『次は君だ』

電波を通じて届いた平和の象徴の声。今この瞬間に存在する犯罪者へ、そして今後出てくるであろう新たな脅威への力強いメッセージとは裏腹に、平和の象徴は今までに見たことがないくらいの夥しい血に塗れ、立っているのもやっとという姿で。私はただテレビを見ていることしかできなかった。

「……」

一夜明け、オールマイトがヒーロー活動を引退すると表明した。他にも神野の事件対応にあたった著名なヒーローの安否にまつわる報道が一日中続き、益々気分は沈んでいく。皆が命をかけてヒーローとして活動している最中、私はたかが足の骨折くらいで──それもほとんど治りかけの状態で──ヒーロー活動を休止しているなんて。
本調子ではないからと言い訳をしてベストジーニストからの依頼を断った。立ち上がれないほどの重症でもなく、移動できないくらいに身体へガタが来ていたわけでもない。走れはしないけれど行こうと思えば行けたはずだ。私の個性なら前線に立たずとも何か力になれたかもしれない。事務仕事と敵連合との闘い、どちらがより重要かなど冷静に考えればわかったはずなのに。
書類の端を握りしめる自分の手がぼんやりと目に入る。私があの場にいたら、もし私がヒーローとして正しい選択をできていたなら。

「まだ仕事してる?」

焦点の定まっていなかった視界が、スイッチが押されたかのようにクリアになる。手に持っている書類の文字が目に入ると同時に一体これを何分眺めていたのだろうと思いながら顔を上げるとこの事務所の主であるホークスと目が合った。いつからソファーに座っていたのか。

「あ、おかえりホークス。お疲れ様」
「お疲れ。ごめん仕事多かった?」
「ううん、私が遅いだけ。気にしないで上がってね」
「……」

ソファーの向かいに座っているホークスは動く気配がなくて、何かを言われるのが怖い私は書類に集中するフリをして視線を逸らした。
ホークスも同じように依頼はあったけれど別件で動けないから断ったのだと言っていた。私はといえば、治りかけている怪我を建前に博多へ残ることを選んだ。事務仕事も重要ではあるけれど、私ができない時くらいバイトでも雇えば済む話なのに。だというのに私はここに留まったのだ。一人のヒーローとして、人間として、自分の行為をこんなに恥じたことはない。誰にも会わせる顔がない。

「まどかさん」
「?」
「……任せきっててごめん。ありがとう」

彼の言おうとしたことは恐らくその言葉ではなかっただろう。私と目が合った数秒、一度開いた口を閉じて言葉を探すような仕草を見せていたから。
ヒーローは大きく二つに分けることができる。金銭や名声を目的とするか、誰かの救けになることを望むか。ホークスは言うまでもなく後者であり、彼の言っていた別件が何にせよ、依頼を断ったことに何かしら思うところがあるのだろうとその複雑そうな表情からは感じ取れた。

「今日締め切りじゃないならまどかさんも早めに上がっていいよ」
「ありがと」

サイドキック達とはオールマイトのことも神野の事件全体に関しても色々と話したけれど、ホークスはそれらに対して触れることなく事務所を出ていった。
あの時違う選択をしていたら。自分があの場にいたなら。私達に時間を巻き戻す個性でもなければそんな仮定をしても無意味だ。起きてしまったことは変えられないのだから。つまり、私が今すべきは書類と見つめ合いながら過去を嘆くことではなく、自身の行動を反省して次に活かすこと。ゆっくりと空気を吸い込んで肺を満たした後、無色のそれを吐き出した。

「いらっしゃいませー」

仕事を終わらせて夜の博多に足を踏み入れた。チリン、とベルが鳴るやいなや奥の方から店員の声が聞こえる。閉店間際の花屋に人がいるわけもなく閑散としているけれど、所狭しと花が置かれているお陰かとても賑やかに感じる。

「間もなく閉店ですので何かあればベルでお呼びくださいねー」
「あ、はい」

姿の見えない声に返事をするとそれ以降は何も聞こえなくなった。裏で閉店作業でもしているのだろうか。早く買うものを決めてお暇しなければと私を取り囲む花々に目をやる。入院患者に花を贈ろうなどと安直過ぎただろうか。しかしいつ目が覚めるともわからない人に食べ物を贈るわけにもいかないし、私の拙い見舞品リストには花しか残らなかったのだ。

「……何がいいんだろ」

数年前にヒーローとしてではなく袴田維と久保まどかとして付き合っていたけれど、お互いヒーロー業の忙しさからそんなに一緒にいた時間は長くなく、季節が変わった頃に別れた。彼の好きな花も植物もわからない、その程度の付き合い。

「すみません、見舞いに贈る花を選んでいただきたいんですけど──」

だからプロの力を借りようと思った。白い花を避けるだとか、鉢植えはタブーだとか、その程度の知識しかなかったから。元気の出るような花束を作ってもらって病室に贈ろうと。誰よりも花に関わる店員であれば私が適当に組み合わせるよりもずっといいものを作ってくれるだろうと思って、レジに設置されているベルを鳴らした。

