「ご自宅用でよろしいですか?」
「はい」

一ヶ月近く博多にいるのだから事務所の宿泊施設はそのまま使っていいと言われているけれど、このままでいいのだろうかとふと考える。どの道事務として働くのだから一日に何回も彼と顔を合わすことになることには変わりないのだがあそこにずっと住んでいたらその回数は増えること間違いなしだ。
ついさっき『迅くん』とホークスをそう呼んでいたあの女の子。綺麗に伸びた金髪に穏やかな灰色の瞳、傷一つない白い手を持つあの子は私よりもよっぽどホークスに近い存在で、そんな人を目の前にして彼の近くにいるのはあまりにも図々しくはないだろうか。

「お買い上げありがとうございました」

白いビニール袋を受け取る私の手は、腕は、そしてそれ以外の体のどの部分を贔屓目に見ても傷跡が少なくはなかった。もうプロヒーローとして活動して何年にもなるのだから当然のことであり、今更そんな事を一々気にしているわけでもない。だけどあんな女の子を前にしては目を背けたくもなる。
週刊誌に女子アナと撮られていた時もそうだった。とても可愛らしい人がホークスの隣で笑っていて、私は嫉妬よりも先に気が沈んでいた。あんな人が近くにいたのでは望みなどないと。そして今も。小さくため息を吐きつつ日用品店を出てビニール袋を引っ提げながら事務所へ歩き出す。憎らしいほどに天気が良い博多の街はたくさんの人で賑わっていた。

『今週末は海上花火大会が行われます』

道路を走る宣伝車をぼんやりと目で追った。花火大会か。あの二人も行くのかな。女の子の風貌からして仕事ではなく私的な関係性なのだろうし。友人だとか、恋人だとか、そういった名前の。
彼のそういったプライベートな部分は何も知らない。今まで読んできた彼のインタビューや特集にも何一つ情報はなかったし、彼自身がそういう話をすることは今までなかった。所詮私と彼の関係性に名前をつけるなら仕事相手だとかその程度。『迅』という名前だってあの場に居合わせなければ知ることなどなかったはずだ。仮に数時間前、あの流れで誕生日プレゼントを渡すと返事をしていても私達の関係性など変わりはしなかっただろう。

『夏の夜空を六千発の花火が彩ります。皆様ぜひご覧ください』

花火大会なんて毎年火事対策でどこかの警備に呼ばれていたしろくに見た覚えなどない。取り立ててゆっくり見たいと願ったこともないけれどホークスとあの女の子が二人で見ているとしたら、嫌だな。何の権利もないくせに一丁前に嫉妬心がある自分も嫌になる。
幸か不幸か、今年は花火大会の警護の仕事はない。私も少し見に行ってみようかな。綺麗な花火でも見ればこの陰鬱とした気分が晴れやかなものになるかもしれない。

「?」

ふと手から重さが消えてビニール袋が浮いていることに気がついた。右腕にかけていたビニール袋の紐と腕との間には一枚の羽根。

「あ……」

ふと空を見上げれば僅かに前方の上空を飛んでいる彼の姿が目に入る。「ホークスや」「今日はどこ行くんやろ?」横断歩道待ちの人たちが空を指さしながら口々に彼の話をし始めた。私も彼のことを博多の人達に愛され頼られているプロヒーローとしてだけ見れていたらよかったのに。
いつからか私はホークスを異性として意識するようになり、どうしようもない感情を抱え続けている。こうして、彼の中では怪我人でしかない私の荷物を持ってくれたというヒーローとしては当たり前の行為一つにときめいてしまうほどに。

「ありがとね」

ホークスが今羽根を操作できているということは、私のこの声も届くのだろう。羽根に向けてお礼の言葉を呟いて空を見上げると一瞬目が合った気がした。気のせいだ、と言われればそれまでだけれども。

「ああすみません、今月はもう予定が詰まってて……来月中旬くらいで検討いただけますか?」

ホークス事務所で雑務をこなし始めて三日が経った。解決した事件の報告書作り、経費の申請、警察からの連絡を逐次サイドキック達に連絡を入れながらマスコミからの取材日程や出演依頼の調整。
今週いっぱいはホークスのスケジュールが確保できないから八月以降にしてくれと言われているが、そもそもこの二日間一度だって彼の姿は見ていない。サイドキックによると彼は度々他の仕事でいなくなることがあるから気にしなくていいらしいが、誰も彼がどこで何をしているのかを知らない。

