#2−3

 本人は目立たないように生きているつもりでも、あんな風に容姿や言動に特徴があると文句をつけられるのがこの世界ってやつなんだな。と、江藤を見るたびにつくづく思う。……でも、それがいい事だとは決して思えない。

「いい加減、そういうのやめたら」

 面倒ごとには関わりたくないと思いつつ、慣れてくると意外と地が出てくるのが自分の持って生まれた性というやつらしい。泉水は背後を振り返らずに呟くと、江藤に絡んでいたうちの一人が大袈裟に肩を竦めた。

「何? 何か言ったー、さーたけく〜ん?」
「――毎日毎日そうやって静かに暮らしてる人間に絡んで引っ掻き回して、何でそんなに必死なの?」

 ああ、そうだ。これはあれだ。ネット上で、楽しく活動してるだけなのにわざわざ絡んできて中傷する奴らへの怒りに似ているんだとふと気付く。あいつらは本当に迷惑極まりない、そのせいで俺の好きなゲームの実況主さんだって活動止めちゃうし……と思ったところで、二人組がうんと近くにまで来ている事に気付いた。あ、しまった、と思った。見ると二人の額にひくひくと青筋が浮かんでいる。ガタイのいい、殺気を浮かべた男がすぐ傍に二人。今朝の、自分に絡んできた男子生徒を思い出してしまうがあっちよりもこっちの方がチャラいというかイキった雰囲気というか。

(うわ……しまった。しまった、どうしよう。ヤバイ。ここまで怒らせると考えてなかった、どうせ『陰キャが何か言ってるぜ(笑)』『シカトでいいだろ』で済まされると思ったのに……ッ!)

 自分なんて相手にされるまでもない雑魚と見なされていると踏んでいたのに、二人組のうちの一人――名前は何だったか。思い出せないし、Aでいいか――Aの方が半笑いの表情でこちらに顔を近づけてきた。嗜虐的な笑みが、一方的に泉水の恐怖心を煽ってくる。

「もっぺん言ってみて? 何て言ったの、いま」

 救いを求めるように泉水はクラスへ視線を泳がせた。――皆、慌てて目を逸らすのに必死になった。再び目線を戻すと、目の笑っていないAの顔がすぐそこにあった。気分は処刑台に上がらせられた死刑囚。……血の気があっと言う間に引いた。

(俺はやられ役だ。そうだ、俺はこの『物語』で役を演じているだけなんだ。……だから悪口を言われても、暴力を受けても、俺は――)

「さ、佐竹く……」

 江藤の弱弱しい声がしたのが分かった。罪悪感でいっぱいの表情を浮かべながら、江藤はどうすればいいやら分からないといった具合に戸惑っていた。

「どーなんだって聞いてんだろぉーが、てめこらっ、殺」
「まあまあまあ、そういうのは美しくないから。やめときなって。ねっ?」

 Aの身体が動くのとほぼ同時に、割って入った声があった。何だ、誰だ? 教師か? 誰かが教師を呼んできてくれたのか? そっと目を開くと、Aの大柄な身体の背後から現れたのは、こちらは随分とすらっとしたスマートな体躯だった。同じ制服姿がまずは目に入り、それからまばゆい金髪と、「あ、こいつは」と一目で分かるその顔立ち。

「怒らない、怒らない〜 お互い話し合えば解決できる事もある筈。殴ったってさ、お互い嫌な気持ちになるだけだろ? 朝から無駄にエネルギー消費するのも勿体ないよ」

 今にも自分に殴り掛かろうとするAの肩を制止するように持ち、その声の主はまたにっこりと底の知れない笑みを浮かべた。

「…………」

 留学生だとかいうそいつの名前は、確か隣の隣のクラスの――何かワンピースのキャラみたいな名前の奴だぞ。ろ、ろ、ろ……と考え込んでいるうちにAが舌打ちと共に泉水の拘束を解放させた。不意に力が抜け、泉水は椅子の上にドサッと座り込んだ。

「大丈夫かい? ちょっと用事があってここに寄ったら何か起きてるからさぁ」

 そつのない仕草で近寄ってきた彼は青色の瞳をウインクさせながら微笑んだ。――うわ、と泉水はさっきまでとはまた違う苦手意識に囚われた。

「あ、あのーぉ、ロジャーさん……これ、辞典っす」
「あッ、サンキュー。いや〜、ごめんね。僕としたことがうっかりミスしちゃって忘れ物なんか。ありがたく借りていくよ」