「お待たせしました、お見舞い用の……」
「あ……」

蛍光灯に照らされた金髪に光の当たり加減か少し翳って見える灰色の瞳を持つ女の子。見覚えがないわけがない。博多駅でホークスを『迅くん』と呼び、彼からは『ユリ』と呼ばれていたこの子のことを。そして彼女もまた、私のことを覚えているのだろう。上がっていた口角は徐々に下がり、丸くて大きなその目は私を品定めするかのようにゆっくりと瞼を上下させている。
まさかこんな所で再会しようとは思っても見なかった。そういえばあの時ホークスとの会話で仕事がどうとか言っていた。ここがその仕事先ということなのか。もう気にしないと決めていたのにあの日のことを思い出して再び胸の奥がしくりと痛む。

「……お見舞い用のお花ですか?」
「あ、はい。そうです。男性用に何か作っていただけますか?あと配送も」

必要な会話以外は一切しなかった。というよりも、ユリの雰囲気がそうさせてはくれなかった。一応私のことを客として扱ってくれてはいるものの、厳しい物言いと態度は私への敵意をまざまざと思い知らされる。
彼女がホークスとどういう関係であれ、本名を呼び合う仲なのだ、私よりも近しい存在であることは間違いない。そして彼女が私のようにホークスへ好意を寄せているとなれば、仕事とはいえ異性が近くにいて良い気分になるわけもないだろう。私とて彼女の存在を知り、決して穏やかな気持ちではいられないけれど。

「メッセージカードは付けますか?包んでる間に書いてもらえると助かるんですけど」
「お願いします」

名刺より一回り大きい程度のカードを数秒見つめる。書ける文量は限られているのが有り難い。ボールペンで『袴田さんへ』と書き出してから無難な見舞いの言葉を並べて『まどかより』と締め括る。
あれだけ顔が広い人なのだからファンを含めずとも見舞いの品も病室に入らないくらい届くはずだ。彼の目が覚めたら、容体が落ち着いたら一度会いに行こう。依頼を断ってしまった引け目もあるけれど、純粋に彼が心配だった。

「ベストジーニストって書かないんですね」
「え?」
「宛先はベストジーニストなのにカードは袴田さんだから」
「あ、まあ……」
「……ふうん」

ユリに指摘されてカードに目を落とす。確かに私達の関係はもうヒーローとしてのものだけなのだから、彼に恋愛感情は一切抱いていないと言い切れるとはいえ本名を書くべきではなかったかもしれない。しかしもう書いてしまったし、彼とてそんな細かい事は気にしないだろうと思い直してユリにカードを返した。
品物を確認して支払いを済ませ、領収書を受け取るタイミングで灰色の瞳が私を射抜く。花屋と客でいられる時間は終わったのだと実感した。

「迅くんとどういう関係なんですか?」

研ぎ澄まされた鋭い質問に喉が締め付けられる。
私とホークスの関係を明文化すればただの仕事仲間でしかない。私が一方的に想いを寄せているだけの同業者。二人で食事もしたし、ついこの前は花火を見たりもした。仕事の関係しかない──というわけでもないと思うけれど、彼と私はこういう関係だと明言できるほどのものは何もない。伏せた目を上げて訝しげにこちらを見る灰色を見据えた。

「私もヒーローなんです。ホークスの事務所にいるわけじゃなくて、人手が必要な時に依頼を受けてて」
「ヒーロー?警察じゃなくて?」
「はい」
「それだけ?」

彼女の言わんとしていることは伝わっていた。彼女が聞きたいのはこんな話ではないことも。

「迅くんとは何もないんですか?」
「……その名前も、この前あなたが呼んでるのを聞いて知ったくらいなので」

私も聞きたい。あなたと彼はどんな関係で、あの後私がいなくなってから何を話していたのか。気にするまいと思いながらも頭から離れないわけではない。
だけど彼は『まどかさんが想像してるような感じではないよ』そう言っていた。正確に言葉として否定されたわけではないけれど、彼がそう言うのならそれを信じたい。本当に知りたいのならホークスにこそ問うべきであり、ユリから聞くのは正しくないように感じた。

「……レモネード」
「レモネード?」
「迅くんと飲んだことあります?」
「いえ……あ」

先程までとは打って変わって随分と漠然とした質問だ。まだ酒の席を共にしたことはあるかと言われた方が質問の意図はわかるが、レモネードとは。何の意味があるかはわからないまま記憶を辿ると、そういえば昨年の秋に年齢を操作する個性の敵に遭遇した際に飲んだことがあるなと思い至り、首を縦に振る。すると同時に灰色から光が消えた。

「今は迅くんの事務所に?」
「ええ、夏までですけど」
「……じゃあこれ、どうぞ」
「えっ?」

ベストジーニストのお見舞い用に作ってもらった花束と同じ花を使った小さなブーケが差し出された。「余りですけど事務所に飾ってください」いつの間にかユリは花屋の店員へと戻っていたらしい。