「お疲れ様です」
「お帰りなさい」

パトロールの交代時間なのか一人だった事務所にサイドキック達が戻ってくる。「涼しかー!」と喜ぶ声に冷房の効いた室内にいることを申し訳なく思いながら全員分の冷たい麦茶を机に並べた。やはり今日もホークスはいない。余ってしまったグラスは自分で飲もうとパソコンの隣に置いた。

「明日まどかさん初の休みですよね?どこらへん行くんですか?」
「夜に花火やるらしいじゃないですか、それ見よっかなって」
「あー、花火大会!俺らも警備の合間にちょっと見たりしてますけど結構すごいんでオススメですよ」
「そんなになんですね。時間あったら行ってみようかな……」
「会場行くよりここの屋上がよかですよ。ほぼ人もおらんし」

確かにこのビルはかなりの高層だから花火と同じ高さで見ることもできるはずだ。人混みで足を踏まれでもしたら怪我が悪化することもあるだろうし、確かにその方が得策に感じる。万が一にも見たくない人を見ずにも済むし。あれだけ顔が知られている彼が地元の花火大会になんて行くこともないと思うけれど、あの子が行きたいと願えば彼はそれを叶えようとするかもしれない。
二人がどういう関係かなんて知りもしないくせに悪い方へ、悪い方へと考えが傾いていく。明日の花火を見てこれが消え去るとは到底思えないな。冷えた麦茶を口に含むと夏の味がした。

「風つよ……」

びゅう、と屋上に強く風が吹く。スカートなんて履いてこなくてよかった。視界に映るピンクと紫の混じった綺麗な夕焼けに浮かぶ雲はいつもより速く流れている気がする。風が強ければ煙が流れるのも速いのが道理。これはいい花火日和ではないだろうか。
手すりにもたれかかって地上に目を向けるも、三十階以上の高さからではたくさんいるはずの人の影すらわからない。あれのどこかに彼らはいるのか、それとも彼は仕事で他所に出ているのか。「何を考えてるんだか……」あそこに二人で行っていたとしてそれが何だというのだ。私の入る余地などない。ただそれだけのこと。

「考え事?」
「……え」

手すりから身体を起こして振り向くと数メートル先にいつも通りの服装をしたホークスがいた。どこにいたとも知れない彼が。また強く吹いた風が彼の髪を揺らした。

「あ……お帰り。仕事だったんだね」
「まあね。夏はやっぱりやること多くなるからまどかさんにいてもらえて良かったよ」
「それはどういたしまして」

三日振りに見る彼の顔はいつもと何も変わらなかった。あの時は背中しか見えなかったけれど、彼女にはどんな顔を見せていたのだろう。
この三年で彼の様々な表情を見ることができたと喜んでいた時期もあった。しかしあの子には、ユリと呼ばれていた彼女には──友人であるにしろ恋人であるにしろ──もっと違う一面を見せているに違いない。そしてどれだけ願えども、私がそれを見ることはない。

「花火見に来たんだ?」

風の音に混じって靴音が近づいてくる。ホークスがこちらに歩いているからだ。

「うん。皆が会場より屋上がいいよって教えてくれて。ホークスは?」
「……屋上から入ろうかと思って。まどかさんがいるとは思わなかったな」
「穴場らしいもんね、ここ」
「俺もっといい穴場知ってるけど。行く?」

さっきの私と同じように手すりにもたれかかりながらホークスは海の方を見ている。つい数分前まで綺麗な紫色に染まっていた空は深い青に近づいていて、海に反射する陽の光もすっかり消えてしまい波打つ様子もわからない。恐らくあと十分もせずに花火大会は始まることだろう。

「もっといい穴場?」

行ってはダメだと頭の中で警告音が鳴っていた。彼に近づき、馬鹿げた望みを抱き、そしてまた彼に女性の影を見る度に大きな傷を負うことになるのがありありと思い描ける。わざわざ傷つきに行く必要などないのに、彼女と花火大会には行かないのかと安心したせいか、誘いに心を動かされたのか、手すりを持つ手に力が入る。
もういいじゃないか、仕事をしに来て他愛のない会話をするくらいの距離に戻れば。無駄な期待を抱いて彼への想いを増大させればさせるほど私の傷は深くなると、頭ではしっかりと理解しているのだから。

