「はじめまして、紅葉秋彦と言います」

人の良さそうな微笑みを浮かべて握手を求めてきた男性に応じる。まだ大学院生なのだと自己紹介をする彼は、年は違えども同じ学生とは思えぬほどにしっかりとしていて、この雄英高校に外部から招かれたカウンセラーでありながらこの場にいる誰よりも堂々とした振る舞いを見せていた。

「通形ミリオです。エリちゃんのカウンセラーさんですよね?今日は俺も見させてほしくて」
「どうぞどうぞ。エリちゃんから聞いてるよ、ルミリオン」

プロヒーローだと名乗られれば信じてしまいそうになるそんな雰囲気。威圧的ではないのだが、大人の男性が持つ独特の空気というか。俺にはないそれが少し羨ましくも思えた。
エリのカウンセリングはこれが三回目とのこと。ヒーローとしてできることを増やそうと初めて見学を目当てに立ち会ったけれど「よかったらミリオくんも」と画用紙を渡されて、俺もお絵かきという名のカウンセリングを受けることになった。何でも好きに描いていい、と言われると逆に何を書くべきなのかわからず画用紙に何かを生み出すことはできなかった。

「すみません、俺……」
「美術の授業じゃないんだ。描かなきゃいけないなんてことはないんだよ」

ナイトアイを亡くしてすぐの頃も一度カウンセリングを受けたことはあったけれど、紅葉先生の言葉はその時よりもゆっくりと胸に馴染んでいくような、そんな優しい響きがあった。心地良いとさえ思うほどに。そう感じたのは俺だけではなかったらしく、エリも少しずつ彼に心を開いているように見えた。
そんなエリの変化が嬉しくて、柔和な紅葉先生に尊敬の念を抱き始めていた五回目のカウンセリングをいつものように教師寮の一階で受けている時だった。階段から降りてきた彼女と目が合ったのは。

「何で通形くんがここにいるの?」
「俺、エリちゃんのカウンセリング見せてもらってて……夏海先生?」

俺の説明が終わる前に彼女の顔から感情と名のつくものは消し飛んでしまっていた。今までに見たことがなかった。病室に見舞いに来てくれた時は急に泣き出す彼女に慌ててしまったけれど、それでも泣くという感情表現はあったのに。今の彼女にはそれすらない。
おかしなその様子を訝しみながら窺うと、その視線は俺に向いてはいなかった。少し後ろを見ているが、俺の後ろにはカウンセリングをしている二人がいるだけだ。一体どうしたのかと彼女の方へ一歩踏み出したその時「夏海ー?」この場にはそぐわない声が聞こえた。

「え、こんな所で何してんだ?お前変わってないなあ」
「秋彦……」

振り向く前に紅葉先生は俺を追い越し夏海先生のすぐそばに近寄った。まるでそれが定位置だとでも言わんばかりの自然な流れになす術もなく見ていることしかできない。エリや俺に話しかけていた柔和な様子は一変し、お気に入りのおもちゃが目の前に現れた子供と比べても遜色ないほどに楽しそうな声色だった。
対する夏海先生はその場を一歩として動かなかった。いや、動けなかったという表現が正しいのかもしれない。紅葉先生の手は会話の合間に夏海先生の腕や背中、頭に触れていた。動こうものならそれを嫌がっているように見えてしまう。傍目から見ても明らかなほどの力関係がそれを許すとは思えなかった。

「雄英でバイトって?授業は?流石に今年は卒業するよな?」
「……うん。もう単位は取り終わってるから卒論書くだけだし」

エリは何か作業に没頭しているようでこちらを見る素振りもなく、手が空いているからと知り合いらしい紅葉先生が彼女に話しかけるのは何らおかしくはない。しかし普通、目の前にいる俺に何も言わず会話を続けるものだろうか。会話に割って入ろうにも、俺が口を開いた途端に紅葉先生は話題を切り替えていく。あたかも俺の存在など初めからなかったかのように、違う世界の人間だとでも言わんばかりに一度たりともこちらを見ない紅葉先生は俺の尊敬していた彼ではなかった。