 そうだ、ロジャーなんちゃらっていう奴だ。泉水は今更のように思い出し、ロジャーの制服の背中を目で追った。
 イギリスからはるばるこの高校に留学に来たという彼は(この高校は英語に力を注いでおり、海外との交流文化が盛んな事で有名だった。夏休みなんかは、志願した生徒は一週間程カナダにホームステイに行ける企画も存在している。英語が話せなくとも英語のわかる教師がぞろぞろついていくので割と苦労はしないそうだ)、流暢な日本語が特徴的だ。

 何でも日本の友人から教わったというのが本人の弁で、訛りなどはない見事なまでの標準語だった。背はさほど高くない――というか、自分よりも少し低いくらいだと思うのだが、容姿は甘いマスクで金髪碧眼の美青年……といった感じだろう。
 ハリウッド俳優の誰かに似ているだとかで、女子がきゃーきゃー騒いでいた。ちょっと、名前は忘れてしまったけど。

(それにしても、何で彼がちょっと止めに入っただけであんなに怒ってた奴らが大人しく撤退したんだろう? いや別にそれでいいんだけどちょっと気になるな……実はめちゃくちゃ喧嘩が強いとか?)

 いつもの平穏が戻りつつある教室内に、担任が何事もなかったような顔で入ってきたのが分かった。何というかタイミングが遅すぎるし、いっつもかも役に立たないなあと率直に思ってしまった。

「泉水、今日は何だか賑やかしいな」
「――本当にな、俺は只真面目に地味に生きていたいだけなのに何でこうなるんだろうね。まあさっきのは口出しした俺にも落ち度があったけど……でもどうしても許せなかったんだ。ああいうの、何だかあまりに正義がなさすぎて……」

 図書室へと向かう途中の廊下、泉水はシーザーと会話しながら歩いていた。学校では、流石にシーザーに大人しくしてもらう事が多い。学校という限られた空間でこの姿を見られたら、異常者扱いもいいところだ。俺はおかしくない。フツウだ。図書室の扉を開け、中へと入ると先客が一人いるようだった。いつもならこの時間帯は誰もいないのに――と考え、それが誰かを知る。途端にハッと身構えた。

「あれッ、さっきの子だ! やあ、さっきぶりだね!」

 椅子に腰かけていたのは……予想はつきそうなものだが、そう、ロジャーだ。どうでもいいけど本というか雑誌だろうが、それを見ている姿も絵になるな。映画のワンシーンのようだったので、つい見入ってしまって逃げるタイミングを遅らされてしまった。

「……っ!?」

 慌てて扉に手を掛けた時には遅く、ロジャーは雑誌を閉じるとにこやかな笑顔で腰を上げた。さも偶然のような口ぶりだったが、何となくそうじゃない気がした。理由をつけて自分に何か因縁をつけたいんじゃあなかろうか。

「どうしたんだい?……あ、そっか、君も本を読みに来たんだよね!? 奇遇奇遇、僕もだよーっ。ちょっと知りたいレシピがあってね、調べ物をしにきたんだ」

 ニコニコの笑顔で近づいてくるロジャーを、はっきり言って友好的だとは思えず只々怪しいとしか思えなかった。同じ日本人でさえうまく話せないのに、海の向こうの人間相手にどう話せばいいんだ。――あ、と泉水は思い出したように顔を上げた。そうだ。いくらなんでも、さっき絡まれた時に助けてくれた事を一言お礼しないといけないんだと思いが至った。

「……その、さっきはどうも……ありがとうございました。お礼、言うのすっかり忘れてて……」
「ン? ああ。いやいや、気にしない気にしない。当然の事をしたまでさ」

 屈託なく微笑むロジャーは、そこだけ切り取ればとてもいい人そうに見えた。けど何故だろう、泉水にとっては妙に引っかかるものがある。……さあ、義理は果たしたんだ。もうこれ以上、関わる義務はないだろう。自分のこの妙な胸騒ぎに従って、早いとこ距離を置こう。

