#2−4

 いや、違う。本当に彼女の顔は鬼そのものとしか形容できない顔をしている――見る見るうちに鋭い牙と二本の角が生え、眉間をしかめ、激しい恨みを籠らせた顔をしていた。

「聞きなさいッッッ!」
「っ……!」

 腕を掴まれた瞬間には、そのあまりにも強い力に驚いて身を引いてしまった。恐怖のあまりに突き飛ばすような形を取ると、それでますます相手を怒らせる結果になったようだ。飛江田は怒り心頭といった、鬼のような形相――ではない、もはや鬼女だ。こんな時になって、どうしてまた目が、目が……いや、耳も。何もかもがおかしいんだ!

「先生に向かってその態度はなにっ! 先生に向かって、その態度は、なにっ!!」

 泉水は身体を硬直させた。意図せずに、悲鳴が漏れた。その態度が益々相手を怒らせるのに適していた。――どうしよう。どうしたらいいんだ。泉水にとっての脅威はそれだけではない。鬼の怨念にまるで吸い寄せられるかのように……また別の『亡霊』がその周囲を取り囲んでいた。それも一つや二つではない。複数の亡者の影達が、彼女を包み込む邪気のように漂っているのだ。

――な、何だ? 何だ一体? 今までのと状況が少し違う気がする……

 固唾を飲み泉水がその違和感を探ろうとする。と、集まってきたその怨念達の思念体のような、禍々しい存在達は何かを喋っているようであった。聞き取れるか取れないかくらいの、何か特殊な周波数で、『彼ら』は何かを必死にぼやいている――、

『オマエのせいだ、オマエの……オマエのせいでぜんぶ、ぜんぶ』
『許さない、許さない、許されないィイイイ……』
『殺してやるぞ、この外道教師が! 地獄へ堕ちろッ、地獄へブチ堕としてやるゥウウ!!』
「……っ!?」

 醜くいびつに蠢くそれらは皆、どれも憎悪に満ちた罵声を教師に浴びせているようだったが彼女の耳には届いている気配はない。

――こ、これはいつものアレか? だが何か様子が違う……こんなにも『意思』を持った奴らを見たのは初めてじゃないだろうか?

 泉水の前に姿を見せるあいつらの大半は、知性のようなものがまるで感じられなかった。言語を話していたりはしても、それらはまるで意味のなさない言葉の羅列のようなものばかりであり、しかもそのどれもが泉水に対して向けられているものばかりだった。
 今回のケースはちょっとイレギュラーと言えたかもしれない。
 自分ではないまた別の相手に、それもはっきりと感情を述べて訴えている。

――何だ……こいつら、この教師に一体なにを……

「聞いているのかいないのかともかく聞いているのよッ!!!」

 何か探ろうとした矢先の怒号に泉水は思わず身を引いてしまい、うっ、と顔を強張らせた。般若面が世にも恐ろしい恐相でこちらを睨み据えている。――恐ろしい、怖いなんてものじゃない、今まで見てきたような奴らとは格が違う。

「おい泉水、こいつはちょっと関わらずに逃げるか謝るかした方がいいンじゃねーのか?」
「う、うん……そうだねシーザー。普通はそうするね……で、でも、このままも何だか、い、いけない気がするぞ……教師に纏わりついている怨念みたいなのが見える?」
「分っかんねえなあー、スタンド使いはスタンド使いとしか惹かれあわねえみたいし」
「とにかくそいつらが、俺を無視してあの教師を『殺す』と言っているんだ。いつもと様子が違うんじゃない?」
「……確かに。これはちょっと俺ちゃん、危険なオイニーがするぜ」
「サっきカらナァニをごっちゃごちゃゴッチャゴチャと言ってイルの!!!」

 いやに甲高い、金属じみた教師の声が矢のように飛ぶ。泉水らの耳に突き刺さる。彼女はもはや彼女と形容するのも恐ろしいくらいに鬼女そのものと化し、白髪を振り乱し、昔何かのサスペンスドラマで見た夜叉のような装いをしていた。白い着物をまとい、同じように真っ白な毛をたなびかせ、何故かその片手には斧が握られている。死の危機を感じた。――やばい。いや、多分、本当に殺される気がする。

「フザケテイルト、アンタも殺すワよ!!」

――!? あんた「も」殺す?……不可解な言葉にすぐさま泉水の手は止められたが、対処の仕様が思い浮かばない。どうしたらいいんだ。あいつらと、怨霊どもに何かコンタクトを取る??

