるけどサイドキック達に事務所任せたいからさ、まどかさん来月空いてたら俺と雄英来て欲しくて」
「……雄英の体育祭……」
「あ、もしかして他の事務所からもう誘われてた?」
「ううん、ないない。さっき従姉妹と体育祭の話してたからタイムリーだなって」

雄英の体育祭は高校どころか日本のイベントの中でも指折りの人気とはいえ、普段から関わりのないプロヒーローにまで警備を頼むとはよほどの警戒体制だ。沙耶が言っていた敵連合とやらの侵入でこの判断になったのだろう。

「敵が一年の授業に入り込んだって聞いたけどそのクラス?」
「そうなの」

即日で対応するとはやはり流石であるけれど、この対応を取らざるを得ないほどの敵だったのか。いくら優秀とはいえ、雄英があるこの静岡県よりだいぶ距離がある地区で事務所を構えているホークスにまで警備を依頼したという事実が物語る。それほどに警戒すべき相手なのだということが。
ふう、と息を吐いて天井を見上げた。叔母はきっとここまで聞いてはいないだろうけど、あそこまで取り乱す気持ちもわかる。

「詳しくはわからないけど……怪我がなくても怖かった気持ちって残っちゃうし。プロヒーローが警備につくなら皆安心してくれるだろうね」

沙耶やそのクラスメイト達はヒーロー科とはいえまだ十五歳だ。あんな恐怖など感じずに日々を過ごし、普通の高校生らしい生活を送りながらプロヒーローへの道を進んでほしい。
ヒーローがいるからこそ犯罪が減らないだとか凶悪化しているだとかニュースで批判されているのも知っている。だけど、ヒーローがいてくれるから安心できる人の気持ちも私は知っている。少しでも雄英の子達が心穏やかに日常を送れるならそれに越したことはない。

「……まどかさん」

ホークスの静かな声ではたと意識を浮上させる。

「何?」
「なんか変な音してる」
「変な音?……あっ!鍋!」

ジュッと嫌な音が聞こえて携帯を放り出した。キッチンまで駆けつけてみるとやはりそこには沸騰して吹きこぼれている鍋があった。やってしまった。沸騰する前に昆布を引き上げなければならなかったのに。
火を止めてからソファーに投げ捨てた携帯を拾って「ごめんホークス、コンロの火が……」と言ったところで電話が切れていることに気がついた。

「……そりゃそうだよね」

ホークスの用件は再来週に雄英の警備に来てほしいという依頼。私はそれを承諾したし、もう夜も遅いのだから電話が切れていたって何もおかしくない。おかしいのは、二週間後に顔を合わせることが決まっているのにもう少し話したかったなんて思ってしまう私の変な感情の方だ。

「やり直そっかな」

沸騰したお湯と昆布を変な感情と一緒に捨ててもう一度同じ工程を始めた。明日から二日間は名古屋付近で夜の見回りを引き受けたし、その後も呼ばれているのは東海地区の事務所だから家に戻ってくる時間はある。多めに準備して冷凍しておこう。

「よし、いただきます」

一人分の小さな鍋にはあの日食べたものとは程遠い水炊きが詰まっている。まずくはないがとびきり美味しいわけでもない。何が違うのだろう。使っている材料はそう変わりないはずなのだけど。今度博多に行ったらあのお店で売っていたスープを買って帰ろう。作り方のコツとかついてるかもしれないし。そう考えた時、また携帯が鳴った。違う事務所から警備の誘いだろうか。

「……ホークス?どうしたの?」
「どうってわけじゃないけど、さっき警察から応援要請あって電話勝手に切ったからさ」

電話口からは風の音がする。こんな時間だというのに空を飛んで街を見ているのだろうか。事務所に所属しているプロヒーローは警察からの応援要請に駆けつける義務があるとはいえ、ホークスが頑張ってる最中夜ご飯を食べてることに少し罪悪感が湧いた。

「事件あったんだ、大丈夫?」
「ちょっと道路が削れたけど人への被害はナシ」
「流石だね。お疲れ様」
「まどかさんの方は?何かあったんじゃないの?」

そう言われて目の前の鍋を見た。犯罪者を捕まえるために飛び回っていたホークスに鍋の吹きこぼれなどと言うのは罪悪感どころか羞恥心さえ生じてくる。しかし通話中の携帯を投げ捨てておいてなんでもない、なんて返しはおかしいだろう。