「そう。よく見えるところ。せっかくだし行こうよ」

僅かにこちらを見たホークスは笑っていたけれどいつになく誘いが急だった。急というか、切迫感にも近い何かがあるようにも思える。
断らなくては。一人で、ここで見ると言わなくては。彼に近づいた距離に比例して傷が深くなるとこの三日間で理解したのだから。なのにどうして私の口は「じゃあ行ってみようかな」肯定の返事をしているのだろうか。

「結構高く飛ぶからさ、怖かったら目瞑ってた方がいいよ」
「落とさないでね?」
「そこまで信用ない?」

うそうそ、なんて軽く答えるやいなや彼の羽根数枚が私を持ち上げた。「仕事じゃないしゆっくり飛ぶよ」彼のその言葉に個性を使おうと止めていた呼吸を再開させた。
彼の羽根により持ち上げられた身体は屋上を出て博多の上空を移動し始めている。夜景が見たくて少しだけ首を下に向けると、屋上とさして高さは変わっていないはずなのにその高度と地に足がついていない不安から僅かに鳩尾のあたりから嫌な感覚がしていた。

「はい」

夜景から目を逸らして空に向けると雲の動きがよく見えたけれど、それもそれで空が近いのは少し怖いなと思っていたらホークスから手が差し出された。

「え?」
「手」
「なんで?」
「俺が繋ぎたいから?」

自意識過剰と言われようが、差し出されたこの手は彼が繋ぎたいからではなく私の不安を取り去るためとしか思えない。その行動そのものも、どう見ても私を安心させようとしているくせにあからさまにはしない態度も、私の凝り固まった表情を溶かすには十分過ぎた。

「……嘘ばっかり」
「本当なんだけどな」
「どうだか」

こんな時、あの子なら可愛らしくお礼を言いながら差し出された手を取るのだろうか。いや、そもそも最初から素直に怖いなら怖いと言ってそうなタイプかな。そんなことを考えながらホークスの手に自分のそれを重ねる。

「わ、すっごい眺め」
「福岡タワーは全国で三番目の高さらしいからね」
「福岡タワー?ここが?」
「大丈夫、ここなら電波塔の邪魔にはなんないから」

数日前に屋台に居合わせた客から言われたあの言葉を思い出したものの、ここに来たのは花火を見るためなのだから関係ないかと腰を下ろした。「……それを聞きたかったわけじゃないんだけど」私の呟きなどこの風の音に掻き消されてしまう。ひゅう、と時折吹く風はやはり怖さを覚えるけれどすぐにそれも消え去った。隣にはホークスがいるというのもあるけれど、眼前いっぱいに広がった大輪の華を追うのに脳が忙しなく動き始めたからだ。

「すっ……ごいね」
「でしょ。俺ここ好きなんだよね、誰にも邪魔されずに見れるから街を独り占めしてる気分で」
「花火は独り占めできなくてごめんね、私も楽しんでる」
「楽しんでもらえてるなら何より」

六千発と宣伝していた通り、休む間もなく打ち上げられ続けている花火。赤青黄色に他にも多種多様な色と形の華が私達の目線で開き、散っていく。その光に照らされているホークスを盗み見ると、彼に近づく警告音よりも彼への気持ちが増大していく音が聞こえた。これでは自傷行為と何も変わらないのに。

「でも良かったの?」
「何が?」
「花火大会、あの子と行かなくて」
「あの子って……」
「ユリさん……だっけ?駅で会った子」

ドン、ドンと大きな音を立てて花火は打ち上げられている。私もホークスもそれから目を逸らすことなく会話を続けていた。いや、ホークスはこちらを見たかもしれないが、私には彼の表情を窺いながらこんなことを聞けはしなかった。彼女とは花火大会に行くような関係ではないのか、なんて。

「まどかさんが想像してるような感じではないよ」

本当かな。信じてもいいのかな。彼女とは明らかに何かがある雰囲気だったけれど。
少なくとも今の彼は花火を見ていた。私が横顔を見ていることに気づいただろうか。「そっか」私の声は大きな風の音と花火の打ち上げ音で彼には届かなかったかもしれないけれど、その後は暫く口を開かずに膝を抱えながらただただ花火を見ていた。




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