「卒論か、俺も院でまた論文出さなきゃだし一緒にやろうよ。俺んち覚えてるだろ?」

ぐ、っと夏海先生の喉に力が入るのが見える。彼女の意思など気にも止めずに話を進めていく紅葉先生にカウンセラーの面影は欠片もなくて、それに恐怖感を覚えると同時に、泥のような濁った──端的に称するならば嫌悪感という名の──感情が頭をもたげていた。

「雄英は今あんまり外出れないから、そういうのは……」
「あー、そっか。そうだよな。じゃあまた雄英来る時前もって連絡するから──」
「夏海先生!」

このまま何をするでもなく見ているだけではダメだ。そう感じて声を上げたのはヒーローとしてか、通形ミリオとしてか。どちらかはわからなかったけれど、どちらだってよかった。

「Justiceの最新号でわからないところがあるから教えて欲しいんですよね!今お時間いいですか?」
「あ、うん。……ここだとエリちゃんの邪魔になっちゃうから職員室でいい?」
「はい!」

ほんの一瞬だった。紅葉先生が俺という人間がいることを思い出したかのように振り向いて目が合ったその一瞬。彼の瞳はとても澄んでいた。透き通るような明るさで、一点の汚れも曇りもないその瞳と視線がかち合ったその瞬間、背筋が凍った。何の感情も抱いていないように感じた。少なくとも、俺には。
道に転がる石や木の枝でも見るかのようなその目は、凡そ人に向けるものではないだろうに彼は俺をしっかりと見据えていた。間違いなく俺に対してその視線を向けていたのだ。インターン中に何度も遭遇した敵達のように敵意があるわけでもないのに、悪意など微塵も感じないのに、逆にそれが恐ろしいとさえ思った。

「Justiceって?」
「……アメリカのヒーロー雑誌。あんなにたくさん一緒に読んだのに。覚えてないんだね」

俺の代わりに夏海先生が口を開く。「じゃあもう行くから」そう言い切った彼女は紅葉先生の「また連絡する」という言葉に頷きもせず、返事もせず、ただただドアに向かって歩き続けていた。

「さっきはありがとう。秋彦、ちょっと面倒くさい人なんだよね。カウンセラーとしては優秀だけど……通形くんに助けられちゃった」

校舎へ向かう道のりで空を見上げながら夏海先生が呟くように言って、疲れを吐き出すかのようにため息をついた。

「面倒くさいっていうより、別の人みたいで」
「……そうだよね。気分にムラがあるっていうか……本当にごめんね、嫌な思いしたでしょ」

夏海先生が申し訳なさそうに俺を見上げる。確かに紅葉先生の変わりようには驚いた。彼女と親しげに話す姿に嫌悪感を覚え、悪意のない澄んだ目から人としての扱いを受けていないように思えて恐怖を感じた。しかしそんな感情よりも、いつもの明るく、楽しそうに笑う彼女を一瞬でこうも変えてしまうほどの存在なのだという事実の方が胸を締め付ける。

「……俺は大丈夫ですよね!でも先生達が知り合いってのはびっくりしました」
「知り合いっていうか、秋彦は……私達昔付き合ってて」

職員室にたどり着くまでの間、彼女は紅葉先生との関係を話し始めた。同じ大学で過ごし、付き合い、決して円満ではない別れ方をしたせいで心に大きな傷が残り、大学も一年留年してしまったことを。そんな相手のことならいくらだって悪く言えるはずなのに、彼女はあくまでも感情を交えずに言葉を選びつつ事実しか言わなくて。
少なくとも彼女は紅葉先生のことが本当に好きだったのだと言葉の端々から伝わってきて、気づけば彼女に見えない方の手を強く握りしめていた。