「夜ご飯の準備放置してたから鍋が吹きこぼれちゃってて」
「あらら」
「ホークスは働いてるのにこんなしょうもない話で申し訳ないけど」
「何で?」

電話の向こうから聞こえていた風の音が止んだ。事務所か家かに着いたのだろうか。

「俺だって四六時中働いてるわけじゃないし。今はまどかさんが休みだっただけだよ」

平然と答えるホークスの声で携帯を握りしめた手の力が弱くなっていく。
派遣という形態で働いていると有事の際や夜の見回りなど人手が欲しい時に重宝される一方、厳しいことを言われる時だってある。私の働き方では今のホークスのように緊急事態に即時対応できないからだ。
彼だって初対面では事務所に入るべきだと言っていた。それでも今は私のやり方を認めてくれている。それに少しだけ安堵を覚えた。

「でもいいな夜ご飯。俺も何か食べよ。まどかさん何食べてんの?」
「み……水炊き」

これもまた言いたくはなかった。単に肌寒い春の夜に食べたくなっただけなのだけど、何か変に思われはしないだろうかと思ったから。

「……そんな好きだったとは知らなかった」
「そっちと違ってまだ寒いんだもん、鍋物って割と手軽だし……」

嘘はついてない。ついてないが、あの日のことを思い出して食べたくなったという理由もある。結局彼があの店に今まで誰と来ていたのかとか、そういうモヤモヤは何一つ晴れなかったけれどそれを上回るほどに彼との時間を過ごせたことが嬉しくて。
ただの仕事相手になんて感情を抱いているのだと自分を叱咤してみても何の変化もない。私はいつからこんな風になってしまったのだろうと思いながらソファーに背を預けた。

「それで?ホークスは今から何食べるの?」
「コンビニ行ってなんか買ってこようかな。冷蔵庫空だった」
「あーあ。あ、でもあのお店はまだやってるんじゃない?水炊きの。急げば間に合いそう」
「あそこにはそんな行かないよ。特別な時だけ」

特別という言葉にそういう意味合いがないのはわかっている。事務所でもしづらい話をするとか、そういった仕事に関わる意味だということくらい百も承知なのに。何だってこんな言葉に胸が弾んでしまうのか。

「へえ……そうなんだ。仲居さんとかいたもんね」
「やっぱコンビニかな。静岡行ったらまどかさんおすすめのお店連れてってよ」
「えっ」
「嫌だった?」

二週間後にまたホークスとの食事。私は恐らくホークスの事務所に所属している扱いで警備にあたるだろうから行動を共にするとは思っていたが、食事までとは。その誘いは嬉しいはずなのに戸惑ってしまった。一緒にいる時間が長ければ長いほど、ボロが出てしまうのではないかと。

「……そういう意味じゃない」
「嫌じゃないんだ?」

明らかに電話の向こうの声は面白がっている。なんなら私の気持ちなんて既にお見通しなのではないだろうか。流石にそんなことはないと思いたいけれど。

「いや、あのね、ホークスさん。適当なことばっか言って私で遊ぶのやめてくれません?」
「まどかさんとご飯行きたいのは本当」

はいはい、なんて適当な相槌で流せるほどの年上らしい余裕があればよかったのに。少し間を置いてから「あっそう」と慌てて小声で呟いた。電話でよかった。対面で言われたら挙動不審になっていたに違いない。

「博多で地元の人のお勧めなら間違いないって言ってたでしょ」
「ああ、うん、言ったねそんなこと……じゃあ体育祭の後ね。あ、警備について詳細メールで送ってくれる?」
「了解。近い内にサイドキックから連絡させる」
「ありがとう。それじゃ──」
「まどかさん」

ホークスの声がさっきまでと違う。仕事の話をする時のような凛とした声で、自然と私の背筋も伸びた。

「何?」
「……何でもない。また再来週」
「うん、おやすみなさい」

この『何でもない』はあまりにもわかりやすくて彼らしくなかった。彼は私に何かを聞こうとしてやめたのは間違いないのに、それを隠そうともしないなんて。
あの声音からして真面目な話題だったのだろうが特に思い当たる節もなく通話終了と表示された携帯を机に置いた。その数秒で何を考えていたのかはわからないけれど、私にはそれを聞く権利もなければ勇気も持ち合わせていなかった。




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