ガタン、と電車が大きく動いたから俯いていた顔を上げ駅の名前を確認した。降りる予定の駅は一つ先だという表示を見て、再び手元に視線を落とす。何となく持ってきてしまったスーパーマンの貯金箱。これを見たら元気が出るかな、なんて考えは安易だったかもしれない。ヒーローになることを夢見て幼い頃から購読していた雑誌を思い起こすこれは、現実を突きつけてしまうのではなかろうか。恩師を亡くし、個性を失くしたという悪夢の如き現実を。

「……渡瀬」
「相澤先生……お疲れ様です」
「何でここに」

外来受付で順番待ちをしている人達のざわつきでかき消されそうなほど小さなイレイザーヘッドの声。昨日確保した敵が護送中に別の敵に襲撃されたそうでそのニュースが今も私達の頭上で流れているわけだけど、それが原因というわけでもあるまい。襲撃された敵は重体だと聞いたがそんなことはどうでもいい。自業自得としか思えない。彼や私が考えているのは恐らく同じ人物についてだ。

「バイトでも有給消化は義務だって……山田先生が」
「……そうか」

私の事などすっかりお見通しなプレゼントマイクは私よりもずっと早く職員室に来て私がすべきだった仕事をこなしていた。沢山の書類を各先生方のデスクに振り分けながら言われた「行くところがあんだろ?」あの言葉に背中を押されていなければ病院に足を踏み入れることはなかったに違いない。いつだって私の背中を押してくれるあの人のことをよくわかっているイレイザーヘッドはそれ以上何を聞くでもなく椅子に腰掛けた。

「今は緑谷が病室に行ってる。戻ってきたら行ってやれ」
「……はい」

一年A組の面白い子と同じインターン先になったんだ、と通形から聞いたあの日が懐かしい。あの日に戻ることができたなら。この未来を彼に伝えることができたならどんなに良かったか。それこそ私にナイトアイのような個性が備わっていたなら、一教師としての立場など無視して危険な仕事に関わるという通形の未来を見て危険を伝えていただろうに。
「あれ、渡瀬先生……?」横から掛けられた声に顔を向けると緑谷が立っていた。制服を着ているせいでわかりづらいが包帯やガーゼがある様子は見受けられない。緑谷は危ない目に遭わなかったのかと安堵すると同時に、個性を失くすほど危険な所にいた通形がどれほどの怪我をしているのかを想像してしまい胸が締め付けられる。

「先生も来てたんですか?」
「うん、今ね。私もちょっとお見舞いに」
「あっそうなんですね……」

じゃあ、と緑谷とすれ違って病室に向かう私の背中を引き留めたのはイレイザーヘッドの声だった。

「渡瀬」
「はい」
「鏡見てから行けよ」

そんなにひどい顔をしていただろうかと病室の手前にあった女子トイレに入るとそれはもう、目も当てられなかった。私がこんな事でどうする。恩師を亡くしたのも、個性が失くなったのも、夢を絶たれたのも私ではないのだから。一体何のために来たのだ。彼を元気付けられたらと、そう思ったからじゃないか。その私が辛気臭い表情では彼に余計な気遣いをさせてしまう。
鏡を見て一度目を閉じた。いつも通りでいるように努めよう。彼と親しい教師として、私にできる精一杯を。瞼を開いて鏡の中の自分を見た。よし、と呟く代わりに息を吐いた。

「通形くん、入っていい?」
「え?あ、どうぞ……やっぱり夏海先生だ?!何でこんなところに?」
「お見舞いだよ、びっくりした?」
「そりゃもう!」

びっくりしたのは彼だけではない。入院着の袖から真っ白な包帯が覗いているというのに彼は筋トレと思わしき行動を取っていたし、私が想像していた彼の様子とはまるで違ったのだから。何もベッドで茫然としているとは思ってはいなかったけれど、失った物に対してあまりにも変化がないように見えて細いナイフで胸を刺されたかのような鋭い痛みを覚えた。
これはあくまで想像でしかないけれど、この個室に誰かがいる間はずっとこんな調子なのではないだろうか。彼の恩師は『元気とユーモア』を大事にしていたから。彼は、通形ミリオはいつだってそれを大事にするヒーローとして頑張っていたから。彼は今でもそうであるように振る舞い続けているのではないか。

「いやー、まさか夏海先生まで来てくれるとは思わなかったですね!」
「緑谷くんもさっき来てたんだってね?天喰くん達は?」
「環は顔面骨折らしいんですけどリカバリーガールが治してくれたからこの後帰るって。俺だけ一日様子見入院なんてツイてないなって思いましたけど……夏海先生がお見舞いに来てくれたなら逆によかったですよね!」
「何言ってるの、まったく……」

あ、ダメだ。直感でわかった。
視界に映っていたはずの彼の顔もベッドの輪郭もぼやけて歪んでいく。目に力を入れると下瞼が震えているのを感じた。

「夏海先生?」

私が泣いてどうする。こんな事をするために病室まで来たのか。自分を叱咤する一方で、自分の感情にもう歯止めが効かないことも理解していた。目尻から漏れ出た涙が頬を伝う。「先生どうしたの?!」慌てる通形の声に唇を噛み締めて痛みで涙を抑えようとしたけれど一粒、また一粒と膝の上に置いていた手の甲に涙が落ちた。

