博多の空を見上げればホークスを見ない日はない、あの文言は決して大袈裟ではなかった。博多に着いた数時間後、わざわざ探し回らなくとも彼の姿を空に見ることができたのだから。

「ホークスや!まだ仕事しとるん?」

男性の声につられて顔を上へと向ければ夜空を背負った彼がいた。市民の声に答えて「今日はもう終わり」笑顔を見せる彼は二年前と変わらない。これがホークスの顔というわけだ。
それならば、私に見せていた笑顔もホークスのものだったのだろうか。なそれとも赤羽根迅としてのものだったのか。心の中で徐々に膨らんでいく黒い靄に疑念という名前がつきそうになって、だけど彼に疑いなんて持ちたくはなくて背を向けた。

「……迅くん有名人みたい」

会社が用意したウィークリーマンションでテレビをつけると夜のニュースで彼の仕事ぶりが紹介されていた。彼に話しかけなくては埒があかないのは十分にわかっている。
再就職先となったデトネラット社に福岡での仕事を希望し派遣が認められたものの猶予はたった一ヶ月。その間に彼と話をして、二年が経っても変わらぬ私の想いを伝えて、そして彼の気持ちを確認しなくては。きっと彼の気持ちは私と同じだと思うけれど──たった二年如きで私達の運命が壊れるなんてありはしないだろうけれど──確認は必要だ。
明日か、明後日か、どこか時間を作って彼に会いに行こう。私が会いに来たと分かれば驚くだろうか。何故急にいなくなった私を探さなかったのか教えてくれるだろうか。ちょうどニュースの話題がホークスから他に移ったタイミングでテレビを消した。

「杉本さんすみませんちょっといいですか?」
「はい?」

再び私が公的な場で個性を使わぬよう仕事中に私を監視する役割の警察官が焦りを隠そうともせず私を呼び止めた。訳を聞くと近くで大きな火災が発生してそちらに人員を回したいから監視対象の私も共に行動してほしいとのこと。
覆面パトカーで移動すること十五分、車窓から見えたビルは確かに燃えていたけれど何故か火が出ているのは下の方だけだった。大きな火災という割に変な燃え方だなとぼんやり考えていたところに空中にいる彼の姿が見えた。ホークスとして活動している彼の背中。規制線があるから近づくことはできないのだが窓越しに見ているだけなど耐えられるわけもなく、助手席から降りてドアを閉めた。

「ホークス今日も素晴らしい活躍でしたね!」

あっという間に救助活動を終えたらしい彼はマスコミに囲まれてしまってよく見えない。警察官もまだ戻ってこないしで手持ち無沙汰だ。
目の前に張られた規制線さえなければ彼のところに駆け寄るのにな。そうしてしまいたい気持ちはあるけれど、警察の監視対象となっている私がそんな事をしては彼に迷惑をかけてしまうだろう。残念な気持ちを吐き出した時、「すみません」と後ろから女性の声がして振り向いた。
水のペットボトルを二つ持った背の高い女性は規制線をくぐり中に入っていく。私服だからヒーローではないのだろうが、規制線の中へ入っても止められないところを見ると警察だろうか。

「……警察官かあ……」

片足を軽く引き摺るようにして歩いている女性の背中を目で追うとマスコミの取材を終えたらしい迅の隣に辿り着いていた。敵受け取り係と揶揄される警察だけどヒーローをサポートすることができるわけだし、迅がヒーローだと判明した今では私も警察官になるのも、なんて未来を想像してみる。
前科があれば警察官にはなれないとはいえ私の場合一応前科はないのだしそれも一つの選択肢としてはありかもしれない。でも何かにつけ私のことを心配してくれた迅のことだから──妄想とも言える未来予想図はそこで止まった。

「……何それ」

警察らしい女性と話していた迅は今までに見せたことのない柔らかな表情を浮かべていた。大切で仕方ない物でも見つめているかのような瞳に、愛おしい気持ちが漏れ出ている緩んだ口元。あれは迅じゃない。動画でたくさん見たプロヒーローのホークスでもない。あんな人、私は知らない。
ふと記憶の隅に追いやったはずのインタビュー記事が頭を過ぎる。『初恋は少し前で仕事関係の人』ヒーローともなれば仕事は多岐にわたるのだから何も警察とは限らない。けれど私の勘が告げている。あれがそうなのだと。『初恋』は間違いなくあの人だと。私ではないのだと、迅の表情や仕草が雄弁に物語っていた。

「お待たせしました、中洲の方に戻りますか?」
「……いえ、今日はもう仕事終わります。マンションまで送ってもらえますか?」

やっと戻ってきた警察官に送られマンションに着いた。テレビをつけたらホークスの活動を報じていそうだから電源もつけずに倒れ込むようにソファーへ身体を預けた。
迅と話すつもりだったのに、二年前のあの日からもう一度やり直すつもりで博多に来たというのに。私と同じ気持ちだと信じていたのに。私と彼は運命で結ばれていて、たかが二年如きの月日に引き裂かれるわけはないと確信があったのに。
初恋があの人なら、私はなんだったのだ。二年という月日が気持ちを変えてしまったというならまだ納得はできた。しかしそうではない。彼にとっては私など恋ですらなかったのだ。でもそれなら──確かにどれだけ記憶を遡ろうともただの一度として好きとも付き合おうとも言われたことはなかったけれど──キスをして身体を重ねてお互いの家を行き来していたあれは、一体。