 そう思って踵を返そうとした矢先だった。ロジャーは「あ」ともう一度泉水を呼び止めた。
 
「今朝だけどさ、学校に来る前に誰かと接触しなかったかい」
「え……」
「あー! いや、身構えないで聞いて。……ごめんね、あいつ結構不器用だから多分怖がらせちゃったんじゃないかなあ〜って……って。アレ!? ちょっとちょっと!」

 ロジャーが再度泉水の方へと顔を向けた時には、既にそこには彼の姿はないようだった。え、と慌てて廊下へと出ると一目散に駆け抜ける泉水の背中を見た。数秒の間にもうこの距離、信じられないものを見るよな目つきでいただろう。
 
「え、ええ!? あっ、ちょっ……待って待って! 多分誤解してるようだから訂正するよっ、君をいじめようと思ってるわけじゃないし痛めつけようなんてこれっぽっちも思っていないから!」
 
 報復しにきたと誤解されたのか、泉水は話も聞かずに逃げてゆくだけである。ロジャーも慌ててその後を追いかけるものの、既に距離が開き切ったのと案外彼が早くて骨が折れそうであった。
 一方で泉水は、今朝とほとんど同じシチュエーションで逃げる羽目になったもののともかく走っていた。夢中で脚を動かし、とにかく教室へと戻ろうとした矢先に誰かとぶつかってしまった。

「あっ、ご、ごめっ、ごめんなさ……っ」
「ちょっと! 廊下を走ってはいけないと何度も言っているでしょう!」

 甲高い怒鳴り声にまずは出迎えられ、泉水はおずおずと視線を上げた。声に覚えがあったのですぐに分かったが、彼女は飛江田(ひえだ)という中年の女性教師だ。担当は数学で、自分は一年の間だけ受け持たれた事がある。
 最後まで名前を覚えてもらえず、わざとかというくらいに名前を間違えられ続けていた。多分、今も彼女は自分の事を認識していない。誰かと誰かをごちゃごちゃにしているようだったが、特にそれに詫びる気配もなかった。……まあ、もう今更どうでもいいんだけど。

「まあ、またあなたなの!? 確か次に注意されたらペナルティーって言ったわよね」

 はて、と泉水は不思議になった。そんな覚えはない。きっとまた別の誰かと勘違いしている気がする――ここで訂正しないと、多分これから先もずっと言われ続けてしまう気がした。それは嫌だな、と泉水が慌てて口を開く。

「え……あ、その、多分それ別の人です……。念の為に名前、確認してください……」
「面倒だからって、適当な嘘を言うんじゃないの。――まあいいわ、名前を調べたらすぐ分かる事ね」

 言いながら飛江田は手にしていたファイルを見始めた。律儀に持ち歩いている辺り、飛江田らしいなあと感心した。やがてファイルの中に控えられていたその渦中の人物と、泉水が違うものだと知ると、途端に眉をしかめたのが分かった。片方の眉を持ち上げ、泉水の顔を見ると飛江田は唇の端を曲げた。

(きっと間違えられた奴も地味で冴えない奴なんだろうなぁ……そんなに俺と似たようなタイプなんだろか?)
「そんな事はないぜ泉水、お前は地味なもんか。とても濃いキャラさ」
(シーザー、説教中に現れないでくれよ。俺は学校では地味で平凡な人物を演じていきたいっていうのに……その他大勢でいるのが楽なんだよ、この空間では)
「このオバハン教師ももしかしたら、外の世界では激しいかもしれないな」
(……、激しいって例えば?)
「それを今聞くのか? どうなっても知らないぞ。……そうだなぁ、例えば……セックス狂で有名かもしれないぜ。この顔はきっと昔、色物のAVに出た経歴があるぞ。異人種のハードコアものばかり選んで出てるような口元だぜ」

「ちょと!! 聞いてるのアンタ!!」

 ヒステリックな絶叫に、泉水はすぐさま現実に引き戻される。びく、っと肩を揺らして正面を向くと鬼のような形相を浮かべた教師がそこにいた。そういえば般若面って激昂した女の顔がモチーフだって聞いた事があった。なるほど、これは確かに――と失礼な事を考えたところでまた檄が飛んだ。

「人の話を聞いている最中にニヤニヤするんじゃないのッッッ」

 その顔が激しく憎悪に歪められたようだった。