「って、通形くんに関係ないのにごめんね。Justiceでわかんないところってどこ?」

職員室に着くと、彼女の表情は既に教師の持つそれだった。俺の前ではほぼそれを崩したことはなかったのに、紅葉先生が目の前に来ただけで一人の女性になるほど彼の存在は大きいのか。どんな別れ方をすればそこまでの傷を負うのか、どうしてその事がこんなにも気になるのか。込み上げるこの感情の名前は何なのか。俺が今彼女へ抱く気持ちは、生徒としてのものなのだろうか。

「……っていうことがあったんだよね」

寮の自室でベッドに寝転びながら、クッションに座る環に投げ掛けた。環は一言も挟むことなくただ聞き続けてくれている。
結局あの感情を何と呼ぶべきかはわからないままで、あれ以来夏海先生は俺の前で紅葉秋彦の名を出す事は一度もなかった。俺の前では意識して教師として、一人の大人として接しているようにさえ思えてしまうのは俺の思い込みなのだろうけど。

「最近寝る前に夏海先生のことよく考えちゃってさ。俺付き合うとかよくわかんないけど……どんな別れ方したらああなるのかなってね。夏海先生を元気づけたいけど俺からその話するのはどうかと思うし。環はどう思う?」
「正直よくわからない。俺は紅葉先生って人と会ってもないし、渡瀬先生ともそこまで仲が良いわけじゃない」

確かに、環は自発的に夏海先生へ話しかけることはほとんどない。抑揚もなく言い切る環に「そっかあ」としか言いようがなく、俺はどうすべきかと悩ませていた時、じっとこちらを見る環と目が合った。

「でもミリオが渡瀬先生のことを好きなのはよく分かった」
「……えっ?!」
「何をそんなに驚いてるんだ……」

環は珍しく呆れたような目で俺を見る。十年以上の付き合いがある幼馴染がこんな態度を取るのはよっぽど俺が失態を晒した時に限るのだが、どうやら今がその時らしい。
俺が夏海先生のことを好きだなんてそんな意識はまるでなかったはずなのに、明確に言葉にされた途端、今までの感情に次々と名前がつけられていく。嫉妬、羨望、憧憬、そして彼女への気持ちは教師への尊敬ではなく、恋という名前なのだと。

「俺、夏海先生のこと好きなんだ……」
「……困らせたくないなら誰にも言わない方がいい。今の雄英はただでさえ色々言われているのに、変な噂が立てば渡瀬先生が雄英にいられなくなる」

たとえ雄英の状況がどうであれ、教師と生徒という立場を考えれば俺が夏海先生のことを好きだと知った大人は彼女をあまりよく思わないだろう。彼女の人となりがどうだとかは関係ない。俺が高校生であり、彼女がその教師だからだ。

「……まあ、そうだよね」

無論、雄英の関係者であれば彼女が生徒思いの教育者であることは理解しているし、俺の勝手な片想いだと判断するのだろうが万が一にも世間に知られてはそうはいかない。最近では仮免試験にも敵が潜入しており、雄英がそれを引き起こしたのだとマスコミには叩かれ続けている。
俺が彼女を好きになったのは誰のせいでもなく、俺自身の責任だ。しかし高校生ではその言葉に何の重みもない。高校生では、彼女に想いを伝えることもできない。

「ミリオ」
「?」
「渡瀬先生を元気にしたいなら俺も力になる。先生のことを話したいならいつでも聞く。誰にも話したりしないから安心していい」

環が珍しく笑顔を見せた。大丈夫だと言わんばかりのその表情にざわついていた心が落ち着いていくのを感じる。「ありがとう環」自然と口から出た感謝の言葉に環が頷き、それと同時に俺もベッドから体を起こした。

「よし!俺が夏海先生を笑顔にする!俺はあんな顔、絶対させない!」
「ミリオは……ミリオなら、できる。だけどもう少し声を落とさないと隣に聞こえる」

至極冷静な親友の指摘に慌てて口を閉じた。休学中とはいえ生徒である俺に言えることもできることもそう多くはないけれど、半年後には雄英を卒業しプロヒーローとして活動する。その時には二度と彼女があんな顔をしなくて済むように全力を尽くそう。ルミリオンとしても、通形ミリオとしても。




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