『っざあああけんなぁああああ殺して、して、じでや゛る゛ぅ゛う゛あああああああ』

――だ、だめだ。怖すぎる……どうしよう、一体どうすれば……ッ

 立ち向かう勇気なんかこれっぽっちもない、というか、対処法なんかまったく分からないわけで。立ち竦む泉水だったが、救いの手は思わぬ場所から差し向けられたらしい。
 
「ヘイヘイヘーイ、ちょ〜っと待って。お二人さん、っと!」
「!?」

 思わずバッと身を引くと、先程の――そう、ロジャーである。ついさっき彼から逃げてきたわけなのだから、彼もここまで必死で追いかけてきたに違いない。にも関わらずに、息一つ髪の先一つ乱していない彼の振る舞いと言ったら、一体どこまで隙がないのか。

「や。二回目だねっ、佐竹泉水クン」
「……っ!」

 ていうか、しまった。感心している場合かよ。追いつかれてしまった、敵が二人に増えてしまったじゃないか!
 しかし、ロジャーはくるんとこちらに背を向けると教師の方へと向き直った。不思議な事に、教師の顔に張り付いていた夜叉のような恐相がぱりぱりぱり……と、音を立てながら剥がれ落ちていく。力を失くした魔女のような、いやはや、呪いを解かれたか弱い普通の女性の姿しかそこにはなかった。周囲を渦巻いていた憎悪の群れも、同時にモヤが晴れていくかのように薄まってゆく。

「泉水、あいつが近づいた途端に禍々しい感じがスーって引いたな。俺は視覚じゃ捉えられないから、感覚的なもののみなんだが」
「う、うん……」

 そうとしか答えられずにボンヤリとしていると、ロジャーがくるんと振り返りこちらに軽やかなウインクを決めた。アニメなら光のエフェクトが入りそうな勢いであるけど。呪縛から逃れられたかのように、足取りが軽くなるのが分かった。

「もうすぐ授業始まるから行っていいよ、泉水クン」
「い、泉水くん……? いつの間に俺達そんな間柄に、」
「ちょっと、あなた。確か留学生のロジャー君だったかしら。何勝手に……」

 ずいっと負けじと前に出てくる飛江田もものともせずに、ロジャーはその姿勢から更にこちらを一瞥し、すぐさま教師に向き直った。視線で『早く行け』と促されたようだった。

「泉水、従った方が良さそうだぜ。また変な奴らが出ても困るだろ、今のお前じゃあキャプテンアメリカよりも弱い」
「あ、アベンジャーズが纏まってるのはキャップのお陰じゃないか! 馬鹿にするなよ!!」

 傍目から見ればただ一人で大騒ぎしているだけの危険人物でしかないが、まあともかく――ロジャーは彼の姿が廊下を曲がり見えなくなるのを見届け、それから飛江田を見つめた。不機嫌丸出しといった具合の彼女の顔を捉えつつ、ロジャーはいつもと変わらぬ調子で続けたのだった。

「時に先生。とある高校で起きた……あーーーっ、こんな事件の話を知っていますか?」
「?……何よ、突然……」
「教師で二十代の女性を、男子生徒らがよってたかってレイプした話です」

 脈絡なく語られたロジャーの話に、飛江田の表情が目に見えてぎょっと変わった。眼鏡越しの両目は見開かれ、額からは一筋の汗が流れるのを見逃さなかった。

「……そ、そんな話、今一体、そもそも私に何の関係が……」
「誰も貴女と関係があるなんて一言も言ってませんよ、先生?」
「…………」

 反応はなく、彼女は黙り込む。やがて飛江田が肩を竦め、何かを悟られまいとするかのように口を噤んだ。警戒するような視線をこちらへと向けるものの、ロジャーはこめかみのあたりをトントンと指先で叩きつつ謡うような調子で言った。