「お見舞いのは明日届きますから」
「あ、はい……」
「この店、私はただの手伝いなんで明日以降何か問い合わせたいならご自由にどうぞ」

ユリから聞いた言葉はそれが最後だった。くるりと私に背を向け、店の裏へと戻る彼女を見て形容し難い靄のような気持ちを抱えながら事務所に足を進める。
彼女に会うことは恐らくもうないだろう。私は基本的に事務仕事ばかりで事務所から出る時など限られているし、あの花屋にも今後行こうとは思えない。それに何より二週間後には博多から静岡に戻るのだから。その後ホークスとユリとがどうなるかなど、考えたくもない。

「……はあ……」

ため息をつきながら花瓶を用意し、事務所のテーブルに花束を飾ってから約二週間。いよいよ博多から出る日が近づいてきている。あの花も枯れかけているのだから処分しなければと、夜もふけた頃に何故か足が事務所に向いた。
花の処分など、明日の朝でも昼でも何ら問題はなかった。片付ける暇がないのならサイドキックに一言頼めば済む話だった。何故事務所のあるフロアに来てしまったのだろう。どうして私は事務所に入るドアの隣の壁に背を預け、中で起きている言い争いに耳を傾けているのだろうか。

「ねえ、私に何か一つでも本当の事言ったことある?!」
「……」
「否定しないんだ?可愛いとか尊敬するとか適当な事ばっかり言って、私のこと良いように利用してたってこと?」

しかし時折聞こえる肯定や否定を意味する冷静そうな声はホークスのそれであり、立て続けに質問を投げかける涙ぐんだ声は間違いなくユリのものだった。
聞きたくなかった。こんな形でホークスのプライベートな部分を。聞くべきではなかった。直接彼から聞いていないことを。それなのに私の足は壁に踵を付けたまま動こうともしてくれない。本心では彼らがどうなるのか知りたいと思っているのだろうか。

「……組織を潰すためにね」
「ヒーローなら……仕事のためなら何しても許されるの?どうせ私のこと馬鹿にしてたんでしょ!」
「……」
「二年以上施設で我慢したのに……。出てきたらその辺の物みたいにあっさり捨てられてた時の絶望感、迅くんにわかる?!」

最初から全てを聞いたわけではない。けれど大体の話の内容はわかってしまった。彼らがそういう関係であったということは。

「……迅くん、私に何か言うことはないの?」
「……」

もうやめよう。こんなの聞いていても仕方ない。前髪をかき上げながら静かに息を吐いたその時「もういい!」隣のドアが大きな音を立てて開いた。

「……最近のヒーローは盗み聞きまでするのね!いいご身分!」
「あの……ごめんなさい」

出てきたユリは涙をいっぱいに溜めた瞳で私を睨みつけ、何度も何度もエレベーターを呼ぶボタンを押し、来た瞬間まるで早馬のように入り込んでフロアから去っていった。一瞬見えた彼女の顔にあった無数の涙の跡はそれほどまでにホークスを想っていた証拠に他ならず、その事実は見えないナイフとなって私の身体の至る所を刺していく。

「……ごめんまどかさん、俺が怒らせたから」

ドアの所に来ていたらしいホークスの声が右耳に届く。いつもならこの声を聞く度に胸が弾み、元気付けられていたというのに、今はこんなにも胸が締め付けられる。この声は今まで彼女に何を伝えていたのか、私に掛けてくれた言葉とは何が違うのか。そんな疑問ばかりが浮かんでは消える。

「ううん、聞いちゃったのは確かだから……もうこんな時間だし送ってあげた方がいいんじゃない?」
「……いや、でも──」
「防犯も」

隣にいるホークスに目を向けると彼もまた私の方を静かに見ていた。私が彼の発言を遮ってまで今言うべきなのはこの言葉ではないことはわかっている。しかしヒーローとしてならばこれが正しい言葉であり、行動なのだ。

「防犯も、ヒーローの仕事でしょ?」
「……確かに」

ホークスが同意するように小さく呟く。彼はもう私を見ていなかった。

「まどかさん明日帰るんだっけ、気をつけて」
「うん、ありがとう」

そしてそのまま非常口から羽根を広げて飛び立っていく彼を見送った。事務所のソファーに座り、ずるずると上半身を横たえると、私の性格と同じくらい目に映る世界も曲がっている。

「……やっぱり行く、よね」

促したのは私だ。なのにいざホークスが彼女を──無論ヒーローとしてというのは理解しているが──追いかけていってしまったことに寂しさを感じている。後悔するくらいなら引き留めればよかったのに。そもそも行くように言わなければよかっただけのことなのに。
これではホークスを試していたみたいだ。彼女を追うのか、追わないのかを。浅ましく、卑しく、情けない。これが私の本性だったのだろうか。

「何様なんだろ、私」

ホークスと付き合っているわけでもなく、個人として何らかの結びつきがあるわけでもない。私達が共にいる時は必ず派遣依頼の契約書を交わしている、仕事の繋がりしかない。そんな私が彼女より優先されるとでも思っていたのかと気づき、ほとほと自分に呆れてしまった。




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