「……っ」

ソファーに寝転んだまま睨みつけた天井が次第にぼやけていった。開きっぱなしのカーテンから差し込む月明かりが目に染みるせいだろう。
明日も明後日も仕事がある。ずっと泣いてはいられない。無理矢理に頭からあの二人のことを追い出して湯船にフリージアのアロマオイルを垂らして浸かる。甘い花の香りが少しだけ心の棘を溶かしてくれる気がした。

「ご協力ありがとうございました」

デトネラット社から課された仕事は民間人が抱えている個性にまつわる悩み事の調査。近く参入する事業に使う忌憚のない意見がほしいらしく、自然と私の仕事場も人が集まる場所となる。夏の博多で、それも昼間に人出が見込めるといえばやはり駅前だ。飲食店や量販店、交通網も全て集まっているのだから当然人も多く集まる。
そう、だから彼がここにいても何も不思議ではなかった。

「……迅くん」

勇気を出して掛けた声は彼に届かなかったのか、彼は振り向くことなく歩き続けている。翼のせいで見えづらいけれどその斜め前には昨日規制線の中に入っていったあの女性もいて、二人で楽しげに会話する声が聞こえてきて、私がとんだ邪魔者のように感じられて神経の芯がじわりと熱を持つような感覚に襲われる。彼の隣にいるのは私だったはずなのに。

「迅くん!」

駅を出ようとした彼の足が止まった。聞こえている。私の声は彼に間違いなく届いているのだ。それならどうして振り向いてくれないの。私の声がわからないのか。

「迅くん。こっち見てよ」
「……なんでここに?」

第一声がこんなものだなんて。久しぶりに会えた私にもっと驚いて、喜んでくれると思っていた。少なくとも昨日までの私は。
何か仕方ない理由で彼は私を探したりしなかっただけで、本心は私のことを想ってくれると信じていた。そんな夢見がちな私はあのビルと一緒に燃え尽きてしまったけれども、声を掛けずにはいられなかったのだ。女性がどう思っているのかはともかく、私をこんな気持ちにしておいて二人だけが幸せになるなんてどうしても納得がいかなかった。

「仕事だよ。迅くんも仕事でしょ?同じだね」
「……わかってるならその名前で呼ぶのやめてもらえます?」
「あ、そっか。今はプロヒーローのホークスなんだもんね。ごめんねお仕事中に」

彼は目の前にいるのに、途轍もなく大きな溝が引かれているように感じた。私から隠すように立ち、後ろの女性に一人で行くよう告げた彼の様子からしてやはりその人は大事なのだなと実感する。どういう人なのだろう。ただの警察官だと昨日は思っていたけれど、今日も私服で彼の隣にいるということは既に二人は付き合っているとか。ぐっと奥歯を噛み締め階段を数段足速に降りて女性に追いついた。

「足悪いんですか?」

昨日も片足を引きずっていたし今日も階段を一段ずつでしか降りられていない。彼は介助役としてつきっきりなのだろうか。そう思って彼女の身なりを確認したけれど特別待遇が良くなりそうな人ではないし半袖から覗く腕にはほんのりと傷跡も窺える。やはり警察官か、それに類する何かか。

「降りるの手伝いましょうか?」
「大丈夫です。……お気遣いありがとうございます」

彼に「まどかさん」と呼ばれていた女性は茶色の瞳を揺らして明らかに私という存在への動揺を見せながら再びゆっくりと階段を降りていった。その背中が小さくなってから振り向くと迅は──いや、ホークスは階段の高さもあってか私を見下ろしていた。

「迅くんと話したくてずっと探してたの。何回か見かけたんだけどいつも仕事中で手が離せなかったから」
「仕事って?」
「……デトネラット社に就職したんだ。そしたら一ヶ月福岡でアンケート調査してこいって」

彼からすれば私は何の前触れもなく蒸発したはずなのにその事は何も聞かないのか。今までどこにいたのかとか、どうしていたのかとか、何故消えたのかとか。聞かないということは気にしていないのと同義か。私には彼に聞きたいことも伝えたいことも山程あるというのに、彼は私に何の関心もないように見える。

「ホークスって名前でプロヒーローやってるなんて知らなかったな」
「……聞かれなかったんで」
「聞いたら教えてくれた?じゃあさっきいた人、誰?」
「……」
「昨日一緒にいるの見たけど。警察の人?」
「……そんなとこです」

カツン、と靴を鳴らして階段を一つ二つと登る。彼に近づいているはずなのに距離が縮まっている気がしない。この人はいつだって私のことを想って、心配してくれていた迅じゃない。今はホークスとして市民の目もあるから私にこんな接し方をしている可能性もあるけれど、彼が私にこんな態度を取るのはそれだけが理由じゃないと心が告げている。
きっと彼は、彼の気持ちは、私にはない。私が二年抱き続けてきた気持ちと対になるはずだった同じものは存在しない。

「ねえ、迅くん──」
「……はい、ホークスです。了解すぐ行きます」

突如として鳴った携帯に呼ばれるがままホークスは飛ぶ準備を整えて「ごめんまた今度」有無も言わさずいなくなってしまった。今度っていつだろう。私は彼の携帯番号すら知らないのに。
駅の向こうへ飛んでいく彼を見送る。私のこのやり場のない気持ちも一緒に持っていってくれたらよかったのに。今の彼が私のことなど欠片も想っていないという現実を突きつけられてもなお、私の気持ちがすぐに消えてなくなるわけでもない。
念願叶って彼と話すことができたというのにわかったことといえば彼の気持ちは今あの女性にあるということくらい。ジリジリと背中を焼く太陽の光すらも憎らしくて階段を駆け上がり駅ビルの中に入った。




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