「せっ、先生!リンゴ!リンゴ貰ったんですよね!食べます?!」
「……うん、ごめん私剥くね」

何しに来たのだと自分で自分を殴りたいくらいだった。教師として彼に元気を出してもらうために来たはずだったのに、彼を見たらそんな物は全て吹き飛んでしまった。彼が普段通りの自分を見せようとする度にどうしても今までの努力が思い起こされてしまう。個性の扱いも勉強も人一倍頑張ってきた彼の夢がこんな事で潰されるなんて思いもしなかった。代わってあげられるなら私が代わるのに。
バスケットに入っていた林檎の皮を剥き、切り分けて皿に並べる。「ありがとう先生」もう認めるしかない。私は彼が好きなのだ。教師だ生徒だなんだと言い訳をしてきたけれど、自分がどんな状況に置かれてもヒーローらしくあろうと振る舞い続ける彼のことが好きだ。教師という立場を忘れて涙を見せてしまう程に私の中で存在感を増していたと気づくのがこんな時だなんて、シェイクスピアも真っ青の悲劇で、喜劇だ。

「え、私もですか?」

あれから暫く経ち、休学を選んだ通形のいない雄英高校にもなれた頃、イレイザーヘッドに声をかけられた。何でも文化祭にエリを招待したいからそれの外出練習日に付き添いとして着いてこいとのこと。構わないと言えば構わないがエリとは今まで一度として面識はなく、人から話を聞いている程度なのだが。

「手が空いてる女性職員はお前だけでな。こういうのは女性も一人いた方がいいだろうという校長の判断だ」
「あっ、はい……」

人種どころか生き物の種別として校長は垣根を超えた存在とはいえ、その分人への配慮は私達よりもよっぽどしっかりしていると思う。確かにエリは女の子だしイレイザーヘッドと二人きりにされるよりは全くの初対面でも私がいた方がいいかもしれない。
一年A組の生徒に会わせてから学校を案内するとのことで指定の日時に寮まで来いと連絡があった。それならA組の生徒の方が適任ではと思わなくもなかったが、もうすぐ始まる文化祭の準備で一年生のみならず生徒は皆浮き足立っている。文化祭なんてものは当日よりも準備している時の方が楽しいのだ、こんな状況下とはいえ生徒には目一杯楽しい時間を過ごしてほしい。ふと休学中の通形を思い出して自然と落ちてしまう視線を前に向けた。A組の寮へと。

「……あれ?」
「通形くん?」

寮の前には洋服のあちこちに木の葉をつけている通形がいた。「何やってるの?」聞くところによると彼もまたエリの付き添いらしい。一番仲が良いし自分は休学中で時間もあるからと笑う彼の明るい笑顔にまた胸が痛んだ。

「エリちゃん、はじめまして。渡瀬夏海っていいます」
「わたせ……」
「夏海先生はね、先生なんだよね!」
「わかりやすい説明ありがとう通形くん」

零れ落ちそうな大きな瞳の女の子を前に膝を折って笑って見せればエリもゆっくりとではあるが会釈のような仕草をして通形の後ろから顔を出してくれた。
この子の生い立ちは聞いている。まだ笑うことができないということも。そして個性の制御ができるようになれば通形の個性を戻せる可能性があることも。勿論そうなれば一番いいけれどこの子に何もかもを背負わせるのは酷が過ぎる。今はただ、この子に日々を楽しんでほしい。今度こそ私にできる精一杯をしよう。

「じゃあ行こっか!きっと今なら皆準備で忙しいだろうけど──」
「待って通形くん」
「?」
「校舎に行くんだよね?」

歩き出した通形に声をかけると彼と、彼の足につかまって歩いていたエリが歩みを止めてこちらに振り向いた。

「もちろんですよね!」
「じゃあ制服に着替えないと」

エリや私はともかく通形には雄英の制服がある。生徒は校則で制服か体操服、あるいはコスチュームを着ないと校舎に入ってはいけないとあったはずで、今の彼はどこをどう見ても私服。校則違反になってしまう。
どうせ文化祭の準備中なのだから、と目を瞑ることは可能ではあるけれど彼は休学中とはいえ雄英の生徒であることに変わりはない。

「……でも先生、俺はほら」
「ダメ。雄英の生徒は制服着ないとって校則で決まってるでしょ?早く着替えておいで」

通形の言葉を遮るように跳ね除けた。彼の言いたいことはわかる。だけどそれは受け入れられない。彼は雄英高校の一員なのだから。自分から遠ざかっていくようなことはしないでほしい。休学中だろうが何だろうが彼は雄英高校三年B組の生徒で、来年の春ここを卒業して、そして輝かしい未来を歩み出すのだ。元気とユーモアを大事にするプロヒーローであるルミリオンとして。
一瞬通形の表情が固まって、何故だか次の瞬間泣き出すのではないかと思ってしまった。無論そんな事はなく、瞬きをした後に見えた彼の顔はいつも通り明るくて「はい!」と元気のいい返事が聞こえたのだけど。

「……夏海先生」
「ん?どうしたのエリちゃん」
「夏海先生、ルミリオンさんのこと怒ってる?嫌い?」
「……ううん。逆だよ」
「逆?」
「うん。ルミリオンさん帰ってくるまでもう少し待ってようね」




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