「まあ、元々その行為に加わった男子生徒はどうも買収されそそのかされたようなんですけど――まあ、知れば知る程根の深い話でしてね〜コレがまた。女性教師を暴行、リンチした男子生徒は最低でも七人はいたそうです。それを笑いながら映像媒体に収めた女子生徒も含めると十人はいた可能性も――」
「さっきから一体何の話をしているのよッ!!」
「ちなみにコレは九頭竜高校で起きた話です。……回りくどい話はやめましょうかね、先生の娘さん、事件の主犯だったそうですね。指示した生徒はまた別にいたようですけど、その生徒も飛江田先生の子どもなら事件をあれこれもみ消しやすいからとその子に頼んだだとかで」

 いささか芝居がかった調子で、ロジャーが一息に告げた。飛江田の愕然とした顔つきが向けられた。しかしすぐに、嫌悪で歪むのが分かった。

「涼音ちゃん、僕には何でも話してくれますからね。これまでにも色んな事を教えてくれたんですよ。気に入らない女子生徒をイジメて自殺未遂に追い込んだ事や、ムカつく塾の先生、近づきたい男の彼女や元カノ、気に食わない先輩、バイト先の嫌いな客に店長社員……」
「うちの娘にもう近づかないで頂戴!!」
「僕がそうしなくとも、涼音ちゃんの方から近づいてきますから」

 ロジャーが笑いながら所持しているスマートフォンの画面を見せた。――よく撮れている。それは見知った自分の娘だ……自分の……、制服姿の涼音が嬉しそうにピースサインを決めている。その隣には、自分の旦那と同じくらいの年齢をした中年が全裸にされ体育マットで簀巻きにされている。薄くなった後頭部がこちらに向いているだけで、顔や体型そのものは細かく判断が出来ないが。

「ベッドでは素直ないい子ですけどね」
「死ねこの悪魔ッ!」

 怒号と共に飛江田の平手打ちがロジャーの頬に飛んだ。飛江田は手にしていた書類も全てぶちまけ、我を忘れロジャーに飛びかかった。騒ぎを聞きつけた教師陣が慌てて駆け寄ってきて、飛江田を止めた。

「飛江田先生、ちょ、ちょっと! 何があったっていうんですか!?」
「殺してやるっ! ぶっ殺してやる、この悪魔めっ!」
「ぼ、僕は只先生にちょっと話があっただけです、だから何も……っ!」

 途端に被害者の表情になり、ロジャーは大袈裟なまでに身を竦めて見せた。スマホを奪おうとその腕に飛びかかる飛江田に、ロジャーはわざとその本体を足元に落としたのだった。

「あっ……ちょ、何するんですか先生! まだ支払いが残ってるのに……っ」

 どうでもいい戯言には耳を貸さず、飛江田はスマホに飛びかかった。男性教師が二人がかりで彼女を制止しているというのに、この腕力にはその場にいた誰もが目を丸くせざるを得ない。

「ちょ、ちょっと先生! 今のは暴力沙汰ですよ、これは……」
「何ですか? そのスマホに一体何が……」
「近寄らないで! 誰も私にそこから近寄らないで、指を触れても訴えるから!!」

 飛江田のその顔は怒っているのかはたまた泣いているのか、とにかく喜怒哀楽の全部をごちゃごちゃにしたような何とも言えない顔をしていた。真っ青になったりかと思えば赤くなったり、暴力的に切り替わる色彩の顔色は何故かロジャーにアンディ・ウォーホルのアートを思い出させていた。

「……ン〜、少しやりすぎちゃった」

 その声は誰にも聞こえていないだろうが、ロジャーはとにかくため息交じりに片手で髪を掻きながら少し笑って見せた。